4-7 思い込みは捨てなければならない【解決編】
「ああ、君か」
劇団の脚本担当――埜村雅成は、日向を見るなり朗らかに微笑んだ。
「王子様役、もう一度やってくれる気になったのかい? 歓迎するよ。ん?……頬が腫れてるけど、どうかした?」
続いて控室にやって来た楓を見て、埜村はワイルドな表情をコミカルに崩す。
「お前は両頬かよ。いったい何があったんだよ」
劇団ふたり芝居。千秋楽は、ほぼ満席の状態だった。
開幕を三十分後に控え、劇場内の熱が高まっているのを感じる。メイクを終えた主演俳優の当麻が舞台袖に向かったのと交代に、三人は控室に集まった。
「お忙しいところ、すみませんでした」
日向は埜村に黒髪の頭を下げる。
「これから僕は意味不明なことを言うかもしれません。それで……もし、心当たりがなければ無視してください。でも、万が一、心当たりがある場合は、僕の言うとおりにして欲しいんです」
顎ヒゲを撫でる埜村を見据えて言う。
「今日は何もしないでください」
呆けたような沈黙があって、埜村と楓が顔を見合わせた。
「――あの、それだけです」
「ちょっ、水無月くん!」
踵を返そうとした日向を、楓が慌てて呼び止める。
「なんだよそりゃ! 突然そんな訳わかんないこと言われたってさ。舞台前で忙しいのに、わざわざ埜村さんを連れてきたオレの立場が無いっていうか」
「時間だったら平気だよ」
パイプ椅子から立ち上がった楓の背中を、埜村がぽんと叩く。
「もう段取りは済んでいるから。それにしても――」
役者の器量を値踏みするかのように、埜村は日向を上から下まで観察した。
「面白いね、君。王子様みたいな外見をして、ぶっ飛んだ発言をするか。いいよ、そういうの。俺、見た目と中身にギャップがある人間に弱いんだ。玲於奈を好きになったきっかけもそうだった。――でも、さすがに説明不足じゃないかな」
凄味のある精悍な顔立ちがこちらを向く。
「なぜ俺はそんな“忠告”をされなきゃいけないんだろう? 心当たりがないなら無視しろ、っていわれてもねぇ。このままじゃさすがに気持ち悪いよ。消化不良でムカムカするな」
日向は困惑の表情を浮かべていたが、やがて弱ったように口を開いた。
「僕と空野くんは、劇団の皆さんに『似ている』と言われましたが、埜村さんはそれについてどう思っていますか」
「……どうって」
埜村は肩をすくめて、日向と楓を見比べる。
「前にコメントしなかったっけ? 君は、お城のプリンスって感じだけど、楓は、まあ良いとこ海賊のプリンスってところだろう」
「似てない、と思っている?」
「そりゃそうだろ。皆どこが似てるって思ったんだろうなぁ。君と楓じゃ『顔』の系統が全然違う」
その言葉に、足元を見ていた楓がはっとして顔を上げた。日向が申し訳なさそうに言う。
「埜村さん。僕らが似ていると言われていたのは、『顔』じゃありません――『声』なんです」
顎ヒゲの口周りにに張りついていた笑みが、すうっと消えていった。
「……なんだ、そうだったのか。おかしいと思った」驚いた後、くぐもった笑いを漏らす。「そんな質問をするってことは、君は知っているんだな。俺が、耳が不自由だってことを」
「嘘だろ?」
楓が大きな瞳をこぼれんばかりに見開く。
「マジかよ。オレ、全然気付かなかった」
「楓には教えてなかったか。三年前にバイク事故にあった後遺症だよ。知っている奴らも、俺のことを特に気遣っているわけじゃないしな。ほら」
埜村は耳にかかった横髪を上げる。
「補聴器が入っている。これがあれば問題なく会話できる。それに俺は、読唇術の才能があるらしくてね、気づかれないことも多いんだ」
「すみません」日向は気まずそうに謝る。「どうしても確信が持てなかったんで、野巻先輩に確認させてもらいました」
「ふうん。でも、一昨日の俺の様子からそうじゃないかと疑ったわけだ? なかなかの観察力だな」
「でもさあ、それが何だよ」
楓が苛立たし気な態度をみせた。
「埜村さんが耳が聞こえにくいってことが、何だって言うんだ」
衣装がかかったハンガーラックに日向は触れる。
「ドレスにカラースプレーを吹き付ける――動作自体は簡単に思えるけど、実際には、スプレーを噴射する独特な音がするだろうし、谷島さんが間近に来たタイミングで実行しなければならない。地味に難易度は高いです。だから、僕はあの日、スプレーが吹きつけられたのは、着信音が鳴っている間だろう、と思い込んでいました。着信音で皆の注意を引いているうちに、彼らの仲間が実行したんだろうと」
