5-3 地球の公転運動に関する講義
「何かが違うような」
「え?」
休憩中のサイン会特設コーナーで――
秋人の尋問から解放されたカナと日向は、青いクロスがかかったテーブルを眺めている。
「あのテーブル。最初に見たときと、印象が違う気がしない?」
「別に」
妙なことばかり気にかける幼馴染に、カナは呆れたような溜息を吐く。
「それより、アッキ―かわいそう……。早く腕時計見つかればいいね。大切なものだって言ってたし」
秋人の悲しそうな表情を思い浮かべ、カナの胸は痛んだ。
「いや、あんなの変だよ」
「変?」
「さっきのやり取り。最初っから、見つける気なんて無さそうだった。あんなことをしても意味が無いってわかってたみたいだ」
「ちょっと、何その言い方? 持ち物検査をしなかったのは意外だったけど。それは、アッキ―のファンへの思いやりじゃないの?」
日向は数歩下がって腕を組むと、小柄なカナの全身を上から下まで眺める。
「な、なによ? 私、雷宮先輩みたいにスタイル良くないわよ」
「たしかに、そうだ」
「ぬーっ!!」
「いや、そういうことじゃなくて……。持ち物検査なんて意味がない、ってこと。腕時計なんて、いざとなったらどこにでも隠せる。服の中とか下着の中に隠されたらアウト。そこまでは探りようがないだろ?」
「っ、だったら最初からそう言いなさいよ!」
華奢な肩をいからせるカナに、日向は「ごめん」と力なく謝る。
「あの尋問は一体何だったんだろう? 腕時計を見つける気、本当にあるのかな……疑問だよ」
「だったら、最初から無くしたなんて騒がないでしょう。それにね、もしファンが犯人だったとしたら、無闇に持ち物検査なんかされるより、ああやって優しく諭される方が心理的に効くわよ」
「……そうかもしれない。でも、あれじゃあ、まるで」
途中まで言いかけて、日向は「ん?」と首を傾げる。
もどかしい手つきでデジカメを取り出すと、画面と実際の光景を見比べている。
「わかった。違和感の正体」
「ええ?」促されて、カナもデジカメを覗く。
「ミネラルウォーターのボトルだよ。位置がズレてる」
「?……まあ、言われてみれば」
カナは、テーブルの上のボトルを見る。中身はほとんど残っていない。
写真の中で秋人の右手側に置かれていたボトルは、日向のいうとおり、さらに右へとズレている。
「でも、それがどうだっていうのよ? アッキ―が置き直しただけじゃないの?」
「ボトルだけじゃない。サインペンも同じ方向に位置がズレている。それに、マネージャーさんがいた机にあるクリアファイルも左側にズレている――すべてが真ん中に寄ってきているんだ」
好奇心の権化のような光を瞳に宿らせながら、日向はさらに続ける。
「それから、あのテ―ブル――。
長テーブルを2台並べているけど、テーブルクロスは最初からあんな風にかけられていただろうか?」
「はあ?」
カナは日向と同じ位置に立って、もう一度観察してみる。
テーブルクロスは、各テーブルに1枚ずつかけられているように見える。何もおかしいところは無い。
「ねえ、そろそろ帰ろう?」
腕時計の行方は気になるけど、これ以上、面倒事に首を突っ込むのはゴメンだ。
白目をむきかけている日向の腕を小突く。
「カレーの材料を買って帰らないと。カレーは煮込みが甘いと、美味しくならないんだよ」
「ん……」
コートの袖を引っ張るが、深い思考に入ってしまった日向は動いてくれない。
「もうっ……あ! ほら、これ!」
とりあえず他に興味を移そうと、カナは書店の販売コーナーを指さす。
「『太陽系をつくる』だよ! 日向くん、この天体模型欲しいって言ってたじゃない!」
「ほんとだ」
日向の目の色が変わった。しめしめ。
