10-1 平和な日々をぶち壊すもの
卒業式二日前。
惚けたような、平淡な日だった。平和といっても良かったかもしれない。このときまでは――。
「合格おめでとうございます」
二月も下旬になると、三年生は、登校していない生徒が大半だ。
その少数派である雷宮光は、家庭科準備室の窓辺で気だるそうにしている。
「東京で受けた試験の方は、まだ結果出てないけど」
「黒志山大に合格したから、もう安心じゃないですか。お祝いのプレゼント、少し待っててくださいね」
水無月日向は、掃除用の雑巾をダンボールに詰めこんでいる。日直の雑用だ。
「お祝いなんていらない」
素っ気なく答えて、光は手招きする。おいでおいで。
「それより、キスでもしよう」
「……ここで?」
用もないのに光が登校してくるのは、日向に会うため。
休み時間のたびに連れ出されるので、クラスメイトからは呆れた目で見られている。繋がれた両手を押しのけようとするが、
「ぬあーっ! ちから強っ!!」
「お前が非力なんだよ」
幼い頃から武道を嗜んでいるだけあって、細い体のわりに力が強い。押し合いだけで負けそうだ。
「先輩は卒業だからいいけどっ、僕はあと二年ここに通わなきゃいけないんです!」
「それなんだよ。置いていくの嫌だな。飛び級しろ」
「メチャクチャいわないでください。僕、成績良くないし」
そもそも彼らが通ってる高校に飛び級の制度はない。
「学校でこういうことが出来るのも最後かもしれないよ?」
「だから……。わざわざ学校でしなくていいと思うんですよね」
「ふたりだったらいいの?」
「まあ」
照れてうなずいた日向に、光は瞳を大きくして、スローモーションのように周囲を見回し、小悪魔っぽく微笑んだ。
「ふたりきりだよ――?」
「…………」
卒業式間近の特別棟は、昼休みだからという理由だけでなく、誰の気配もなく静まり返っている。
家庭科室の方から、ぴちょん、と水音がした。調理台の蛇口から水滴が垂れた音。たしかに、大勢のなかでは聞こえにくい――“ふたりきり”の音だ。
「ん……」
心臓の鼓動が飛び跳ねるのは、最初のキスから変わっていない。唇を触れ合わせた後、焦点の合わない距離でしばらく見つめ合う。が――
ごつっ
甘やかな雰囲気をぶち壊す物音がした。
ふたりは音がした方へ視線を走らせる。それほど広い部屋じゃない。すぐに見当は付いた。
掃除用具のロッカー。
かたわらに、モップが一本所在なげに立てかけられている。妙な話だ。すぐ傍にロッカーがあるのに放置されているなんて……。
出されている体積分、何かが入れられた? 誰かが隠れているとか――? まさか。
シャツの襟元を手繰り寄せて、光がロッカーに近づいていく。モップを手に取り、低くささやく。
「誰かいるのか?」
返事は無い。不気味な沈黙。
片手でモップを構えたまま、ロッカーの取っ手をつかむ。
突っ立ったままの日向に、光が合図を送ってくる。開けるぞ。おずおず頷くと、光は、無駄のない動きで、素早くロッカーを開け放った。
「……あ」
*
「水無月、ちょっと」
放課後。特別棟へ向かうところを、細くて長い男に呼び止められた。
「――練雨先輩」
天文部の元部長、練雨恋治。
マッチ棒を連想させる体躯で、腰に手を当てて、気取った仕草をしている。
「お前。最近たるんでるぞ」
マッシュルームカットの髪をかき上げ、高圧的に言い放たれた。
雑巾の入ったダンボールを持つ日向は、ぽかん、として、
「部活を辞めたことですか……?」
思い当たることは、それしかなかった。
三学期に入ったばかりの頃、日向は、天文部に入部しようとしたが色々あって断念した。
その際、所属していたバスケットボール部にも退部の意思を伝えていたので戻れず、現在は何も部活動をしていない。帰宅部だ。
しかし、練雨はまったくわかってない、といったふうに、
「まったく! 休み時間のたびに雷宮と抜け出して制服乱して帰ってくるって。学校中の噂になってるぞ」
日向はすっと蒼ざめた。
「それ、嘘ですよね……?」
「何だその反応は。図星か」
練雨はこれ見よがしに溜息を吐いた。
「頼むよ水無月。前は、もっとシャキッとしていたじゃないか。制服だって優等生っぽく着こなしていたし。そういうお前を気に入ってたんだよ、俺は」
はあ、と日向は床に置いたダンボールを持ち上げる。
「すみませんでした。以後、気をつけます」
「分かってくれたらいいんだ、うん。用事が終わったら、天文部の部室まで来てくれ。頼んだぞ。じゃ」
「えっ、なんで天文部に……?」
一方的に伝言を残し、去っていった練雨。
結局、彼は何をしたかったんだろう――? 演技じみた態度に違和感ありまくりだ。日向が、練雨のキャラクター性について思い出していると、
「ヒーナータくん」
小柄な女子が横に並んできた。
クラスメイトかつ幼馴染の宮西カナである。華奢な両腕で野菜の絵が描かれたダンボールを抱えている。その後ろに、同じく箱を抱えた女子がひとり。
「これから料理部の実習なの。材料を運んでいるところ」
「何を作るの」
「今日はね、スイートポテト!」
ということは、箱の中身はサツマイモか。
いいなあ、と目を輝かせる日向に、余ったら分けてあげるね、と料理好きの幼馴染はご機嫌そうに微笑む。
「バスケ部もやめちゃったし、どうせ暇なんでしょ。一緒に作らない? 料理部おススメだよ」
カナの誘いに、傍らの料理部員も「おいでよ」と声をかけてくれる。隣のクラスの女子だと思うが、名前までは思い出せない。
「それに、料理とか少しは出来るようになって欲しいし」
両親が不在がちな水無月家の家事を代行しているカナが、つぶらな眸で睨んでくる。
「ありがと……でも、雷宮先輩が許してくれないと思う」
料理部員は殆どが女子なのだ。嫉妬深い光が許可する筈ない。
でもさ、とカナは膝をもじもじさせる。
「雷宮先輩はもう卒業しちゃうんだよ。日向くんの高校生活なんだから、好きなようにしたら良いと思うけど……?」
遠慮げに発言したカナに、日向は曖昧に笑って返した。
家庭科室と家庭科準備室。
行先が一緒なので、しばらく並んで歩く。家庭科室の開いた扉――カナたちが開けておいたのだろう――から入る。
薄いカーテンが引かれていて、雪解け時期の陽光が、やんわりと射し込んでいる。
「よいしょっと……?」
四つ並んだ調理台のひとつ、手前の台にダンボールを置いたカナは、ほえ、と変な声を上げた。
つられて日向も顔を上げる。
窓際の奥の調理台に似つかわしくない布製の物体がのっていた。
何だろう――?
好奇心のおもむくまま、日向は、近づいていく。
「……っ!?」
喉の奥で呼吸がつまるような感覚。
オレンジ色の毛糸の髪。青い瞳。黒いオーバーオール――子どもらしい容姿の《人形》が、仰向けに寝かされている。
異様だったのは、首から上と下とが切り離されていることだった。さらに、ふっくらとした腹部には、包丁が突き立てられている。
「きゃあああああああっ!」
背後で、女子たちの高い悲鳴が上がったのは、数秒後のことだった。




