1-2 日向、拉致られる
以降、放課後だけでなく休み時間も光は日向を狙い続けた。が、残念な運動神経のわりに逃げ足だけは異常に早く、なかなか手中にできずにいた。
「まだ水無月くんのこと追っかけてるの? いい加減あきらめたら」
授業前というのにグッタリしている光に、頬杖をついた野巻アカネが諭すように言う。
アカネは舐めていた棒つきキャンディを口から出して、マイクのように持ち直す。
「私の後輩も、水無月くんに振られてさ。諦めきれずに追い回したけど、逃げ足が早すぎてストーカーにもなれなかったらしいよ」
唾液に濡れた飴玉を向けられて、光は不快そうに顔をしかめると、むぅ、と唸った。
「逃げるなんて卑怯だろう。私は諦めないぞ、まだ。――そうだ野巻、ちょっと協力してくれないか」
「なあに。光のためならエンヤコラだよ」
「空き教室の鍵を調達して欲しい。演劇部の衣装合わせで使うとか理由をつけて」
「いいけど……何をするつもり?」
「追いつめて、強制的に治療してやる」
「治療とは、またいかがわしい言葉ね。大丈夫?」
心配そうなアカネに、光は「たぶん」と不敵な笑みでうなずいた。
*
このところ途切れなく続いていた雷宮光の襲撃が、今日はまだ一度もない。
久しぶりに穏やかな気分で、日向は部活動に向かうところだった。しかし油断はできない。どことなく気配を探るのが癖になっている。
「わ、すごい積乱雲だ」
まっすぐ体育館に行くつもりだったが、つい足を止めてしまった。
廊下の窓から、ソフトクリームの大群みたいな入道雲が見えたのだ。昔から空が好きだった。あの雲の先に無限に広がる宇宙が――と想像するだけわくわくした。
「明日の天気は雨か」
端正な顔でほほ笑む。そんな自然を愛する無垢な少年に――とびっきりの不幸が襲った。
突然後ろから羽交い絞めにされ、もの凄い力で階段脇にある教室まで引っ張られると、そのまま中に押し込まれる。
「痛っ! うぅ」
ここは……? 放り出されて尻もちをついた日向は周囲を見渡す。
黒板はあるが学習机と椅子はなくて、乾いた雑巾みたいな匂いがする。空き教室か。
ふいに視界を遮られた。目の前に二人の女子が仁王立ちしている。
「――久しぶりね、水無月くん。相変わらずの王子様フェイスじゃないの。今からでも遅くないから、入ろう演劇部」
「イヤです。ていうか野巻先輩なぜここに? 雷宮先輩も!」
「野巻、ありがとう。もういいよ」
「グッドラック光」
ひらひらと手を振って、アカネは教室を出ていった。
グッドラックって、どういう意味だろう。状況が理解できず固まっていると、光がゆっくりと近づいてきた。
「やっと捕まえた」
「えと、何でしょうこれは」
「君が悪いんだぞ。逃げるから」
「告白なら断ったはずですが」
「私のことが嫌い?」
「そういうわけじゃ……」
「はっきりしないな。中途半端な態度じゃこっちも諦めがつかないだろう」
「すみません」
消え入りそうな声で謝り、黙りこんでしまう日向。光は腕組みしていた手を解いて、彼の前にしゃがみ込む。
「女性恐怖症ね。そうなる原因があったの?」
日向は無言のまま目を伏せた。頬に睫毛のかげができる。答えるつもりはないらしい。
光は小さく息を吐く。
「言いたくなければいい……でも、このままじゃあんまりだろう。何があったか知らないけど忘れた方がいい――私が忘れさせてあげる」
つ、と頬を撫でられ、身をすくめた日向は息をのむ。
間近にせまった光の表情が予想外に優しいものだったから。
力強い瞳に真っすぐ見据えられ、つい魅入ってしまう……気付くと焦点が合わなくなっていて、唇に柔らかい感触がした。え? ええ?
「っ!」
キス。
キスされた!
キスしてしまった!
数秒後に気づいた日向は、顔色を赤くして青くした。
心臓の鼓動がどくんと波打ち跳ねている。鼻の奥がつんとした。ああ……意識が遠のく。
一方、顔を離した光は艶っぽく微笑むと、てきぱきとした動作で掃除用具入れのロッカーからモップを取り出し、教室の前方と後方の扉にひっかけて出入りを封じる。
「これで誰にも邪魔されない」
スカートをふうわりさせて座り直すと、今度は日向のネクタイに手をかけてくる。
「あのう」
「なに」
「何をしているんですか」
「だから、治療よ。最初は自尊心が傷つくかもしれない。けど、水無月君には荒治療が必要だと思う」
「だから何の治療ですってば!」
「大丈夫すぐ慣れるから」
一点の曇りもない美々しい笑顔で、オヤジな発言。
やっぱり雷宮光に関わっちゃいけなかったんだ……! 一瞬でも油断した自分が憎い。
後悔する日向だがそれどころじゃない。
貞操の危機である。
しかも相手は、細身の女子とはいえ、鬼と呼ばれた剣道部の元部長様。抵抗して組み合っているが、すでに力負けしそうだ。
カッコ悪いが外に助けを求めるしかない。
日向は、覚悟を決めて、大きく息を吸い込んだ――が、
「ぐわあっ!」
響いた悲鳴は彼のものでなかった。同時に何かがぶつかり合うような鈍い音がした。
「今の……?」
ただならぬ気配に、ふたりは顔を見合わせる。
日向に覆いかぶさっていた光はすっと立ち上がり、みずから作った防波堤を崩して、教室を飛び出した。
「あっ、先輩、ちょっと!」
わけが分からないまま、廊下をかけていく光を追いかける。
長い廊下の突き当たりの階段下で何かがうごめいていた。近づくにつれて、その正体が明らかになる。いかつい体格の男子がエビのように背中を丸めて倒れていた。
「どうした、中園!」
知った顔なのか、男子の傍らにしゃがんだ光が名前を呼んだ。
「くそ……京島のヤツ」
「京島?」
光が繰り返すと、短髪の男がはっとしたように口をつぐむ。
一方、日向は階段の踊り場に視線をやっている。もうひとり、大柄な男子が仰向けに倒れていた。半開きの唇から、うう、と低い呻きをもらしている。
「ちょっとどうしたのよ、光?」
二階の手すりから野巻アカネが身を乗り出している。騒ぎを聞きつけてやって来たのだろう。アカネの背後で、数人の女子生徒がこわごわと階下を見下ろしている。演劇部の部員だろうか。
「それ空手部の京島くんじゃん! いやっ、死んだ? 死んでるの?」
「死んでいない。気絶しているだけだ」
混乱してわめくアカネに、昏倒した男子の脈をとった光が冷静に返す。光は意識のある方の中園を振り返って、
「いったい何があったんだ」
「……なんでもねえよ」
「何でもないわけあるか!」
怒鳴られた中園がそっぽを向く。
光は、京島の腕を自分の肩に回して半身を起こさせた。うぅ、と微かに京島がうめく。
「保健室に連れていく。水無月君、手伝って」
「は、はいっ」
光の逆側から京島の体を支えて、なんとか立ち上がらせた。ぐったりした巨体は鉛のように重かった。いち、に、と光のかけ声で歩調を合わせ、無事に階段を下りてから日向は気づく。
階下にいたはずの中園が消えていた。