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階段下は××する場所である  作者: 羽野ゆず
Interval03 安楽椅子探偵
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戻るには遅すぎる―Too late to return【後編】

「そんなことって……!」


 勢いあまり、席を立ってしまった光。

 日向はおののいたように身を引いている。ライオンに襲われたウサギのような怯えた目で見上げられ、ひとつ咳払いをして光は座る。


「――あのな。無断欠勤って、簡単にいうけど。そんなことをしたらタダでは済まない。ペナルティを課せられたり、最悪解雇される場合だってあるんだぞ」

「す、すみませんでした……」


 自身がとがめられたように謝り、ぼそりと付け足す。


「でも、彼女たちの覚悟がどの程度のものか。僕には分かりませんから」


 誤魔化ごまかすように、へらり、と笑った。


 まったく、なんという――!

 ソーダ水の炭酸が抜けていくように、議論の熱がしずまるのを光は感じていた。アンケート用紙の裏にのたうっているミミズの字を、あらためて見下ろす。

 素性すじょうも知らぬ他人の会話記録。こんなものから得た“空想”に腹を立てるなんて……。馬鹿らしい。無駄だ。


 日向の腕時計を見やると、午後四時まであと五分である。

 どうせなら最後まで付き合ってやろうじゃないか――。光は、制服のリボンを緩めて、桜色の爪で最後の一文を指す。


「じゃあ、これはどう解釈したらいい?」


『たいちょう の あいず までじっとしていよう』


 日向は、ひとくちサイズのドーナツを口に放り込んで、ペンを手に持ち、


 隊長 合図


「やはり、この二つですかね。(キー)になるのは」

「〈合図〉は分かるとして。〈隊長〉というのは?」

「そのとおりの意味です。いうなれば、作戦のリーダーですね」

「彼女たちの他にも、〈上司〉に嫌がらせをたくらむ人物がいると?」

「おそらく。チームなんです」

「チーム?」

「それほど大きな組織ではないと思いますが、チームの中に〈隊長〉と呼ばれる存在がいて、彼女たちに何らかの〈合図〉を送る予定である、と」

「……だんだんと机上の空論っぽくなってきたな」


 興ざめしたような光の反応に、日向は憮然として唇をとがらせた。


 隊長、ね。

 光は失笑する。大人が使うにしては、子供じみた呼称だ。推理の現実味が薄れていくのを自覚したのか、日向は急に静かになった。

 カウンター席の女子高生コンビは、いつの間にいなくなっていた。奥のボックス席には、いまだ渦中かちゅうの女性たちが陣取っている。


「ごちそうさまでした」


 ドーナツをすべて食べ終えた日向が、両手を合わせて黒髪の頭を下げる。

 仕上げにココアを啜っている。よくもまあ、あれだけの油菓子を平らげて、しれっとしていられるものだ。今はいいけど、オヤジになったら太るタイプかもしれない。


 夕方めいてきた窓の外に比例して、ドーナツ店には、客が増えてきていた。

 部活動を終えた学生たちや、サラリーマンの姿もちらほら見られる。

 ざわめいた店内で、その声(、、、)は、やけに浮き立ったように玲瓏(れいろう)と響いた。


「課長。私たち、これから就業時間までストライキします」


 失礼します、と通話が終わる。電話口の話し方だった。

 光と日向は顔を見合わせる。

 腕時計は、午後四時ジャストを指していた。




 

