6-1 天文部の憂鬱
「……各自体調に気をつけて万全を期すように」
一月も半ばを過ぎて、センター試験が終わった。
ホームルーム中、クラスメイトの視線はそろって担任教諭に向いているが、心のベクトルの向きはバラバラだ。それぞれの将来への不安や期待で、浮き足立っているのだ。
息がつまるような独特の空気に、雷宮光は小さく嘆息をついた。
*
「雷宮」
教室から一歩出たころで呼び止められた。タイミングの良さからして、待ち伏せされていたに違いない。
「話があるんだ。ちょっといいか」
細い。そして、長い。
マッチ棒を連想せずにはいられない体躯の男が廊下にたたずんでいた。
練雨恋治。ただ同学年というだけで、特に親しいわけではないが、親同士の仕事を通じて中学時代からの知り合いである。
「天文部のことで相談があるんだ」
「……天文部?」
大学受験のまっただ中に何を言ってるんだろう、コイツは。
うさんくさげに見返すと、天文部の元部長は声を低めて、「水無月が絡んでるんだ」といった。水無月日向が――?
光が反応をみせたタイミングで練雨はたずねてくる。
「知っているだろう。水無月が天文部に仮入部したこと」
光がそれを知ったのは、つい最近のことである。
交際している一年生の水無月日向とは、毎日放課後に顔を合わせるのが日課になっている。
日向の部活動だったり光の塾で、一緒に帰れない日がほとんどだが少しの時間でも会うようにしていた。が、冬期間は男子バスケ部の活動は週三日しかない――屋外部活も体育館を使用するため――ことを知った光が、毎日せっせと部活に通う日向を問い詰めると、天文部に仮入部したことを白状したのである。
『黙っていてごめんなさい。顧問の先生に勧められて……でも、ようやく理想の部活動に巡りあえた気がするんです』
告白した日向は、どことなく浮かれた様子だった。
部活動の兼部は認められていない。
天文部に正式に入部することになれば、日向は、バスケ部を退部しなければならない。彼自身が納得した上でそうするなら問題ない、と光は考えていた。
しかし天文部にとっては違うらしい。
練雨は、国家の一大事かと見まがうほど深刻な表情をしている。
「水無月のせいで天文部が崩壊の危機に瀕しているんだ」
「……は?」
崩壊の危機、とはずいぶん大げさな表現だ。しかも日向のせいで? 皆目見当もつかない。やけに語尾をためる練雨に、光は苛立ったように先をうながす。
「いや、水無月が悪いってことではないんだよ。独学のわりには知識もあるし、雑用を頼んでも嫌な顔ひとつしない。助かってる」
「だったら何が駄目なんだよ」
光はいらっとした。
「ご存知とは思うが、天文部は常に部員不足で悩まされている。現在の部員は、二年生で新部長の天野川と一年生の女子二名の、計三名だ」
「水無月くんが入部したら、四人になるだろう。いい話じゃないか」
「そう上手くはいかない。まあ、この俺だからこそ、早めに気づけた予兆なんだが」
練雨はキザな仕草で、マッシュルームカットの髪を掻きあげた。
「女子二名が、水無月に惚れかけているんだよ」
「――あ?」
思いっきり顔をしかめた光に、落ち着け、と手の平をバウンスさせる。
「チームワーク抜群で、とても仲が良かったのに。水無月のせいで、ふたりの間にぎくしゃくした空気が流れるようになったんだ。シリウス、リゲル、ベテルギウスじゃあるまいし。三角関係は夜空だけにして欲しい。あ、今の冬の大三角形な」
「……よくわからんが。それがなぜ天文部の危機なんだよ」
練雨は、失望したように細く長い溜め息を吐いた。
「雷宮。お前、剣道の試合で相手の太刀筋を読むのは天才的なのに、恋の太刀筋はまったく読めなんだな」
「じゃあ、お前は恋愛に詳しいのかよ」
ふっ、と練雨がニヒルな冷笑を浮かべる。
「俺の名前は恋治――名に『恋』が入った男だぞ。俺の恋愛経験は日々鍛えられている――夢と妄想の中で」
「妄想でかよ!」
「お前の恋の行方、星占いでみてやろうか」
「いらん!」
かみ合わない会話に、光は再びいらっとした。早く会話を切り上げたいのに、練雨は自らに酔いしれるような口調で続ける。
「まあ、彼女たちの気持ちもわかる。学校一の美少年が入部するっていうんだからな。
“王子様”っていうのは、遠くに見て憧れてこその王子様だ。身近にいたら、そうじゃなくなる――恋愛射程距離範囲内に入るんだよ。しかも、マイナーな趣味がクリティカルヒットだ」
マイナーな趣味――日向が愛してやまない宇宙科学のことだ。
楽しく宇宙を語る日向の話し相手になろうと、光も努力はしてみたが、どうにもこうにもハマれなかった。きっと素質がないのだろう。
