7-2 のぼせそうです
湯に入ると、「ふはぁ」と変なため息が出た。
目の前には、淡雪で薄化粧した山肌が広がっている。
なんと荘ごんな眺めか――。
温泉が特別に好き、というわけではないが、これはちょっとすごい。大自然を前に、のんきに温泉に浸かっている自分の存在が不思議に思えた。
「やっぱり大凶のせいかな……」
肩までとっぷり湯につかって独りごつ。
数年ぶりに再会した少女――湖多美ユキ。
懐かしい記憶のなかに封じていた存在だったのに。よりによって、こんなところで、こんなタイミングで出遭ってしまうなんて。
「何のせいだって?」
露天風呂と室内をへだてる障子がからりと開き、光が顔を覗かせた。
「わ!? 大浴場に行ったんじゃ?」
「日帰り客で混んでてな。夜にゆっくり入りにいくことにするよ。湯加減どう?」
白くにごった湯を無邪気な仕草ですくっている。
日向はちょっとのぼせてきた。湯船のふちに肘をついて頭を乗せる。ヒノキの良い香りがした。
「どうかした?」
湯をもてあそびながら光がさりげなく、
「バスで寝てるとき、うなされてたよ。旅館に着いてから様子がおかしいし。体調悪いのかな、って」
日向は嘆息する。
数か月付き合って分かったことがある。光は意外と鋭い。そして自分は嘘がとても下手なのである。
「――じつは、さっき、昔の知り合いに会いまして」
「知り合い?」
「小学校のときの友人です。転校しちゃって、何年も会ってなかったんですけど。親戚の紹介で、この旅館で働いていました」
「働いてるって学校は?」
「通信制の高校に通ってるそうです。その子、両親を早くに亡くしていて。すぐに働きたかったみたいで」
「ふうん。こんなところで再会するなんて、すごい偶然だな」
はい、本当に。
心の底から同意して、マイナス気温で冷えた腕を湯に沈ませる――と、ぴちょん、と離れたところで湯の跳ねる音がした。
そして微かな衣擦れの音。……うん?
「あの、湯船に入ったりしてませんよね?」
念のため、そちらを向かずにたずねると、「入ってるよ」と当然のように返事された。
「入らないと寒いだろ」
「~~っ!? だったら部屋に戻ればいいじゃないですか! ぶっ」
思わず振り向いて反論すると、ぱしゃっと湯をかけられた。
「こっち向くな。私だって恥ずかしいんだから」
言ってることとやってることがメチャクチャだ。
浴槽の幅は二メートル弱で、家庭用より若干広いが、かといってそれほど広くもない。
横目でこっそり様子を探ると、腕を伸ばして湯をかけている光の姿が見えた。むき出しの肩と胸元が艶めかしい。
すぐそばに一糸纏わぬ光がいて、同じ湯に浸かっている。それだけで心臓がばくばくして破裂しそうだった。
「あの、僕、のぼせてきました」
失神寸前ともいう。
「もう?」
「で、上がりたいんですけど……その際にですね、先輩はその場を動かないで欲しいんです。僕は目をつむったまま出ていきますから」
「目をつむって? 危ないだろそんなの」
背中ごしにのんきな声が返ってくる。
「いいですか。絶対に動かないでくださいよ」
日向はしぶきを上げないよう静かに立つと、湯舟のふちを指先で辿りながら進む。
大丈夫だ。
このまま進めば、光を無事に通過して風呂から上がれるはず。ゴールはすぐそこだ。慎重に歩みをすすめているところに、クスクスと忍び笑いが聞こえた。何がおかしいんだろう?
はっ、そうか――!
日向は大変なことに気付く。
自分は目を瞑っているが、光はそうじゃないのだ。
つまり、真っ裸で目を閉じたまま、のろのろ進んでいる――マヌケとしか表現しようのない姿を間近で見られているということで……
気付いてしまうともうダメだった。
残念な運動神経もわざわいし、足を滑らせた日向は湯船のふちに思いきり鼻をぶつけた。
「痛だあっ!」
光が寄ってくる気配がする。
「何やってんだ、だから危ないって言ったのに!」
「……大丈夫だから、こっちに来ないでくださいっ」
「でも」
「だから来ないでって、うっ、た、立ち上がらないで……!!」
「ぎゃあっ、ち、血っ、鼻血ーーっ!!」
*
「気分はどう」
日向は布団に横になったまま、鼻に詰めていたティッシュを取る。幸い血は止まったようだ。
「もう平気みたいです」
「そっか」
よかった、と光が微笑む。
大量出血(鼻血)したせいか意識がぼんやりする。打った鼻も痛い。布団を敷いてくれ、ケガを処置してくれた光には感謝しなければいけないだろう。
「水飲む?」
光がペットボトルをくれる。浴衣の胸もとから湯上りの肌の匂いがこぼれた。日向は寝返りして壁の方を向く。
「……あまり近づかないでくれた方がいいかも」
「どうして」
「病状に良くないというか」
頭上でくすりと笑う声がした。
「私の裸、見たでしょ」
「……ぐーぐー」
「見たな?」
「……ごめんなさい、見ました」
