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階段下は××する場所である  作者: 羽野ゆず
Interval03 安楽椅子探偵
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戻るには遅すぎる―Too late to return【前編】

「重くない?」


 街中の歩道は雪解けの気配があるものの、氷が張った箇所もまばらにある。

 ゆえに、キャスター付きの旅行鞄をときおり持ち上げて運ばねばならない。


「このくらい平気ですよ。軽いし」


 アピールするように、水無月みなづき日向(ひなた)は取っ手を持ちなおす。


「そう?」


 雷宮らいきゅうひかるは、意外なほど恐縮していた。よほど非力と思われているのか、心外だ、と日向は心のなかでぼやく。


「東京での試験は来週でしたっけ」

「うん。二泊三日で行ってくる」


 大学受験で上京する光が小型の旅行鞄が欲しい――とのことで、買い物に付き合った帰り道である。放課後すぐに合流したので、ふたりとも制服姿だ。


「日向も連れていきたいな」


 本気なのか冗談なのか分からない調子で光が言う。日向と鞄を交互に見つめて、


「キャリーケースに詰めて」

「入りませんよ」

「じゃあ、バラバラにしたら」

「怖いです」

陽太ようたなら、そのままでも入るかな」


 光を好いている弟の名前を上げられ、日向はゲンナリ顔になる。


「やめてくださいよ。アイツ、今度はいつ先輩が家に来るんだってうるさくて」

 

 雪まつりの時期は過ぎたが、赤レンガ旧庁舎前にはカメラを構えた観光客が少なからずいる。

 撮影の邪魔をしないように彼らの背後を通り過ぎる。


「どこかで休憩しようか。買い物に付き合ってもらったお礼に奢るよ」

「そんな」


 悪いですよ、と断わろうとしたところで、ぐぅと腹が鳴った。

 光は笑って、


「何が食べたい?」

「――じゃあ、ドーナツ。大通りまで歩きますけど、いいですか」

「近いじゃないか」


 地下鉄一駅分の距離である。

 光にとっては、全く苦にならないらしい。ならば、と日向も気合を入れて歩き出す。学校が午前授業だったので、通学鞄の中身が公民と数学の教科書だけ、と軽いのが救いだ。が――


「あれ?」


 大通りに着いたところで、日向は立ち止まった。


「ここに在った筈なのに」


 目当てのドーナツ屋がなかった。

 この辺りは、街の代表的な通りでショーウインドウの並びがめまぐるしく変わる。代わりにお洒落なカフェが入っていた。ダメだ。こじゃれたカフェのメニューじゃ、この空腹は満たされない。


「ドーナツ屋、他に無いの?」

「あるけど、ススキノまで歩くことになりますよ。札駅に引き返しましょうか」

「いや」


 光はポニーテールの尻尾を撫でる。


「来た道を戻るより、進んだ方が良いだろ。ここからススキノまでなら、そう遠くないし」


 彼女らしい台詞セリフである。かくして、さらに一駅分を歩くことになった。


 十五分後――

 日向は後悔し始めていた。なぜドーナツを食べたいなんて言ってしまったんだろう?

 新品でカラの旅行鞄が、重たく感じ始めていた。でも、今さら引き返すことはできない。少し前を歩く光の、きゅっと締まったふくらはぎを眺めつつ、辛抱しんぼう強く進む。



「つ、着いた……」


 お馴染みの看板を見つけて安堵していると、脇腹をつつかれた。


「ご苦労様。ほら、行こう」


 旅行鞄を奪って、光は颯爽さっそうと店の入り口へ向かう。

 日向は、空いた手で汗ばんだ額をぬぐい、二学年上の彼女をぼんやりと眺めた。

 卒業式が間近に迫ってきている。こうして制服で一緒に歩くのも最後かもしれない。そんなことを思った。


 どこからか午後三時を告げる時報が聞こえてきた。





「コーヒー。砂糖もミルクもいりません」


 甘い香りがただよう店内で、光はすみやかに注文する。

 一方、日向は、宝石を発掘するようなキラキラした目で、ドーナツ選びをしている。奢ってくれるから、と遠慮したらしいが、それでもトレイにはドーナツやらパイがひしめいていた。