この幼馴染は不思議な物事への好奇心も旺盛だが、宇宙や自然への興味もハンパじゃないのだ。特設コーナーに積み上げられている付録メインの分厚い雑誌を、日向はさっそく手に取っている。
「創刊号800円か。よーし、買っていこう」
「でも、こういうのって次号から高くなるんだよね。ほら、次号から1800円だって。全部そろえたらいくらになるんだか……」
「全50巻だから、大体10万ってとこかしらね」
聞き覚えのある声がして、ふたりは振り向く。
巨体のオネエ系男子――鞠小路だった。
「10万……」日向が失望したような呟きを漏らす。
「買ってあげてもいいわよ、ヒナタくん。あたしと付き合ってくれたらね?」
「本当ですか! うわー、どうしよう」
「何悩んでるのよ! 駄目に決まってるでしょーが!」
「カナちゃんこそ、なによぉ? あなたたち付き合ってるってわけじゃないんでしょ?」
流し目で嫌らしく見下ろされ、カナはつい虚勢を張ってしまう。
「つ、付き合ってるかもしれないじゃないですかっ!?」
「アンタは自分の彼氏をアイドルのサイン会に連れてくるの? あたしだったら、絶対にそんなことしないけどな」
「ぐっ!」
嘘を見破られたカナは、「そういえば」と鞠小路に尋ねる。
「アッキ―の腕時計、見つかったんでしょうか?」
「いいえ」鞠小路はキザな動作で首を振る。
「あたしまで順番が回ってきた時点で、わかってたけどね。あたしは時計を盗ったりしてないし」
「そうですか」
カナが俯くと同時に、あやつり人形のように、日向がついと顔を上げた。
「――ねえ、カナさん。地球の公転ってどういう仕組みか知ってる?」
「なに、いきなり?」
理科は中学のときから苦手科目だ。
「公転って、地球自体が回ることだっけ?」
「それは自転でしょ」鞠小路が呆れたように説明をくれる。「公転っていうのは、地球が太陽を回っていることよ、簡単に言えば」
少なくともカナよりはインテリらしい鞠小路の説明を、日向はさらに追加する。
「たとえば、ここに大きなゴムのシートがあるとするよね? その上に、大きなボール――『太陽』を置くと、重さでシートは下に沈むだろ?」
「……それはそうね」
「大きなボール(太陽)の重さでシートが沈んだ影響で、周辺のシートは曲がることになる。その曲がったシートの周りで、小さなボール――『地球』を転がすとどうなるだろう? 重いボール(太陽)の周りを回るようになるよね」
脳内で必死に図を思い浮かべながら、カナはゆっくり頷く。
「太陽の重さで、ゴムシート(時空)が歪むことで、惑星はその周囲を回る――。
少し大雑把な例えだけど、スティーブン・ホーキング博士は公転運動をこう説明してるんだ」
「なるほど」と呟いたカナに、日向は満足げに講義を終える。
「……公転の仕組みはわかったけど。でも、それが何?」
カナは冷たく返す。もっともな疑問である。
「カナさん、もう一回確認しておきたいんだけど」
「なによ?」
「カナさんがサインをもらうとき、マネージャーさんが、テーブルクロスをズラしちゃったんだよね?」
「またその話? だからそう言ったでしょ」
もう思い出したくない。
『カナちゃん』が、『カトちゃん』になったことなんて。
「鞠小路さん」
「いやん。サナちゃんって、呼んで」
「サナちゃん……さん。あなたのときは、テーブルが動いたせいで、サインの文字が崩れてしまったんですよね?」
「あの、おデブマネージャーがテーブルにぶつかったせいでね」
ふたりに確認を終えると、日向は急にクスクスと笑い始める。
端正な顔に、子供っぽい悪戯な笑みを浮かべ、指を一本立てた。
「さて、問題です――。
周囲の『惑星』を引っ張り込んで動かした、その中心に在る『太陽』は一体どこにあるのでしょうか?」




