7-10 この世界に二人だけ【解決編3】
「ちょっと」
沈黙を守っていた光が、日向の腕時計を細い指でたたく。時間。旅館の停留所に泊まり客が並んでいる。そろそろ観光バスが発車する時刻だ。
日向は平謝りして、
「もう少しです。ほんとうに、あとちょっとで終わりますから」
シャツの袖をまくった。ここからが本番だ――とでもいうように。
「最初にも言ったけど、事件現場の不自然な状況。
湖多美さんはナイフで刺され、紫藤マサルはなぜかコケシで殴られていた。謎を解くには、この問題と向き合わなければいけない」
発見時の状況。出入り口から手前の〈雪の間〉では、ナイフで刺された湖多美倫世が、続きの〈奥の間〉では土間にあるコケシで殴られた紫藤マサルが倒れていた。
「やはり妙なのは、紫藤さんが〈コケシ〉で殴られていたこと。――これに尽きる。彼を襲った犯人はどこから侵入して、どのように土間のコケシを手にいれたのか?」
「〈奥の間〉の窓は、開いていたのよね」
白い頬に手をやりながらユキが呟く。
「そこから侵入したんじゃない? 紫藤と鉢合わせしてしまった犯人は、応戦するためコケシを取りにいった」
「いいや」
日向はすぐに否定する。
「〈奥の間〉の窓から侵入して、〈土間〉のコケシを取りに行く、というのは無理があるんじゃないかな。それに、もっと根本的な問題があって――ナイフを持った相手にコケシで対抗しようとするだろうか」
「さあ……度胸と勇気にあふれる人物だったら、ありえるかも」
どこか楽しげに発言するユキに、日向は目を細める。
「ユキ姉ちゃん、本気でそう思ってる? そんな不利な状況で応戦しなくても、〈土間〉まで辿りついたなら脱出できるわけだし」
「まあねえ」
ユキは丸い唇を尖らせて、
「じゃあ、犯人は〈土間〉から入ってきて、ナイフを手にしている紫藤に驚いて、コケシを手に取った。これは?」
「うん。それもあり得ないね。繰り返しになるけど……ナイフ相手にコケシで対抗しようとするなんて、無謀にもほどがある。応戦するにしても、〈土間〉から出て誰かに加勢を頼みにいくとか。他にもっとマシな方法がありそうだ」
間髪入れずに反論した日向に、ユキはくだけた調子で返す。
「ようするに、どういう結論になるわけ?」
挑戦的な物言いに応えるよう、ふたりは真っすぐに見つめ合う。
「犯人は〈土間〉から来た。そこで、何らかの“予感”を抱いて、コケシを手に取り、部屋に入った――」
「予感って?」
「巧くは説明できないけど、『中で不穏なことが起きているんじゃないか』という悪い予感。〈土間〉に入った時点でそんな予感を抱けるのは、この世界で二人だけ、と僕は考えた」
「世界にふたりだけ?」
ユキが語尾を上げる。
「ずいぶん極端な表現ね。で、誰なの、その二人というのは」
日向は一本指を立てる。
「一人目は、凶器の購入を依頼された部下――紫藤の〈協力者〉。
その人物は、前もって犯行の計画を伝えられていたのかどうかは分からないけど、ナイフを購入させられたのだから、只事ではないと察するだろう。紫藤と湖多美さんがふたりになった部屋で、何かが起こったのかもしれない、と不穏な予感を抱くことは可能だ。二人目は――ユキ姉ちゃん、君だ」
二本目の指は立てられずに、視線だけが向けられた。
「紫藤からの伝言を預かって、〈雪の間〉でふたりが会うことを知っていた。伝言したときの叔母さんの様子から、胸さわぎがしていたのかもしれない」
あ然とした様子の光を横目に、ふうん、とユキは息を漏らした。
「さっき推理したことが、ここで生きてきたわけね。――で?」
「……ユキ姉ちゃんなら観念してもらえると思ったけど」
先をうながされた日向は、ため息混じりに呟く。ユキはふっと笑う。
「観念? 意味がわからないけど。ふたりに限定しても、ひとりに絞れなきゃ意味がないじゃない」
「だって、“一人目”は簡単に除外できるんだよ。ナイフを購入したその人物は、当然、紫藤がナイフを持っていることを知っていたから。繰り返しになるけど、ナイフ相手にコケシで対抗しようとするだろうか――? いや」
「「あり得ない」」
最後の言葉が被せられる。
「困ったね……」
ユキは首を反らして、モダンな梁見せ天井を見上げる。
「残るは私だけっていうことになるのか」
「そう?」
ユキにつられたように日向もぼんやり天井を見つめる。
「――さっきの『この世界に二人だけ』って。あれ嘘っぱちだよ」