「やっぱり自分で支払います」

「いいよ、席とっておいたから座ってな」


 イートインスペースには、窓際のカウンター席のほか、三つのボックス席がもうけられている。

 最奥、二人の女性が陣取ったボックス席の手前が空いていたので、旅行鞄を押し込みそこに座る。


「いただきまぁす!」


 コーヒーを啜る光は、幸せそうにドーナツを頬張る少年を観察する。

 彼女自身スイーツは苦手だが、猛烈ないきおいでドーナツが消費されていくのを眺めるのは爽快だ。リスのように頬を膨らませた日向が、口の中のものを呑みくだす。


「道内では、黒志山大(ほんめい)の他、どこを受験するんですか?」

桔梗(ききょう)女子大」

「へえ」


 引きつり笑いを浮かべる日向。


「なんだよ。女子大に興味あるのか」

「いいえ……女子大とか女子高って、僕にとってはホラーハウスみたいなもので」

「どんな連想だ」


 思わず吹き出す。

 つまり日向は女性恐怖症なのだ。少しずつ改善している、と本人は主張しているが、あくまでも光限定らしい。


 にぎやかな嬌声が近づいてきた。

 すぐ横のカウンター席に、女子高生の二人組が腰をおろす。噂をすれば、桔梗女子大付属高の制服である。お喋りを続けながら、どことなく色めいた視線を日向に送ってきた。――まったく!


「先輩先輩、問題です」


 光の苛立ちも知らず、日向が無邪気に話しかけてくる。テーブルに備えられたアンケート用紙の裏にペンを走らせて、


「これはある『手順』を示しています。何の手順でしょうか」


 いれる→ならす→たたく→ねがう


「お前な」いたずらっぽく笑う日向に、厳しくさとす。「字っていうのは、丁寧にさえ書けば、下手でもそれなりに見えるもんなんだぞ」

「字の話ですかぁ」


 うんざりしたように、オールドファッションをかじる。少し間を置いてから光は答える。


「問題ならすぐわかったよ。『参拝さんぱい』だろう。賽銭さいせんを〈入れる〉→鈴を〈鳴らす〉→手を〈叩く〉→〈願い〉ごとをする。神社での参拝の手順だ」


 日向は大きな瞳をさらに大きくして、「即答ですか。さすがですね。子供向けのクイズ番組でやってたんですけど、結構面白いでしょ」

「そういうのなら、私も思いつきそうだな。考えてみる」


 光はしばらくポニーテールの毛先を弄んでいたが、間もなく口元をほころばせて、

 

 はずす→あらう→つける→つける


「なんだ。先輩もそれほど字が上手いってわけじゃないんですね」

「失礼だな。これでも習字検定二級だぞ」

「この」ペン先で文字をたたく。「〈つける〉が、連続してるのが気になりますね」

「ヒント。地下鉄に乗ったとき、おじいさん同士の会話を聞いてひらめいた」

「おじいさん……」


 食べる手を止めて悩んでいた日向はふにゃりと笑う。


「わかりました。“入れ歯の手入れ”ですね」


 入れ歯を〈外す〉→〈洗う〉→洗浄液に〈浸ける〉→入れ歯を〈付ける〉。


 光が「正解」と告げると同時に、トレンチコートを羽織はおった女性がやって来た。

 奥にいる女性客の連れ合いらしい。お疲れ、と挨拶を交わして、そのままお手洗いに直行する。


「どうかしました?」


 粉砂糖で口を白くした日向が、のん気に訊いてくる。


「……別に」


 女性が通り過ぎるとき、マスカラの睫毛を伏せて日向をチラ見したのを、光は見逃さなかった。

 まったく――!

 水無月日向は見た目は、非の打ちどころのない美少年である。

 その実態は、途方もない好奇心の権化ごんげで、おまけに女性恐怖症なのだけど、そんなことは露つゆ知らず、寄ってくる女子も少なくはない。


「コーヒーお代わりしてくる」


 やきもきしたって仕方がない。今に始まった事ではないのだ。

 湯気の立つコーヒーを手に戻ると、日向の様子がおかしい。ドーナツを食べる手が止まっている。


「おい……」


 うつむき加減の視線を辿ると、用紙の余白に、ミミズの字が増えていた。



『4時まで休みとったよ』


『りんじ もいなくなるし、困るでしょ。えらそうにしてるくせに何もできないんだから』


『たいちょう の あいず までじっとしていよう』

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