9-3 和む?【A】→【B】の部屋
「一年半ぶりだね、君がここに来るの」
明るい和室の部屋。
カーテンが全開した窓から、暖かい陽が注いでいる。若草色の畳は、記憶よりも退色したように感じた。
「忘れ物ってなんだよ」
戸襖の前に立ったまま光は言う。
「これから用事があるんだ。早くして欲しいんだけど」
「用事って、『脱出ゲーム』のこと?」
どうしてそれを知ってる、と不審げな顔をする光に、田雲は微笑う。
「野巻さんのお父さんに聞いたんだよ」
「知り合いなのか?」
「ゴルフの練習場でよく会うんだ。何ていうか、なかなか食えない人だよね」
いつも掛けている黒縁眼鏡を今日は外している。
実家を出て一人暮らしをしている筈だが、この部屋は、光がよく訪れていた頃と殆ど変わっていなかった。
田雲は、勉強机の引き出しから二冊のノートを取り出す。
「――はいこれ。君のだろ? ここで勉強していたとき、僕のと紛れたみたいだね」
「…………」
無言のまま受け取る。
当時学生だった田雲に家庭教師をして貰っていた時期があった。
もともと彼らの両親は剣道を通じた友人同士で、その縁で、光は田雲家の道場に通っている。稽古後にこの部屋で、勉強を教えてもらったのだ。
「それからこれ――」
さらに出されたものに、光は目を丸くする。
紺のハイソックス。
見覚えがある。たしかに自分の。
「光ちゃん、必ず靴下を脱いでいたよね。この方が集中できるからって」
くすくす、と忍び笑いする。
靴下を忘れたって……。その日は、裸足で帰宅したのだろうか? 我ながら呆れる。ちょっと反省した。
「ああ、変態行為はしてないから安心して」
「…………」
反省の気持ちが一気に薄れた。
ノートと靴下を抱えて出て行こうとした光に、「それにしても」と田雲は呼びかける。
「剣道辞めるつもりかい? もったいないね。君が辞めたら、悲しむ門弟たちも多いだろうに」
「お前には関係ない」
その件については、師範と相談済だ。稽古さえマトモに出ない“若先生”に、どうこう言われる筋合いはない。
「今はそうでもないけど、昔はよく門弟たちによく泣きつかれたなぁ」
「……なんの話だ」
「君に純情を弄ばれた、ってさ」
口を開こうとした光を仕草で止める。
「昔からそうだったよね、君は――。他人の心に土足で踏み込んで、ぐちゃぐちゃにかき回していく。無意識だっていうんだから、タチが悪い」
田雲は、和室には不似合いのベッドに腰掛けて、
「まあ、僕も“被害者”のひとり、ってことだよ」
と口元を緩めた。眼鏡をかけていない眼は笑っていない。
「帰る」
不快そうに顔を歪めていた光は、きびすを返す。
「もしかして、まだあのことを怒っているの?」
背後から頭を殴られたような感覚がした。
何かを思い出すように、田雲は天井を仰いでいる。
「君は人一倍嫉妬深いからねぇ。――日向くんと付き合い始めたのも、僕への“あてつけ”なんだろ?」
「……は?」
「純真無垢な少年を弄んで楽しかったかい?」
かっと頭に血が上った。
かまわず田雲は続ける。
「演技が上手いね。でも、強がらなくていいんだよ、もう」
違う――。
言い返そうとしたが、喉の奥が硬直したように、声が出なかった。
過去の記憶がフラッシュバックしていた。そういえば、あの頃まだ、田雲は眼鏡を掛けていなかった。
懐かしい手で頬を包まれる。
黒曜石のような瞳にじっくり見据えられた。光は動けない。まるで自分のものじゃないように、全身が硬直している。
顎を指で掬われてささやかれた。
「君のこと本当に理解っているのは、僕だけだ」
*
「なんだよ、これーっ!?」
【C】の部屋で、マンホールを覗き込んだ楓が叫ぶ。
「これは――〈映像〉じゃねえか、穴の!」
床に直置きされた液晶画面には、井戸の底のような穴が映っている。ホラー映画に登場しそうな映像だ。
「皆、知ってたくせに騙したな!?」
「最初は本物だと思ったんだよ、ほんとに」
「そうそう」
『このままシートが進めば穴に落ちる』などと発言した日向が釈明して、陽太も頷く。
「嘘吐けっ! 気付かないわけないだろう、触ればすぐ分かるんだから!」
シートベルトの拘束から自由になった楓が、水無月兄弟を責め立てる。
痛いところをつかれた二人は、揃って、へらりと笑った。
「くそっ、似たような美少年顔でニヤケやがって。腹立つ兄弟だな!」
「――ていうかさ、普通に考えて分かるでしょうよ。ここはショッピングモールなんだから、深い穴なんてあるわけない」
下のフロアは書店よ、とアカネ。楓は顔を赤らめて、
「だっていきなり身体を拘束されるとか思わないでしょ! アカネさんだって、オレの立場だったら相当焦ってたと思うな」