「趣味を通じて、距離が縮まる。これぞ恋愛の常套だ。このままだと、水無月をめぐって気まずくなった彼女たちは、最悪部を辞めてしまうかもしれない。彼女たちの性格を考えると、可能性は高いと思う」
力説する練雨に引きながらも、光は首をかしげざるを得ない。
いまいちピンとこなかった。
たしかに日向はモテるが、彼自身は女性恐怖症のため、初対面に近い女子と親しくしている姿がまず想像できない。三角関係にまで発展しているなんて、嫉妬を抱くとか以前にピンとこなかったのだ。
「一度、部の様子を観察してみたらいい」
練雨が提案してくる。
「他の部室を覗くなんて無粋な真似ができるか」
元剣道部部長としてのプライドが許さない。
「俺が許可する。ちょうど活動してる時間だな、行こう」
「おい、勝手に……!」
練雨のペースに巻き込まれるのは気にいらないが、興味に負けてしまう。
実際のところ、『今日は天文部の活動が忙しいから真っすぐ部活に向かいます』と日向から連絡があったばかりの光だった。少し会うこともできないのか、と苛立ったのは数分前のことである。
天文部の部室は、特別棟三階の物理準備室。壁際に並ぶ背の高い棚に、教材が詰まったダンボールがびっしり詰められていている。雑多な雰囲気だ。
「――どうぞ」
部員たちに気づかれないよう死角にひそむ練雨が、扉のガラス窓を指した。
覗きなんて悪趣味な……と思いつつも、光はこっそりと中を伺ってみる。
棚に囲まれた部屋の奥に、大テーブルを挟んで二組の男女が座っている。粘土のようなものを捏ねていたり、絵筆で塗ったりしていた。
てっきり天体望遠鏡などを弄っている、と思っていた光は不思議そうに呟く。
「何をしてるんだ、いったい」
「先代から引き継いだ〈太陽系模型〉を補修してるんだよ。来週OB訪問があるから」
坊主頭の男子が立ち上がって、模型の全体像を眺めている。あれが部長の天野川か。
「日向くん、黄色の絵の具をちょうだい」
ショートカットのふっくらした顔の少女がいう。
応じるように、端正な外見の少年――水無月日向が絵の具チューブを差し出した。
「っ!」
光は無意識に拳をにぎる。
――なんで? なんで、よりによって下の名前呼び!?
今度は、低い位置で髪を束ねた痩せぎすな少女が、「日向くん、器用だね」と褒めた。こっちもか!?
やがて和やかに会話がはじまる。むろん話題は天文学だ。
日向は、興味があることを話しているせいか、女性恐怖症ゆえのオドオドした感じがなく、純粋に楽しそうに見えた。対する女子たちのキラキラ星のように輝く瞳――恋する少女の瞳である。
練雨が不安がっている意味がようやく理解できた。
「わかってくれたか――?」
心がざわつき始めた。絶妙なタイミングで声をかけられる。
「危惧を抱いているのは俺だけじゃない、部長の天野川も十円ハゲができるくらい気に病んでいるんだ」
「……あの坊主頭に十円ハゲが?」
それはなかなか悲惨なことではなかろうか。
いわれてみれば、楽しげに談笑しているのは女子と日向だけで、天野川は浮かない顔をしている。
「お前は、女子たち――星住くんと宇伊川くんが元々友人同士で、一緒に入部したと思っているだろう?」
「違うのか」
「彼女たちはそれぞれ別に入部したんだ。天文学に興味があるからと明確な動機でね。男ならまだしも女の子がひとりで、だぞ。相当の覚悟がないとできないことだと俺は思う。意欲もあるし何より才女だ。この先、部を担ってくれる重要な存在で、絶対に辞めてほしくない」
ふたりは互いに押し黙ったまま、部室を離れた。階段を降りるところで、練雨が静かに光を呼び止める。光は半身だけ振り返る。
「水無月が入部すればプラス1だが、彼女たちが辞めてしまえばマイナス2だ。天文部の存続自体が危うくなる。元部長として、それはあまりに忍びない」
部活動やサークルがやたらと多い黒志山高校は、天文部のように存続すら危うい団体も少なくない。野巻アカネの演劇部もそうだ。元部長として案じる気持ちは分かるが……
「だからって、どうしろっていうんだ。私が辞めろと言っても聞かないぞ、たぶん」
「辞めろ、なんて言えるわけないだろう――だから自ら辞めてもらうしかない」
そこで練雨は、ひどく軽薄な笑い方をした。
「雷宮、お前に頼みがある。といっても何か行動してほしい、というわけじゃない。むしろ何もしないで欲しい」
「意味がわからないが?」
不愉快そうに聞き返した光に、練雨は、今度は真剣な顔つきで告げた。
「あえていうなら――これから俺たちが水無月に何をやったとしても見逃してほしいんだよ」




