7-1 『お姉ちゃん』
「お願い……もう許して」
誰かが泣いている。
女の子だ――雪のように白い肌の。
「……わたしのこと、嫌いになって」
ふっくらした頬を涙がひとすじ伝う。
「日向くん」
*
「日向」
一定間隔の揺れが眠りをさそう。
深くまどろみかけたところで、腕を揺すられた。
何だかとても懐かしい夢を見ていたような――そんな気がする。
覚醒しきれず、ぼおっとしていると、近距離から強い視線を感じた。
「……なんですか」
雷宮光に猫のような瞳で見つめられていた。
光はいたずらっぽく笑って、
「出逢った頃より、カッコよくなったなぁと思って」
「そ、そうですか。ありがとうございます」
いきなりなんだろう。
照れかくしに、直しそこねた寝癖を何度も撫でつけてしまう。
「でも、どちらかといえば童顔かなぁ」
「へ?」
「何でもない。もうすぐ到着だな」
窓際に座る光の背景――抜けるような山々の雪景色が目に飛び込んできた。
温泉街へ向かう観光バスは、週末のせいかほぼ満席状態だ。
受験生である光の息抜きを兼ねた小旅行。混雑した車内でふたりは二人用シートに並んで座っている。
「んっ?」
日向は違和感がして尻を浮かせる。
背もたれと座面の隙間に、白い紙片が見えた。指先でつまみ出してみる。
「なんだこれ、おみくじ?……わっ大凶だ!」
「大凶?」
誰かの落し物か。赤い枠で囲まれた中に、あらゆる不吉が予言されている。
【大凶】
願望~かなわない
恋愛~待ち人こず。相手がいる場合は、過去の因縁に注意
旅行~延期しなさい
学問~油断大敵を心に命じよ
失物~見つからない。整理整頓を心掛けよ
ラッキーナンバー 6
ラッキーカラー 赤
「凄いですね、大凶って! 凶だったら二年に一度は引きますけど、大凶は初めてだ」
「凶を隔年で引くのも結構すごいと思うけど――まさか、持って帰るつもり?」
折りたたんだおみくじをコートのポケットにしまいこむ日向に、光が訊く。
「だって、このままにしておいたら、見つけた誰かがまた嫌な思いをするわけでしょ」
「バス会社に任せておけばいいのに」
「大凶のせいで事故に遭ったらどうします。帰ったら、どこかの神社に結んでおきます」
「律儀だなぁ、日向は」
その呼ばれ方に、本人は恥ずかしげにうつむく。
「下の名前で呼ばれるの、まだ慣れない?」
「……すみません」
「すぐ慣れるよ。ああ、ちなみに私のことは『お姉ちゃん』って呼んでいいぞ」
「お姉ちゃん?」
「旅館にいる間だけでいいから」
「――そういえば野巻先輩と空野くんは、バスに乗りませんでしたね」
「ああ。親が送ってくれるらしいよ。ほら、そろそろ降りる支度しなきゃ」
うながされた日向は、荷物棚から二人分の鞄を下ろす。
観光バスは、広大なスペースがある駐車場に停車した。
数名の男女グループとともに降車する。笑い声を響かせながら先を歩く、そのグループは、若い女性から初老の男性まで年齢層は様々だ。会社の集まりか何かだろうか。
「立派な宿ですね」
駐車場の脇にある通路を進むと、木材を基調とした和モダンな造りの建物が迎えてくれた。
「先輩は、前に一度ここに来たことがあるんでしたっけ?」
「家族旅行でな。温泉も広くて立派だよ」
むしろ旅館よりも、別棟の湯屋の方が巨大で存在感がある。
「チェックインしてくるから待ってて」
日帰り温泉客の受付も兼ねたフロント前に、長い列ができていた。
荷物番を任された日向は、腕時計を確認する。午後三時――チェックインの時間だ。
並んでいる列の足元に、光のきゅっとした足首とふくらはぎが見え隠れしている。それを目で追いながら、日向は電話をかけた。
「お待たせ。露天風呂付きの部屋が空いたから、そちらに変更してくれたって……どこかに電話してたの?」
はしゃいだ様子で戻ってきた光は、日向の手の中にあるスマホを見やる。
「どこだと思います」
「家?」
「野巻先輩と空野くんに、です」
途端、光は目を泳がせる。
「野巻先輩は『風邪で行けなくなったの』って言い訳してましたけど、空野くんは、旅行のこと全く聞いてないって」
「ちっ……空野の奴、気が利かないな」
「根回しが甘かったですね。さっきの『お姉ちゃん』っていうのも、高校生の男女で泊まったら何か言われるかもしれないから、姉弟のフリをしようと考えたからでしょ」
「おっ、名推理」
「騙したんですね!?」
四人の旅行だ、と誘われていたのに。
光とふたりっきり――となると、全然意味が変わってくるじゃないか。日向は鞄を持って立ち上がる。
「どうするつもり?」
「他に部屋が空いてないか聞いてきます」
「ムリムリ。この旅館、客室数が少ないから。受付に〈満室御礼〉って看板出てたし」
「じゃあ」
「帰るの? いまさら? 帰りのバスはもう出てないよ。タクシーで数万円かけて帰るつもり?」
あらかじめ用意されていたかのような隙のない回答に、日向は言葉を失う。
「あのさあ」
猫のような目でジロと睨まれる。
「同じ部屋に寝泊まりするからって、それが何だっていうの」
「なんだって……」
「こんなの普通だよ。何を期待しているわけ? まさか――とは思うけど、不純な動機があるのか?」
「そんなっ、めっそうもない!」
「だったら別にいいじゃん」
あれ……?
