5-2 消えた腕時計
「ちょっと、日向くん!」
追いついたカナの目に飛び込んできたのは、とんでもない光景だった。
書店の出入り口で、身長190センチはあろうかという大男を、日向が通せんぼしていたのだ。
「なっ、何してるのよー!?」
「……あ」
日向は正気に戻ったのか、いきなり狼狽え始めた。
「ど、どうしよう……頭より先に体が動いちゃって」
「なんだよ? てめえ!」
男性がドスのきいた声で怒鳴ってくる。
「すみませんでした! ほら、日向くん、早く退けて」
「あれ?」
そこで、男性は顔を上げた日向をはたと眺めた。
「何この子。メッチャ可愛い……もしかして、ノースBの新人?」
恐ろしげな声色が和らいだ――と思ったら、男はぽっと顔を赤らめたのである。
「なあに? あたしに何か用かしら」
えっ――!?
その豹変ぶりにカナは驚く。よく観察すると、男の顔には薄化粧がされていた。頬に添えられた指先には、深紅のマニキュアが塗られている。
「アッキーからサインは貰ったけど、まだ別のサービスがあるのかしら?」
うっとりと日向を見下ろしながら、しなを作って尋ねてくる。
「……ええと、そんな感じです。すいませんけど、ここで待っててもらえますか? カナさんも、ここで待ってて」
「ちょっと!」
適当なことを言い残し、日向は駆け出していった。
「あの子、ヒナタっていうの? やっぱり知らない名前だわ。あなたは知り合いなの?」
「はい、まあ」
わけがわからないまま、オネエ系の男性と取り残されたカナは不安でたまらない。
またいつもの日向の悪いクセが出たのだろうか。きっと、そうに違いない。
「ねえ、ノースBの新人か何かでしょ?」
ノースBとは、ノースKの予備軍的グループで、ライブではバッグダンサーを務めている。(ちなみに、Bは紅鮭のBだ。)
「あの子、どんなサービスしてくれるんだろう。たのしみね!」
駄目だ。
日向が紛らわしいことを言ったせいで、勘違いしている。
これは、頬チュウくらいしないと、済まないかもしれない。いや、それで済めばいいけど――カナが物騒な心配をしていると、スーツ姿の太った男と店員がこちらにやって来るのが見えた。
「そこの、あなたと、あなた」
太った男――エッセイ本を販売していた男だ――が、オネエとカナを順番に指す。
「少しお時間よろしいですか?」
「……え?」
「秋人から話があります」
*
ファンにとってそれは、強制に近い勧告だった。拒否できるわけがない。
『関係者以外立ち入り禁止』のドアの通り抜け、案内されたのは、机とパイプ椅子しかない殺風景な部屋だった。
「間もなく、サイン会の1部が終わりますので、少々お待ちください」
その口調は丁寧だったが、頬にたっぷり肉をつけた男は油断ない視線で、ファンたちを見回している。
「思い出した」
パイプ椅子に窮屈そうに腰かけているオネエが、声を潜めてカナに囁く。
「アイツ確か、ノースKのマネージャーよね。鎌田とかいったっけ」
「……ああ」
名前を聞いてピンときた。ライブのときステージ脇で、ファンたちに睨みをきかせている鎌田の姿を、カナは思い出す。
「評判悪いわよね、アイツ。ライブを盗撮したって決めつけて、スマホ取り上げられた子がいるらしいわよ?」
「私も知ってます、その話」
「あの――」
不穏な空気が伝わったのか、隅に座っていた20代半ばくらいの三つ編みの女性が、手を挙げて発言する。
「どうして私たちがここに集められたんでしょう?」
「まもなく秋人が参りますので。本人が話をします」
手帳に目を落としていた鎌田は面倒くさそうに答える。
「どんな用件かくらい教えてくれても……。私、この後バイトがあって、時間が無いんです」
「困ったなあ……わたしからは何も喋らないようにいわれてるんだけど」
鎌田がイライラしたように後頭部を掻く。
「実は、先ほどのサイン会で、秋人の腕時計が紛失するという事件が起きまして。周囲を探し回ったんですが、見当たらなくて」
「――もしかして、盗ったっていうんですか? 私たちが?」
三つ編みを揺らしながら、女性が口を尖らせた。同調するように、オネエも「あ?」と威嚇を込めて鎌田を睨む。
「いや、その可能性があるのが、あなたたち3人だと……その少年が言うものだから!」
慌てた鎌田が指さした先にはキョトンとしている日向がいた。
「日向くんが!? なんでっ!」
一斉に非難の目を向けられた日向は怯えたように肩をすくめて、チノパンのポケットから、デジカメを取り出す。
「これ、さっき僕が写したものなんですけど。見えますか? ほら、このとき、まだ腕時計はあったんです」
カナ、オネエ、三つ編みの女性――3名は膝を突き合わせてデジカメの画面を覗く。
カナと秋人が握手している、その背景となっているテーブルの上に、サインペン、ミネラルウォーター、そして――シルバーの時計が写っていた。
「……本当だ、在る」
日向はオネエを見て「この後があなたの番で」、今度は三つ編みの女性を見て「次はあなたの番だった。このとき、アッキ―さんは時計が無いことに気がついた」
「あのテーブルは、物を見失ってしまうほど乱雑じゃなかったし、僕がざっと見たところ、床には何も落ちていませんでした。だから」
「待って」
カナは頭を抱えたくなる。
日向の言いたいことはわかる。もし、腕時計が盗まれたならば、ここに集められた3人が怪しいというのもわかる。でも、だからって、自分から首を突っ込むことないじゃない――!