「は?」
眉根をよせたユキに、日向はとつとつと続ける。
「昨夜のある時点で、〈土間〉に足を踏み入れた人物なら誰でも――〈雪の間〉で不穏なことが起きている、と予感できたはずだから」
ユキ姉ちゃん教えてくれたよね、とよどみのない声音で続ける。
「〈土間〉からさらに廊下まで、血が流れ込んできていたんだから。位置的におそらく叔母さんのものだと思うけど。
それを見たら誰だって不穏な予測をするに違いない。一般客ならまだしも、責任ある立場の人間、たとえば旅館の従業員なら、コケシを手になかの様子を探りにいく――という状況は十分に想像できそうだけど……なぜそう反論しないの? ――もしかして、クリーニング担当の黄田川さんから何か聞いた?」
「…………」
ユキは目をつむって小さく息を吐いた。
喧噪が落ち着いた、と思ったら、鬼ごっこをしていた子どもたちは、ロビーの隅でだるまさん転んだ、をして遊んでいた。
「誰が何の目的でそんなことをしたのかは知らない――けど、何者かが〈土間〉に流れ出ていた血をタオルで拭き取って、ランドリーカートに放った」
日向は肩をすくめる。
「という出来事があったそうだ。黄田川さんはとても怒っていた。さらに、彼は重要なことを教えてくれたよ。血を拭き取ったタオルがカートに放り込まれた時間。毎日同じ時刻にタオルを回収するから覚えていた。その時刻が、午後8時10分」
午後8時10分。復唱した光が小首をかしげる。
わからない人間にとっては、何の価値もない符号だろう。しかし――。ユキは呆気に取られる。この少年は、旅館中の従業員からどれだけの情報を聞きまわっていたのか。
「この時刻が示すのは、つまり〈土間〉の血が拭き取られたのは8時10分より前である、ということだ。ユキ姉ちゃん――」
落ち着きなくさ迷っていた目線がこちらに向けられる。
「廊下まで流れきていた血を発見して、あわてて〈雪の間〉に入った――それからすぐに通報した、と教えてくれたよね。彼らの命が助かったのはユキ姉ちゃんが迅速に発通報したおかげ、というわけだ」
語調が強められる。
推理が終わりに近づいてきている。ユキは直観的にそう思った。
「だとしたら、どうしても解せないことがある。
血を拭いたタオルが午後8時10分にカートに放られていたことから、〈土間〉に血が浸っていたのは8時10分より前だった、ということになる。ユキ姉ちゃんが、血まみれの〈土間〉を目撃したということは、当然8時10分より前の出来事ということだ。対して、通報されたのは何時だったか。――午後8時20分だ」
「……日向」
呼びかけた光が、日向とユキを不安そうに交互に眺めている。
ユキは口をつぐんだままだ。日向は最後の結論を切り出す。
「午後8時10分以前に〈雪の間〉に入り、通報したのは8時20分。この間、およそ10分。十分間の空白だ。
電話がある場所まで辿りつくのに時間がかかったのか? それは無い。電話なら、〈雪の間〉のすぐ隣の事務室にある。実際に、ユキ姉ちゃんの通報もそこからされているし――」
深みのある大きな瞳を向けられる。
そこには、怒りも悲しみの色もない。ただ〈正解〉を求める、探究心だけが垣間見えた。
「この十分間の謎。その間に何が起こったんだろう――? 納得できる答えを教えてくれないかな、ユキ姉ちゃん」
「…………」
緊迫したまま向かい合う三人に、走り寄る足音が近付いてきた。
「おうい! なんだ君たち、まだいたのか」
お巡りさんの黒部だ。早朝から変わらぬ、くたびれた制服姿のままで寄ってくる。
「なにモタモタしてるんだ。もう観光バス出るぞ。アレに乗って帰るんじゃないのか?」
「あ!」
光が荷物を抱えて立ち上がり、座ったままの日向の背中を叩いた。
「はは、急げ急げ」
黒部は愉快そうに笑いながら、とうとつに告げる。
「そういやァ、紫藤マサルの意識が戻ったぞ。まだ、正式な証言は取れていないが、医者の話だと、今日の午後には話ができるだろうってことだ」
とたんユキの表情が変わった。
雪のように白い肌が蒼白さを増す。
水を打ったような静けさのなか、ふふふ、と甲高い笑いが響いた。
「――なあんだ」
童女のような無垢なつぶやきに、一同の注目が集まる。
その瞳は、どこか現実的でない色味を宿している。異様な雰囲気のなか、ユキは、あっけらかんと言った。
「力いっぱい殴ったつもりだったのになぁ。人って、簡単には死なないものなんですね」