「予想してたよりもハードな展開だったわね。パパにそう報告しておくわ」
「あの」
シルバーの鍵を掲げて、カナが云う。
「この《鍵》、どこの部屋のでしょう?」
【C】の部屋に仕掛けられた謎。
正解にたどり着いた直後、モニターの上面がぱかっと開いて、《鍵》が出現した。
特別珍しいタイプでなく、戸建て住宅やマンションで多く使用されているシリンダー錠だ。
部屋を出ると、〈案内嬢〉が入口側から顔を覗かせた。安全旗をパタパタと振っている。
「楓くん。生還おめでとう。次も頑張ってね」
「はいっ、がんばりますっ」
楓がしゃきっと返事をした。
ふふふ、と玲於奈は栗色の髪を耳にかけて、魅惑的な笑む。
背景の暗幕も、身に纏っているスーツも、胸元の造花も、すべてが地味な漆黒だ。が、逆に、それらが彼女の美貌を引き立てているように見えた。
「――この部屋だ」
鍵は、隣の【A】の部屋のものだった。無機質な音がしてドアが開く。
部屋に入るなり、アカネが陽太に話しかける。
「ねえ、玲於奈さんって、陽太くんの好みじゃないの? 尻尾ふって言い寄ると思ったのに」
学校では、お気に入りの美人の先生を追いかけ回しているらしい。陽太は、妙に冷めた表情で答える。
「あーあの人はだめだ」
「なんでよ。あんなパーフェクト美女の、どこがダメなのよ」
「完璧すぎて、食指がうごかない」
「……小学生のくせにオッサンみたいなことを」
さて、【A】の部屋である。
広さは先ほどの【C】と同じ、10畳程。
違っているのは、スポットライトのカラーが黄じゃなくて、《赤》ということか。【C】の壁は、カレンダーで埋まっていたが、こちらは貼り紙一枚さえ無い。
「随分とシンプルだな」楓が呟く。
部屋の中央に、教室にあるような勉強机がぽつねんとある。
その上に、20センチ四方の木箱が置かれていた。蓋を開けようとした楓が、突然その動きを止める。
「どうしたの?」
「いや」少し青ざめて、「何か“罠”が仕掛けられてるんじゃないかと……。水無月くん開けてくれ」
「……いいけど」
嫌な役目を仰せつけられた日向は、渋々それに従う。
「――えっ、また《鍵》?」
ビロード布が張られた中底に、シルバーの鍵が鎮座していた。
持ち手にシールが貼られていて、アルファベットで文字が書かれている。
【BLUE】
「ブルーって、青だろ。まさかこれ、《青い部屋》の鍵?」
「とりあえず試してみようぜ」
一同が部屋を出ると、玲於奈が手を振ってくる。そして、楓はデレっとなる。緊張感ゼロだ。
それにしても。また《鍵》か、と日向は思う。
野巻氏に閉じ込められた扉の、“大元の鍵”を発見するだけでなく、謎を解くために、その度《鍵》が必要になるとは――。
これが脱出ゲームというものなのか。気が遠くなりそう。やっぱり自分には合いそうにない。
まずは、向かいの【B】の部屋で試してみることにした。
ドアと天井の隙間から、青いスポットライトが漏れている。
「――開いたぞ」
あっさり開いたドアに、拍子抜けした様子の陽太。
「なんだよ……。さっきと違ってえらい単純だな」
「サクサク進んで良いじゃない」
気楽なコメントをするアカネに、楓が鼻白む。
「アカネさん、分かってないな。油断したところに、罠が仕掛けられているんだぜ」
【B】は《青》い部屋。
正面の壁に電光掲示板があり、その真下に、《入力モニター》が設置されている。これで回答しなさい、ということだろう。
入力モニターは、最初に挑戦した【C】の部屋とほぼ同じものだ。が、違う点もあった。
「ラッキーだな。今回のはヒントが書いてあるぞ」
「ヒント……?」
小首をかしげるカナに、楓が得意げに説明する。
「入力する枠の前に、アルファベットが書き込んであるだろう?」
「【R】【Y】【B】……?」
アカネは腕を組んで、「今回も、入力するのは〈数字〉なのね。〈アルファベット〉と〈数字〉がどう関係しているのかしら」
日向は部屋を見回す。
【C】の部屋では、壁中に貼られた《カレンダー》が謎を解くヒントだった。しかし、この部屋にそんなものはない。あるものといえば――
「なんか――和むわね。この部屋」
カナが場違いなことをつぶやく。
つぶらな瞳の視線の先には、プランターに植えられたチューリップ(造花)が在った。部屋のカラーが《青》なので、まるで青空の下、咲いているように見える。
3つのプランターは、道路の脇に植えられた花のように、一直線に等間隔で並べられていた。
花の色は、《赤》、《黄》、《青》。本数はそれぞれに違う。
「あーっ、わかったぞ!!」
勢いよく楓が名乗り出た。
【next…】




