4-2 ハプニングと鮮血
どうして、こんなことになったんだろう――?
ステージ上で、強いスポットライトを浴びながら日向は考えをめぐらす。そうだ。今日はテストも終わって、ひたすらダラダラ過ごす予定だったのに。なぜ、珍妙な衣装を着せられ、観客の注目を浴びているのか。
「このかたは外国の王子様で、日本語が通じません。とある石油王のご子息でね」
日向の傍らいる、二十代半ばくらいのハンサムな男が芝居がかった口調で言う。
演劇だから芝居がかっているのは当然か。日向はひたすら温和に微笑んでいる。ただ『笑顔でいてくれればいい』と、指示されていたからだ。
すべてはアイツせいだ。空野楓――。
台風のようにやってきて、感嘆とともに両手を握られたと思えば、ステージ裏に連れていかれ、今にいたる。
『水無月くん、やっぱり来てくれてたのねー!』
『ね、マジ王子様みたいでしょ。発見して連れてきたオレにご褒美ください!』
『お前はただ、アカネちゃんの指示どおりに彼を見つけてきただけだろ』
『でも、良かった。森くんが二日酔いで来られないって連絡入ったときは、どうなることかと思ったけど』
『肌の色が白いなぁ』
『メイクします? いいんじゃないですか、今のままでも十分カワイイし、品もあるし』
『そうだよなあ。このままだと楓が、王子様だったからな。顔は悪くないけど、とにかく品が無いんだよ、お前は』
『埜村さん、ひでえなぁ』
以上は、開幕寸前にステージ裏で、劇団員らが交わした会話である。
ちなみに、この間、日向は一言も発していない。拒否する権利さえなかった。
「こんな偽の王子まで用意するなんて、あなたも相当に用意周到ね」
「この気品あふれるかたが、よもや偽物だと? 君も相当に疑り深い。王子様こちらへどうぞ」
艶やかな赤いドレスをまとった女優の、疑惑の視線を浴びながら、日向は舞台袖に引っ込む。
男スパイと女スパイの騙し合いの活劇――とはパンフレットで知っていたが、詳しい展開を伝えられていない日向は、まさに“謎の王子”の心境のまま退場した。
「水無月君、お疲れ! イエーイ」
手の平をぱちりと叩かれた。空野楓だ。
「もう出番ないから、着替えていいよ」
日向はおもむろに頷く。
舞台袖には音響設備があり、小太りな男が機器を操っている。その傍らに、腕組みした野巻アカネがいて、ふたりとも真剣な顔付きで、舞台の様子が映ったモニターを眺めていた。アカネがふと振り返る。
「水無月くん! ほんと助かったわ。ありがとうね。あとで、少しだけど謝礼を出すから」
「……そんなの」
いいです。と、答えようとしたが、止めた。無為の労働は良くない。貰えるものは貰っておこう。
役者用控室に、自分の制服がたたまれているのを発見し、日向は着替え始めた。
「? はい」
ノック音に返事をする。
「お疲れ。なかなか良かったぞ……っ」
光だった。観客席を抜けてきたらしい。小刻みに身体を震わせている。
「褒めるんだか笑うんだか、どっちかにしてください」
すると、光は腹を抱えて笑い始めた。この様子だと、観客席でも笑いをこらえていたに違いない。
「空野くんと先輩はどういった知り合いなんですか?」
爆笑が落ちついたのを見計らって、日向が訊く。光は目尻の涙を拭って、
「同じ道場の門弟だよ。このごろ見かけないと思ったら、こんなことをしていたんだな。野巻が謝りにきたよ。デートを邪魔してごめんねって」
「……へえ」
鏡に映った自分の姿を見て、日向はさらに落ち込む。頭に巻かれたターバンを乱暴に外そうとするが、上手くできない。
「取ってあげようか」
光は、日向を椅子に座らせると、器用に布を外してくれた。
「はい、できた」
「ありがとうございます……」
いたずらな瞳が間近にある。
頬を柔らかい手で包まれ、額同士をこつりと当てられる。
キスされる――
日向はぎゅっと目を瞑った。が、予想に反して何もこない。薄く目を開けると、光は、ばつの悪そうな顔をしていた。
「……嫌われたら嫌だ、と思って」
「え……?」
意外なセリフに、日向は唖然とした。
いつもはこちらが赤面して目を逸らすまで、じっくり見られるのに。けれども今、光は猫のような目をさ迷わせている。
「嫌わないです」
その言葉に、光がうつむき加減だった顔を上げる。
「……本当に?」
「たぶん」
何をされたら嫌いになるだろうか――?
考えてみるが、すぐには浮かばなかった。間近で瞳がぶつかると、今度は、すぐに唇が下りてきた。
「……んっ」
いつもより、深く長く、口づけられる。
驚いて身を引こうとした日向は、腕を強く掴まれる。唇を離した光は、照れくさそうに笑っている。
日向は今さら身体が震えてくる。かーっと顔に血液が集まっていくのがわかった。
「っ……こんなとこで」
誰が来るかもわからない劇場の控室で、何てことをしてしまったんだろう――?