日向はこめかみを押さえて、ゆっくりとかぶりを振った。
「そう言われると、何だか僕の方が間違ってるって気がしてきました……」
「なっ? 早く行こう」
鍵をくるくると指で回しながら、光が歩き出す。
その後を追いかけようと鞄を抱え直した日向は、ふと、フロントに視線を向けた。
客の対応で、てんやわんやしているフロントの奥で電話のコール音が響いている。ほどなくして、桜色の作務衣を着た若い女性がやって来て受話器を取った。
電話に出た女性――若い、というか、どう見ても十代の少女だ。その顔に、どこかで見覚えがあるような……
「どうかしたの?」
ポニーテールの毛先を揺らして光が振り返る。
日向は再びフロントを一瞥する。少女の姿はもうなかった。
「いえ……何でもないです」
「ふうん」
部屋に入るなり、日向は大きな目を輝かせた。
「スゲー! ほんとに露天風呂がある!」
十畳の和室と、奥にある小さなダイニングスペースの掃出窓の向こうに、湯気がもくもくと上がるヒノキ風呂があった。非日常な眺めに気分が跳ね上がる。
「私もこの部屋に泊まるのは初めてなんだ」
光は備え付けのクローゼットから、自分の浴衣とタオルを取り出している。
「大浴場に行ってくる。日向は、露天風呂に入ってみたら」
「いいんですか」
ポニーテ―ルをお団子ヘアに手早くまとめた光は、「あとでね」と部屋を出ていってしまう。
白いうなじのほつれ毛が、やけに生々しく目に焼き付いた。
やっぱりこの状況って、普通じゃないような……。
ひとりになった空間で、日向は落ち着かない気分で室内を見回す。
数年前に改装されたらしい客室には、最新型のエアコンが装備されている。
32型のテレビ横にある床の間に、コケシの置物があった。胴体が黄色い格子柄で染められていて、モダンな感じだ。
温泉まんじゅうでも食べようと座卓に手を伸ばしたところで、皿の下に敷かれているメッセージカードに気付く。
【いらっしゃいませ 本日は当旅館にお越しいただきましてありがとうございます
どうぞゆっくりとお過ごしくださいませ
お客様のお部屋は 湖多美 がお掃除させていただきました】
ぞくっ、と肌が粟立った。
湖多美――。〈こたみ〉と読むのだろうか。めずらしい苗字だ。
フロントで見かけた少女とその名が、ゆっくりと繋がっていく。
日向はごくりと生唾を呑んだ。落ち着け。こんな偶然があるわけがない。が――、大凶めいたタイミングで、それはやってくるのである。
「失礼します、お客様。ご夕食の場所ですが――」
控えめなノックの後、客室の襖が開いた。
桜色の作務衣の女性が顔を覗かせている。雪のように白い肌、ふっくらとした頬。
遠慮げに顔を上げた少女は、日向を認識すると、驚きの表情の後、人懐こそうな垂れ目を丸くした。
「あれ……もしかして――日向くん? 水無月日向くんじゃない?」
丸い唇に名前を呼ばれる。
「ユキ姉ちゃん――」




