戻るには遅すぎる―Too late to return【前編】
「重くない?」
街中の歩道は雪解けの気配があるものの、氷が張った箇所もまばらにある。
ゆえに、キャスター付きの旅行鞄をときおり持ち上げて運ばねばならない。
「このくらい平気ですよ。軽いし」
アピールするように、水無月日向は取っ手を持ちなおす。
「そう?」
雷宮光は、意外なほど恐縮していた。よほど非力と思われているのか、心外だ、と日向は心のなかでぼやく。
「東京での試験は来週でしたっけ」
「うん。二泊三日で行ってくる」
大学受験で上京する光が小型の旅行鞄が欲しい――とのことで、買い物に付き合った帰り道である。放課後すぐに合流したので、ふたりとも制服姿だ。
「日向も連れていきたいな」
本気なのか冗談なのか分からない調子で光が言う。日向と鞄を交互に見つめて、
「キャリーケースに詰めて」
「入りませんよ」
「じゃあ、バラバラにしたら」
「怖いです」
「陽太なら、そのままでも入るかな」
光を好いている弟の名前を上げられ、日向はゲンナリ顔になる。
「やめてくださいよ。アイツ、今度はいつ先輩が家に来るんだってうるさくて」
雪まつりの時期は過ぎたが、赤レンガ旧庁舎前にはカメラを構えた観光客が少なからずいる。
撮影の邪魔をしないように彼らの背後を通り過ぎる。
「どこかで休憩しようか。買い物に付き合ってもらったお礼に奢るよ」
「そんな」
悪いですよ、と断わろうとしたところで、ぐぅと腹が鳴った。
光は笑って、
「何が食べたい?」
「――じゃあ、ドーナツ。大通りまで歩きますけど、いいですか」
「近いじゃないか」
地下鉄一駅分の距離である。
光にとっては、全く苦にならないらしい。ならば、と日向も気合を入れて歩き出す。学校が午前授業だったので、通学鞄の中身が公民と数学の教科書だけ、と軽いのが救いだ。が――
「あれ?」
大通りに着いたところで、日向は立ち止まった。
「ここに在った筈なのに」
目当てのドーナツ屋がなかった。
この辺りは、街の代表的な通りでショーウインドウの並びがめまぐるしく変わる。代わりにお洒落なカフェが入っていた。ダメだ。こじゃれたカフェのメニューじゃ、この空腹は満たされない。
「ドーナツ屋、他に無いの?」
「あるけど、ススキノまで歩くことになりますよ。札駅に引き返しましょうか」
「いや」
光はポニーテールの尻尾を撫でる。
「来た道を戻るより、進んだ方が良いだろ。ここからススキノまでなら、そう遠くないし」
彼女らしい台詞である。かくして、さらに一駅分を歩くことになった。
十五分後――
日向は後悔し始めていた。なぜドーナツを食べたいなんて言ってしまったんだろう?
新品で空の旅行鞄が、重たく感じ始めていた。でも、今さら引き返すことはできない。少し前を歩く光の、きゅっと締まったふくらはぎを眺めつつ、辛抱強く進む。
「つ、着いた……」
お馴染みの看板を見つけて安堵していると、脇腹をつつかれた。
「ご苦労様。ほら、行こう」
旅行鞄を奪って、光は颯爽と店の入り口へ向かう。
日向は、空いた手で汗ばんだ額をぬぐい、二学年上の彼女をぼんやりと眺めた。
卒業式が間近に迫ってきている。こうして制服で一緒に歩くのも最後かもしれない。そんなことを思った。
どこからか午後三時を告げる時報が聞こえてきた。
*
「コーヒー。砂糖もミルクもいりません」
甘い香りがただよう店内で、光はすみやかに注文する。
一方、日向は、宝石を発掘するようなキラキラした目で、ドーナツ選びをしている。奢ってくれるから、と遠慮したらしいが、それでもトレイにはドーナツやらパイがひしめいていた。
「やっぱり自分で支払います」
「いいよ、席とっておいたから座ってな」
イートインスペースには、窓際のカウンター席のほか、三つのボックス席が設けられている。
最奥、二人の女性が陣取ったボックス席の手前が空いていたので、旅行鞄を押し込みそこに座る。
「いただきまぁす!」
コーヒーを啜る光は、幸せそうにドーナツを頬張る少年を観察する。
彼女自身スイーツは苦手だが、猛烈ないきおいでドーナツが消費されていくのを眺めるのは爽快だ。リスのように頬を膨らませた日向が、口の中のものを呑みくだす。
「道内では、黒志山大の他、どこを受験するんですか?」
「桔梗女子大」
「へえ」
引きつり笑いを浮かべる日向。
「なんだよ。女子大に興味あるのか」
「いいえ……女子大とか女子高って、僕にとってはホラーハウスみたいなもので」
「どんな連想だ」
思わず吹き出す。
つまり日向は女性恐怖症なのだ。少しずつ改善している、と本人は主張しているが、あくまでも光限定らしい。
にぎやかな嬌声が近づいてきた。
すぐ横のカウンター席に、女子高生の二人組が腰をおろす。噂をすれば、桔梗女子大付属高の制服である。お喋りを続けながら、どことなく色めいた視線を日向に送ってきた。――まったく!
