6-2 模型バラバラ事件
「前から思ってたんだけどさ――」
光が天文部の悩みを打ち明けられた翌日。特別棟へ続く渡り廊下を並んで歩いていた。
「宇宙科学ばっかり勉強してどうするの? 何を目指してるの? 水無月くんの将来の夢ってなに?」
「夢、ですか」
矢つぎ早にたずねられた日向は、たっぷり数秒間大きな目を瞬かせた。
「まだちゃんとは決めてませんけど……公務員あたりが良いかなぁと」
「公務員? なんで」
てっきり『研究者』や『宇宙飛行士』といった類の答えが返ってくると思っていた光は、拍子抜けする。
「なんでって……親もそうだし。好きなことを仕事にすると、趣味じゃなくなっちゃうでしょ。働きながらその合間に勉強を続けていきたいんです」
「ふうん」
今日は気温が高い。
じゅっと雪が溶ける音が聞こえそうなほど、暖かな日差しが射し込んできている。
「バスケ部はやっぱり辞めるのか」
明るい廊下で、日向は少しだけ表情を曇らせた。
「悔いが無いわけではないんです。バスケは中学からやってたし」
「経験者だったのか……?」
それなのに、あの程度?――というツッコミを吞み込む。
「だから、高校でも何となくバスケ部に入ったんですよね……今思うと惰性だったっていうか」
二重窓から射し込む陽に、日向はまぶしそうに目を細めた。
「天文部の星住さん、凄いんですよ。星検1級を持ってるんです」
「ほしけん?」
「星空宇宙天文検定。宇伊川さんは2級を持ってるし。同い年でそんな資格を持っている人がいるって、ビックリしちゃって。僕も試験勉強中です」
天文部の少女らの名が出てきて、光の不機嫌センサーがぴくりと反応する。
「あの二人、水無月くんに気があるんじゃないかな」
「ええ?」
日向はきょとんとした後、「まさかぁ」と笑い出す。
「そんなことあるわけないじゃないですか」
「でも、三人で楽しそうに会話してたじゃないか」
「先輩、部活の様子を見たことがあるんですか?」
「あーいや、たまたま見かけたっていうか」
しどろもどろな答えをする光を不思議そうに眺めつつ、日向は答える。
「会話っていっても、天文学に関することしか話していないし。そもそも部活中に、そんなヨコシマな感情を抱くわけないでしょ」
「ヨコシマな感情ねえ……」
光は揶揄するような笑みを浮かべて、
「先週、部屋でふたりで勉強していたとき、私のことを嫌らしい目で見てたくせに」
「なっ!? そんなことないですよ!」
日向は赤面して目を泳がせた後、「先輩だって」と口を尖らせる。
「ときどき僕のことを肉食獣みたいな目で見てるじゃないですか。あれ結構怖いですよ」
「……気のせいだろう」
「とにかく!」
天文部の部室――物理準備室にたどり着いた日向は立ち止まって、光を振り返る。
「僕は天文部に入部します! 天野川部長にもそう伝えてありますから!」
威勢よく宣言して、職員室から調達してきた鍵で扉を開けた。
*
「どうぞ」
床に散らばったダンボールを器用に避けながら、日向は奥へと進んでいく。
そもそも、光が部室に付いてきたのは『天文部の様子を見学したい』と申し出たからだった。
「他の部員は?」
「星住さんと宇伊川さんは、天文台がある小学校へ天体観測に行ってます」
「天体観測? 昼に?」
「太陽の黒点の観察だそうです。僕も行きたかった。天野川部長と練雨先輩は、用事があって遅れるみたいです」
練雨恋治とのやりとりを思い出し、光は鬱な気分になる。
開いたままの扉の脇に背を預けて、ひそかに嘆息した。足元に放置されているダンボールが微かな音を立てる。
ふと見ると、日向はコートとブレザーを脱いでさらにシャツを腕まくりしている。
「作業をすぐ始められるように、太陽系模型をセッティングしておくようにって。練雨先輩に頼まれていて」
壁際の棚の一番上の段を指す。
「高い場所にしまってあるから、取り出すの大変なんですよね。重いし。必ず男子部員がやるようにしているんですけど……っと」
日向が棚のガラス扉を開けた瞬間――
がっしゃーん!