 それきり――。

 ボックス席の三人は口数が少なくなり、重苦しい雰囲気を漂わせるようになった。必然的に、光と日向も話しづらくなる。


 ストライキ。

 やけに明確に美しく発声されたそれに、光はうすら寒さを覚えていた。

 労働者の権利、雇用者への抗議として労働を行わないこと。受験勉強で詰め込んだ、うわつらだけの知識が頭の中をぐるぐる回っている。


「おかしいですね」


 息をひそめて日向が言う。


「“隊長の合図”――そんなものが無くたって、彼女たちの今後の行動は決まっていますよね」


 電話口での台詞と最後の一文。光はうつろな表情で答える。


「就業時間までここでじっとしている……」

「ですよね……さっきの解釈が違っていたのかな」


 たいちょう、あいず、と口のなかで繰り返す日向。


「隊の長じゃなくて、身体の〈体調〉か? でも、体調の合図、というのも意味が通らないし」

「空腹でお腹が鳴るとか」


 日向によく見られる体調の合図である。


「意味がわかりません」

「ふふ」


 気持ちが少し回復した光は姿勢をととのえて、


「他には、潮が引く〈退潮〉とか? そんなの内陸じゃ滅多に使わないしなぁ」


 互いに思考をめぐらす沈黙の時間。

 やがて日向がはっとしたように瞳を瞬かせた。その顔色は何故か青ざめている。


「――もしかすると、彼女たちの職種(、、)が分かってしまったかもしれません」


 説明よりも先に、ミミズの文字が増殖する。


 退庁たいちょう


「勤務を終えて帰ることを、普通の会社では『退社』というところを、省庁や都道府県庁等に限って、こういう言い方をします」

「……ああ」


 光は合点がてんがいったように、


「銀行だと、入社じゃなくて入行っていうんだっけ。ドラマでやってたな」


 若干ズレたコメントをする。


「〈合図〉というのは、就業時刻を知らせるアナウンスじゃないでしょうか。夕方にたまたま、区役所に居たとき流れるのを聞いたことがある」


『業務終了時刻です。本日も大変お疲れ様でした』――退庁の合図(の時間)まで、じっとしていよう。


 ほう、と光が腕を組む。


「やけに詳しいな」

「親が公務員なので」

「ん……ちょっと待てよ」


 光の猫のような双眸に鋭さが宿る。


「省庁とか都道府県庁に勤めているのは、『公務員』だよな……?」


 尋ねられるよりも早く、日向は学生鞄から公民の教科書を取り出していた。ぱらぱらと捲り、ページに目を落とすこと数十秒。

 やっぱりそうか、と絶望的にもらす。


「公務員は業務の性質上、労働基本権のうち争議権――『ストライキ』が全面的に禁止されています」

「じゃあ――」


 ずいっと身を乗り出す光。


「彼女たちは、“違法行為”をしているってことじゃないか」


水無月みなづき!」


 光の叫びと同時に、大声で呼びかけられた。

 日向のクラスメイトの少年たちが二階のイートインスペースへと上がっていく。日向と光、交互にニヤけた視線向けながら……。


 しかしそれどころじゃなかった。

 水無月、と名前を呼ばれた瞬間――。

 ボックス席の女性たちが、驚くほど露骨ろこつな反応を示したのである。席を立って覗いてきた眼鏡の女性は、いまだ険しい目つきで日向を凝視している。

 明らかに普通の様子ではない。


「――先輩、ここを出ましょう」

「は?」

「いいから早く」


 何が起こっているのか全く理解できない。

 呆然としている光を強引に立ち上がらせ、背後を振り向かないよう、日向はすばやく店を出る。

 キャリーケースを右手に、光の腕を左手で掴んで、足早に歩く。走る。

 地下鉄駅の出入口に着いたところで、日向はようやく立ち止まった。肩で息をしながら、ごめんなさい、と強引に連れ出した光に、まず謝る。


「〈退庁〉の意味が分かったとき、思い当たることがひとつありました」

「思い当たること?」

「昨日の晩、父さんがぼやいていたんです。課長の父の配下で、係長と部下の折り合いが悪くて困っている。彼らにトラブルが起こらなければいいんだが、って」


 光はいぶかしげに眼を細める。


「親が公務員と言ってたな。お父さんの役職は?」

「この区の市民課長です」

「課長……? もしかして、さっき電話で話していた相手って」

「ついでに、僕は、どちらかといえば父親似といわれます」


 弱ったように告げる日向をしり目に、光は急速に考えを巡らせた。


 トレンチコートの女性が通り過ぎる際、日向をチラ見してきた時のこと。

 あれは、色目じゃなくて、“気付き”の視線だったのではないか。

 この子、誰かに似ている――?


「じゃあ、さっきの女たちは、お前の父さんの部下かもしれないってことか? いいのか、このままで」


 軽く睨むと、日向はぶんぶんと首を振る。


「僕にできることなんて何もありませんよ。そもそも、ストライキって、労働組合とかで行うのが本来だと思うし……さっきも言いましたけど、彼女たちの覚悟がどの程度かだって怪しいものです。それに――」


 日向は語調を強める。


「これまでの話は、何の確証もない、ただの推論です。机上の空論。先輩だって、そう言ってたじゃないですか」

「……お前ってやつは」


 呆れたような、情けないような。光は複雑な気持ちになる。

 歯がみする彼女に、悪びれもなさそうに話しかけてくる。


「雷宮先輩。“安楽椅子探偵”って知ってます? 推理小説のジャンルのひとつで、現場に行くことも部屋を出ることもせずに、事件を推理する探偵のことです。さっきの僕らは、その真似事をしていたと思いませんか」

「…………」


 光は天を仰ぐ。

 どんよりとした灰色の空から、雪がちらついてきた。


「たとえ探偵の推理が的中しても、犯人を追いつめるのは彼らの役目じゃないんですよ」

「なんでだよ」


 詰問口調で返すと、日向は目をぱちくりさせた。長い睫毛に粉雪のかけらが乗る。


「なぜって、始終座っているだけの彼らにそんな権利ないからです。――もう、行きましょう」


 終わりの合図のように鼻を啜る。

 あとはもう何の未練もなく、キャリーケースと光の手を引いて、地下への階段を下りていった。

 雪の勢いはますます強まり、札幌の街を(ほの)白く染めてゆく。



【to be continued...】

お読みいただきありがとうございます。

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