しかも、ちょっと気持ちいいとか思ってしまった。羞恥心がこみあげてくる。
「劇場の控室って面白いな」
自己嫌悪にさいなまれる日向にかまわず、光は控室を散歩している。
部屋の中央にあるハンガーラックには、多種多様な衣装がスタンバイされている。水色ワンピにエプロンドレス――不思議の国のアリスだろう――の衣装を胸元に当てて、光は鏡をのぞきこむ。
「王子様のコスプレ見せてもらったし、私も何かコスプレしてあげようか?」
「……はは」
日向は薄く笑う。衣装を探っている光はどことなく楽しそうだ。
「じゃあ、裸エプロン見たいです」
妖精が飛び回るような沈黙のあと、神妙な顔で光が振りかえった。
硬直している日向に近寄り、くすくす笑いながら「変態」と耳元にささやく。
「趣味悪いんだな?」
「……いや、先輩。今の」
「今度ね」
背中をポンと叩いて出ていってしまう。
光の気配がなくなると、ドアの陰から何者かが飛び出してきた。
「すげーっ! やったな、水無月くん。あの師範代が裸エプロンだぞ!」
ハイテンションでまくし立てられる。日向の顔からさーっと血の気が引いた。
「……いまの、まさか、空野くんが?」
「おうよ」
手柄を横取りした悪役のように、どんぐり眼が小狡そうに光る。
「思わず答えちゃったけど、よく気づかれなかったな。オレら声似てるんだな!」
日向は真っ青になって項垂れる。
『裸エプロン』に一番驚いたのは彼自身だった。どこからか自分じゃない自分のような声がしたのだから当然だろう。楓と声が似ているかどうかなんてどうでも良い。問題は、光は日向が発言したと勘違いしていることなのだ。
「っ、本当にやっちゃったら、どうするんだよ!?」
あせって怒り出した日向に、楓はむしろ興奮したように、
「本当にやってくれたら最高じゃん! 写真撮らせてもらえ。それをオレにくれ」
「……なんてことを」
「なんてことを、はオレの台詞だよ。謝礼を渡しにきたってのに、こんなところでイチャついているから入れなかったんだよ」
見られていた――!
ガックリきた日向は脱力して膝から崩れ落ちた。もう楓を責めることはできない。
「あれっ」
控室にも舞台を中継しているモニターがある。それを見上げていた楓がおかしな声を漏らした。
「変だな……舞台が止まってる」
「え?」
「ちょっと確認してくる!」
いわれてみれば、小さい音で流れていた舞台の音声が途切れてしまっている。
異常を察した楓が控室を飛び出していく。日向も後を追って舞台袖に戻ると、あきらかに空気が緊迫しているのがわかった。
「なんだよこれ……っ!」
それは、場違いに堂々と観客席から響いていた。
Bell Phone――
黒電話の着信音である。しかも、一台だけじゃない。客席の四方八方から鳴り響いている。無数の音が、不穏きわまりないメロディを奏でていた。
「ひどい、こんなの……妨害行為だわ」
アカネがおぞましげに呟くのが聞こえた。
事実、観客たちの注意は舞台から削がれていた。役者が演技を止めてしまうほどに。
「ケータイの電源はお切り願います! 今すぐオフにしてください」
観客席に『STAFF』ジャンパーを着た男が入ってきた。注意を引きつけるよう、手を振り回しながら叫ぶ。マイクを使わずとも、よく通るバリトンの声だった。怒号の迫力に気おされたのか、着信音がじょじょに止み、劇場に静けさが戻った。
「――そうか。この壺に隠されているんだな」
間髪入れずに、舞台上の俳優が演技を再開した。
すごい。
日向は固唾をのむ。観客の集中を一気に舞台に戻そうという、役者の意気込みが感じられたからだ。
しかし、第二のトラブルが起こる。俳優が舞台上の壺に近づき小槌を振り下ろすと、あらかじめ亀裂が入っていたのだろう、壺は音もなく崩れた。が――
「太田さん!」
アカネがモニターを注視していた小太りな男の背中を叩く。
動作に数秒遅れて、がしゃん、と陶器が割れる音が響いた。ハプニングに気をとられていた音響担当が、効果音を流すタイミングを逃してしまったのだ。
「あら壺を割るなんて乱暴な。どう? 探し物は見つられたのかしら」
観客席に下りていた女優が、スポットライトを浴びながら舞台に戻ってくる。
今度は仲間のミスをフォローしなければならない。
たいしたものだ、と日向は再び感動した。いまだ緊張がつづく舞台で、女優は狼狽のかけらもみせない。だが、残酷にも――
観客席から、きゃっ、と短い悲鳴が上がる。
「どうしたの!?」
モニター越しではよくわからない。
舞台袖から顔をのぞかせたアカネが、声にならない悲鳴をあげた。背後からのぞいた日向もおもわずうめく。
「……っ!」
予想だにしない凄惨な光景だった。
金髪を腰まで垂らした美しい女優が、エメラルドグリーンのドレスを身にまとっている。その鮮やかなドレスの後ろ裾が――赤い液体でべっとりと染まっていた。
やむなく、幕が下ろされた。