「当麻は前にいた劇団の奴らの仕業だ、って気にしてたが。“連携プレイ”ね」
なるほど、と埜村は顎を撫でる。
「でも、実際は違っていました。僕の先輩が着信音が鳴っている間、谷島さんの近くにいたんです。ドレスは綺麗なままだったそうです」
光の話を一緒に聞いた楓が、反芻するように頷く。
「つまり、スプレーが吹き付けられたのは着信音の騒動が収まった後ということになります。“連携プレイ”じゃなかったんです。それを知って、僕は混乱しました。スプレーを用意していたのだから、犯行は計画的だったはず。であれば当然、犯人は実行のタイミングを決めていたと思うんです。しかもそれは着信音の嫌がらせとは無関係だった。――この舞台は初演ですか?」
「ああ……いいや」
劇団の脚本家が微妙な答えをする。
「脚本は俺が書き下ろしたものだけど、玲於奈が前の劇団にいたとき何度か公演したことがある。玲於奈のファンの客の中には、観たことがある奴もいたんじゃないかな」
「だったら、なおのこと――『舞台のこのタイミングで実行しよう』と決めていたんじゃないでしょうか。では、一体どのタイミングだったのか? 着信音と同様に皆の注目が集まるタイミング。たとえば、舞台上で大きなアクションが行われる瞬間とか」
「大きなアクション?」
日向の呟きに楓が反応する。
「あのとき舞台では……そうだ、男スパイが壺を割る場面だったよな。ラストまで他に派手なシーンはないし」
「犯人にとっては、まさに絶好のチャンスだったんじゃないかな。でも、あのとき舞台上では別のトラブルが起こってしまいました」
埜村がぴくりと眉を上げた。
「着信音の嫌がらせで気が動転していたんでしょう――音響の太田さんが、壺が割れる効果音を流すタイミングを逃してしまったんです」
「……なん、だって」
にわかに脚本家の不敵な笑みが引いていく。苛立ったようにテーブルを二度叩いた。
「太田の奴め! 俺が聞こえてないと思って黙ってやがったな!」
クールな表情が消え失せ、野性的な表情があらわになる。
「知らなかったんですね」
「ああ」
埜村は鼻息を荒くしている。
「公演中に補聴器をしていると調子が悪くてね、外しているんだ。他のメンバーも俺に黙っていたんだな、太田のミスを。仲間をかばうなんて、本当にいい奴らだよ!」
楓が困ったように首をすくめた。
「でも、効果音がズレたからってそれが……」
「太田さんのミスで、壺が割れる音は、犯人の想定したタイミングで響かなかった。犯人にとって、これ以上のハプニングがあるだろうか――にもかかわらず、あのドレスには、ためらった様子や中断した気配が全く感じられないほど、べっとりとスプレーが吹き付けられていたんです」
「……っ」
楓が声にならない呻きを漏らした。
「そもそも、着信音の嫌がらせがあったにもかかわらず実行したことが異常なんです。
あのとき、劇場に鳴り響いた着信音のせいで、皆の注目は舞台から観客席へと移っていました。しかも、音は一か所からじゃない。四方八方から音がして、そのせいで、観客席全体に警戒が強まっていたんです。そんな状態で、おかしな行動をしたら目立つに決まっている。僕が犯人だったら中止してます。たぶん、大抵の人はそうするんじゃないでしょうか」
埜村が「ふっ」と、くぐもった声で笑った。
「いや、でもっ」楓が息巻く。「もう一回言うぞ? だから何だよ、って! 音が聞こえづらい埜村さんが犯人だとでも言うつもりかよ」
睨まれた日向は楓をちらりと見返して、小さく溜息を吐いた。
「着信音の嫌がらせ、効果音が遅れたこと――どちらも『音』に関するトラブルでした。だから僕は、この犯人は、相当に度胸と思い切りのある人物か……もしくは、トラブル自体がよくわからなかった――耳が不自由な人物によるものじゃないか、と考えたんです」
「だからどうした?」
奮える声で楓が反論する。
「今の話、理屈はわかるけど何の証明にもなってない! そういう人間がいたかもしれない、ってだけの話だ。埜村さんと玲於奈さんはな……!」
「楓」
低い声で遮ったのは埜村だった。
「薄々お前も気付いていたんじゃないか? 水無月くんが指摘したとおり、上演中に自由に動き回れない観客が、タイミング良くスプレーを吹き付けるなんて無理だよ。現実的な発想じゃない。舞台上の俳優はいうまでもなく、スポットライトを操作していた梓ちゃんにも無理、桑木はあきれるほどの地獄耳だしな」
「埜村さん……」
「というわけで残るは――俺だ。そういうことだろ? 王子様」