「ま、いいか。お互い様だし」
何だかもう衝撃的過ぎて、よくわからなくなってきた。これは現実なのか。温泉旅館という非日常な空間も相まって、幻想なのではと疑ってしまう。
座卓に置いていたスマホの着信音が、日向を現実に呼び戻した。光が手渡してくれる。こんなときに誰だろう。横になったまま電話に出る。
『ああ、オレ。今だいじょうぶ?』
空野楓だった。
『さっきの電話、なんだよそれは。師範代と旅館にいるんだろ。今なにしてんの?』
「え……部屋の露天風呂に入ってた」
『露天風呂付きの部屋ってこと!? なんだそりゃ、エロっ!』
「……でも、湯あたりしちゃって」
『湯あたりするまでヤッたのか? うおーっ羨ましすぎるぜ! で、何? 今、どうなって――』
最後まで聞かずに、日向は電話を切った。
気が付くと、光も誰かと通話していた。口調から察するに、相手は野巻アカネに違いない。
「わかったよ。帰ったら、ちゃんと全部報告するから――もうっお節介なヤツめ!」
スマホを鞄に仕舞い込んだ光がぼやいている。
お願いだから、ちゃんと全部報告はしないでいただきたい。
「夕食どうする? 具合悪いなら、部屋に運んできてもらおうか」
「いえ……」
日向は座卓のメッセージカードを見やる。
部屋で、となると、担当の仲居――湖多美ユキが夕食を運んでくるだろう。それは避けたい。
「もう起き上がれるし、平気です。実はあまり食欲もなくて」
「ほんとうに大丈夫?」
光が顔を覗き込んでくる。
その瞬間なぜか――小学生だった湖多美ユキの泣き顔が脳裏をよぎった。
「――あ」
気が付くと、額に触れてこようとした光の手を強く振りはらっていた。
猫のような双眸が驚いたように見開かれている。
「ごめんなさい……」
乱れた息を整える。
「まだ、調子がイマイチかも」
逃げるように背中を向けて横になった。
明らかに様子がおかしい日向に、光は何か言いたげにしていたが、「そう」と小さく呟き、離れていった。
*
「って、いうわりによく食うな、お前は!」
午後八時半。
〈食事処〉の提灯が提げられた店内の個室で。光は、新鮮な食材が刺さった串を囲炉裏であぶりまくっていた。
「いただきます」
鶏つくねの串を日向が頬張る。
夕食は、地場野菜の前菜のほか、魚介やステーキ肉の串をあぶりながら味わう囲炉裏懐石だった。旬の食材に舌鼓をうつ。
「先輩はあまり食べないですね。足りますかそれで」
「先輩じゃなくて、『お姉ちゃん』」
声を低めて光が忠告する。障子一枚向こうでは、給仕の慌ただしい足音が響いている。
「それより体調はどうなんだ」
炭火焼きの牛タンに塩をふりかけていた日向は、きょとんとする。
「あれ、治った……?」
「ゲンキンな奴め」
良い具合にあぶったヤマメの串を、荒っぽく突き出される。
「あついな」
熱気で紅くなった頬をあおぎ、光はえんじ色の半纏を脱いだ。
白地に紺模様のそっ気ない浴衣は、凛とした容姿の彼女に似合っている。見慣れた学校の制服姿と違って、妙に色っぽく見えるのはなぜだろう――?
日向は食べる手を止めて、惚けたように眺めてしまう。
「どうした。まだお腹空いてる? お代わりもらおうか」
「や、もう止めておきます」
急にお腹がいっぱいになってきた。
「なんか――騒がしくないですか」
日向は腰を浮かせて、窓格子をひらく。
赤色灯が付いた車が駐車場に数台停まっていた。パトカー……? 光も身を乗り出したタイミングで、障子が薄く開いた。
「二〇一号室にお泊りのかたですね」
デザートが来た、と期待して振り向いた日向は、拍子抜けしたというより驚いた。お巡りさん――警察官の制服を着た中年男――が戸口に立っていたからだ。
「温泉街交番のものです。食事中申し訳ないけど、身元の確認をさせてもらえます」
「……身元確認?」
光がいぶかしげに聞き返す。その間にも、駐車場に赤色灯の数が増えていく。
「旅館の宴会場で、傷害事件がありましてね。念のため、泊まりの客の方にいろいろと伺ってるんですよ」
「傷害事件って、誰かケガをしたってことですか……誰が?」
好奇心のまま日向が尋ねると、シワが目立つ中年のお巡りさんが柔和な口調のまま答えてくれた。
「仲居さんと泊まり客の男性が――」
「黒部さん!」
その後ろから、スーツ姿の若い男がお巡りさんを押しのける。
「詳しいことはのち程お話しますから」
「あの――。仲居さんって、湖多美さんって女性じゃないですよね」
まさか、な。念のため確認した日向に、警官たちは「えっ」と揃って声を上げたのである。緊迫した雰囲気で顔を見合わせると、若いほうが慎重な口調でたずねてくる。
「湖多美さんをご存知ですか?」
頭をがつんと殴られたような感覚がした。
「日向?」
光に何度か呼びかけられたが、頭が真っ白になっていて反応できなかった。