巨大な物体が滑り落ちてきて日向の足元で砕けた。破片とちりが空中に舞っている。
衝撃を慰めるのに必要な、しばしの沈黙タイムの後――
「うそだろ」
日向の悲壮なつぶやきが聞こえてきた。
「……嘘だろ。え、えっ、えええっ!?」
模型の土台は真っぷたつに割れ、惑星は固定から外れてどこら中に散らばっている――『太陽系』は崩壊した。
日向は黒髪の頭を抱えて絶叫する。
「うわあああっ、どうしようーっ!?」
「あーっ!」
混乱状態になった日向に追い打ちをかけるよう、さらなる悲鳴が響いた。
「なんてこった……皆で補修した模型が」
部長の天野川が開いた扉の向こうでムンクポーズをしている。
「棚の戸を開けたとたん、落っこちてきて……すいませんでした。僕の不注意です」
日向は蒼白の顔色で弁明する。
「僕の家に似たような太陽系のプラモデルがあるんですけど、それで代用できませんか?」
坊主頭を振って、天野川は日向を睨みつける。
「これは天文部が代々引き継いできた特別で貴重なものなんだよ! 代用なんて利かない」
「困ったことになったな」
天野川の後ろに控えていた、練雨が部室に入ってくる。
「OB訪問が来週あるのに。壊したなんて知られたら」
面長の顔をゆがめる練雨。天野川は膝から崩れ落ちた。
「仕方がありません……責任をとって俺が部長職を退きます」
「えっ!」
日向が心底驚いたような声をあげる。うつろな目をした天野川が続ける。
「そうする他ないよ。これは誰かが責任をとらないといけない事態なんだ」
「……そんな。模型を壊したのは僕なのに……誰かが責任を取らなきゃいけないなら、僕が取るべきです」
泣きそうな顔をしていた日向は、拳をきゅっと握ると、きつく結んでいた唇を開く。
「僕が天文部を辞めます! それで何とかなりませんか!?」
言った――言わせた!!
光は息を吞み、天井を仰いだ。
『俺たちが水無月に何をしても、それを見逃してほしいんだよ』――具体的に何をするかは聞かされていなかったが、今やその全貌が明らかになった。
日向が「辞めます」と口走った瞬間、天野川と練雨が浮かべた、してやったりの表情が目に焼き付いている。嫌なものを見てしまった。
「――待てよ」
鎮痛な面持ちでいた日向が、ふと顔を上げる。
「昨日、模型を片した後、棚に戻したのは僕でしたよね」
何やら考え込むように腕組をしている。
「この模型、土台が不安定だから、棚に戻すときは必ず奥まで押し込むようにしていたんです。なのに、さっきは棚の扉を開けた途端、模型が滑り落ちてきたんです」
「押し込みが甘かったんじゃないのか?」
作戦成功の嬉しさと戸惑いが混じった表情で、天野川が言う。
日向はパイプ椅子を棚の下に引っ張ってきた。
「やっぱり……昨日も、奥まで押し込んだはずです」
椅子に上がって棚の奥を覗きこんでいる。
「棚の背板に黒い塗料が付いてます。絵の具が乾ききっていなかったんだな。黒色を土台に塗り始めたのは、昨日からです。黒の塗料が背板に付いてるってことは――昨日模型は奥まで押し込まれた状態だった、ということです」
よどみのなく説明した日向に、 練雨と天野川は、キツネにつままれたような顔になる。
まさか、こんな展開になるとは思ってもみなかったのだろう。
「もしかすると、これ――」
薄い唇に人さし指を当てて、日向は一同を見つめる。
「扉が開いたときに模型が落ちてくるように、意図的に細工された可能性がありますね」
マッチ棒のような全身を震わせて、練雨がふらりとよろめいた。