「先輩先輩、問題です」
光の苛立ちも知らず、日向が無邪気に話しかけてくる。テーブルに備えられたアンケート用紙の裏にペンを走らせて、
「これはある『手順』を示しています。何の手順でしょうか」
いれる→ならす→たたく→ねがう
「お前な」いたずらっぽく笑う日向に、厳しく諭す。「字っていうのは、丁寧にさえ書けば、下手でもそれなりに見えるもんなんだぞ」
「字の話ですかぁ」
うんざりしたように、オールドファッションをかじる。少し間を置いてから光は答える。
「問題ならすぐわかったよ。『参拝』だろう。賽銭を〈入れる〉→鈴を〈鳴らす〉→手を〈叩く〉→〈願い〉ごとをする。神社での参拝の手順だ」
日向は大きな瞳をさらに大きくして、「即答ですか。さすがですね。子供向けのクイズ番組でやってたんですけど、結構面白いでしょ」
「そういうのなら、私も思いつきそうだな。考えてみる」
光はしばらくポニーテールの毛先を弄んでいたが、間もなく口元をほころばせて、
はずす→あらう→つける→つける
「なんだ。先輩もそれほど字が上手いってわけじゃないんですね」
「失礼だな。これでも習字検定二級だぞ」
「この」ペン先で文字をたたく。「〈つける〉が、連続してるのが気になりますね」
「ヒント。地下鉄に乗ったとき、おじいさん同士の会話を聞いてひらめいた」
「おじいさん……」
食べる手を止めて悩んでいた日向はふにゃりと笑う。
「わかりました。“入れ歯の手入れ”ですね」
入れ歯を〈外す〉→〈洗う〉→洗浄液に〈浸ける〉→入れ歯を〈付ける〉。
光が「正解」と告げると同時に、トレンチコートを羽織った女性がやって来た。
奥にいる女性客の連れ合いらしい。お疲れ、と挨拶を交わして、そのままお手洗いに直行する。
「どうかしました?」
粉砂糖で口を白くした日向が、のん気に訊いてくる。
「……別に」
女性が通り過ぎるとき、マスカラの睫毛を伏せて日向をチラ見したのを、光は見逃さなかった。
まったく――!
水無月日向は見た目は、非の打ちどころのない美少年である。
その実態は、途方もない好奇心の権化で、おまけに女性恐怖症なのだけど、そんなことは露つゆ知らず、寄ってくる女子も少なくはない。
「コーヒーお代わりしてくる」
やきもきしたって仕方がない。今に始まった事ではないのだ。
湯気の立つコーヒーを手に戻ると、日向の様子がおかしい。ドーナツを食べる手が止まっている。
「おい……」
うつむき加減の視線を辿ると、用紙の余白に、ミミズの字が増えていた。
『4時まで休みとったよ』
『りんじ もいなくなるし、困るでしょ。えらそうにしてるくせに何もできないんだから』
『たいちょう の あいず までじっとしていよう』