カナは幼馴染の功罪を思い返した。小学生のとき、たまたま近くに小さい子が手放した風船を、どこまでも追いかけて、迷子になりかけたこともある。あの頃と何も変わっていない。
「最近、タレントの私物が盗まれて、オークションで流されてるってニュースを見たから。もし、そうだったらと思って……ごめん」
さすがに、やり過ぎたという自覚があるのか、日向は弱ったように言い訳する。
「そういうことじゃなくて! いや、そういうこともあるけど! ほら、この写真! 私がアッキ―の近くにいたとき、腕時計はちゃんと在るでしょう。どうして、私まで疑われなきゃいけないのよ?」
「……それは、俺からもマネージャーさんに言ったんだけど。去り際に盗ったかもしれないって言われたら、反論できなくて……」
「でもっ」
「お待たせしました」
ガチャリと、無機質なドアの開く音が響いて、西河原秋人が現れた。
サイン会の1部が終了して、休憩時間に入ったらしい。
「部屋を隣に用意してあるので、おひとりずつ、来てもらっていいですか?」
誰かが口を挟む間もなく、秋人がテキパキと指示する。
「じゃあ、私が」
時間が無い、と主張していた三つ編みの女性がまず立ち上がって、秋人と部屋を出ていった。
秋人から話がある――とは聞いているが、具体的には何をするつもりなんだろう?
ファンとして近くにいられることは嬉しいけど、疑われているのだと思うと、堪らない気持ちになる。
持ち物検査でもされるのだろうか。マネージャーの鎌田は同行するわけでもなく、残ったファンらを見張っている。
「アッキ―、お肌荒れぎみね。お疲れなのかしら。このごろ特に忙しそうだもんね」
秋人の登場で、機嫌を持ち直したらしいオネエが心配そうに呟いた。
「ねえ、あなた」
「はい?」
「ノースKに昇進したら、推しメンにしてあげようか」
「おしめん?」
「あたし、鞠小路紗南男っていうの。サナちゃんって呼んでね」
オネエ――鞠小路は、ラベンダー色の名刺を日向に差し出してくる。
「ミスター・メアリーって店でオーナーやってるの。いつでも連絡して」
強引に名刺を握らされた、日向は「はあ」とぎこちなく微笑んだ。
「まったく、今日は良い日なんだか悪い日なんだか。サインの文字を失敗されちゃうしさ」
「私もですよ! あのマネージャーにテーブルクロスをずらされたせいで、こんなことに」
カナは鞄からエッセイ集を取り出して見せる。
「アナタも? あたしもね、テーブルをズラされたせいで、文字が」鞠小路もそれを見せてくれる。「ほらあ、『サナちゃん』が『サトちゃん』になっちゃったのよぉ」
日向が笑いを堪えている。カナのと、ほとんど同じミスだ。
「あのオデブ、狭い場所で動き回ってたから、テーブルに当たりまくってたのよね。ったく、あたしは薬屋にいるオレンジ色の象さんじゃないっての! あたしは象の被り物をするから、あんたはチョビ髭付けて、一緒に抗議しよう?」
「どうして、チョビヒゲ?」
「まったく。若い子はものを知らなくて嫌になっちゃうねぇ」
「次のかた、お願いします」
数分と間を空けずに、秋人が呼びにきた。
鞠小路が「どうぞ」と順を譲ってくれたので、カナは立ち上がる。当然のように、日向も付いてきたのを、秋人に咎められた。
「できれば、この子とふたりだけで話したいんだけど?」
連れてこられたのは、会議用机がひとつしか置かれていない、さらに殺風景な部屋だった。
「彼、私の幼馴染なんです」
「おさななじみ、ですか」
秋人は日向を一瞥して、溜息を吐く。追い出されるかと思ったが、この場にいることを許されたようだ。
「お時間をとらせてしまって、本当にごめんなさい」
アイドルは殊勝な態度で、まず頭を下げた。
「先刻のサイン会で、僕の私物が無くなってしまったんです。こんなことを聞くのは、本当に心苦しいんだけど、何か心当たりはありませんか?」
間近で見る秋人は、顔も体も華奢で整っていて、まるで人形のようだ。鞠小路が心配していたように、肌は若干荒れているようだが。
「ごめんなさい。私は何も……」
疑われているかもしれない――と分かっているものの、憧れのアイドルに必死な様子で尋ねられると、どうしても役に立ちたいという気持ちになる。
「そうですか。これ、僕に直通でつながる番号です」
秋人はガッカリしたように肩を落として、カナにメモ用紙を渡した。
「後から何か気づいたことがあれば、連絡してください」
持ち物検査はしないんだろうか――?
机の上にバッグを置いてスタンバイしていたカナは拍子抜けする。
「アッキ―さん、聞いてもいいですか?」
そこへ場違いに口を挟んできたのが、日向だった。
「テーブルの上に腕時計を置いてから、無くなったことに気づくまで、何か不審なことはありませんでしたか?」
「いや」秋人が怪訝そうに首を傾げる。
「特に思い出せないけど……あの時計は、大切にしていたから」
「見つかるといいですね」
元気づけるようにカナが言うと、秋人は、妙に真剣な表情で「はい」と頷いたのだった。




