3-2 置き去りにされた××
ある日の放課後――。
日向は、珍しくひとりで下校するところだった。
部活動は顧問の都合で休みになったし、放課後、迎えにくる光も今日は現れなかった。たまには、自分の方から迎えに行っても良いとは思うが、一年生が三年生の教室をひとり尋ねるのは、ちょっと気が引ける。
お腹も空いたし、今日は早く家に帰ろう――。
そう決めて、下駄箱を開けて、上靴を脱ごうとしたところで……
「っ!? わあああ!」
捕獲された。
背後から脇を抱えられ、後ろへと引っ張られる。メチャクチャな恐怖のなか、どこかの部屋に引きずられ、訳が分からないまま放り出された。
「君、軽いね」
「……田雲、先生?」
「つかまえた、王子様」
*
見上げると、白い天井を背景に、黒縁眼鏡の優男が微笑んでいた。
ここは――保健室のベッドの上じゃないか。混乱状態が解けず、目をぱちくりしていたところを、今度はカメラ小僧に襲われた。
「野巻先輩?……なにやってんですか」
カメラ小僧でなく、カメラ女子だった。
「よしオッケー! 先生ありがとね!」
「どういたしまして」
カメラを手にした野巻アカネと、養護教諭の田雲が握手を交わしている。不思議な光景に首をかしげつつも、日向はようやく起き上がった。
「ほら、前に写真を撮らせてもらったでしょ? 写真をあげた友達がね。水無月君のことをすごく気に入って、今度は制服姿の写真が欲しいって頼まれたのよぉ。ウチの高校、制服だけはカワイイし」
そういう問題ではない。
「じゃあ、普通に撮ってくれればいいじゃないですか。いや、撮られるのも嫌だけど! なんでベッドで横になってるところを撮るんです!?」
「それは、良いようにご想像におまかせするわ」
「――良い想像が微塵も浮かばないんですけど!!」
怯えはじめた日向に、「まあまあ」と個包装のパンを差し出してくる。
「これ、どうぞ」
スーパーで売っているようなものじゃなくて、パン屋で売っているやつだ。お腹も空いていることだし、遠慮なくいただくことにする。
「さっき話してた友達が、『写真のお礼に』って、新しくオープンしたロイズのパン屋さんで買ってきてくれたんだよ。どう味は?」
「うまいです」
パンで頬を膨らませたまま、日向は答える。
「――ほんとだ。チョコレートのパンなのに甘すぎなくて美味しい! 先生もどうぞ」
「ありがとう」
田雲は冷蔵庫から缶コーヒーを出して、生徒たちに配った。
「先生、気が利くぅ!」
いくら放課後で、病人もいないとはいえ、保健室で飲食などしても良いのだろうか?
ふと不安になるが、管理している養護教諭が何も言わない……というか、一緒にパン食べてるし、良いんだろう。良いことにしよう。
「そういえば、日向君に相談したいことがあるんだよ」
田雲がおもむろに口を開く。デスクの引き出しから濃紺のハンカチを取り出した。
「これの、持ち主を推理してほしいんだ。」
「持ち主って……それ男物ね。新品? シールがついたままだわ」
アカネが身を乗り出して、ブランド名が印刷されたシールを指す。文字の横にペンギンの絵が刺繍されている。
「今朝、シーツを替えてるときに見つけたんだ。枕の下に置いてあった。誰かの落し物だと思って、心当たりがありそうな生徒たちに聞いてみたんだけど、みんな違うって」
「心当たりがありそうなって、保健室のベッドを使った生徒ってこと?」
田雲が頷く。
「昨日の朝、ベッドを整えたとき、こんなもの無かったんだ。だから、昨日ベッドで休んだ子が落としたものに違いないのに、何故だか皆『自分のじゃない』って言い張るんだよ。不思議だと思わないか? ねえ、日向くん」
名指しされ、夢中でパンを食べていた少年はぎくりとしたように顔を上げる。
「野巻さんから聞いたけど、階段下で揉め事が起こったとき、真相を突き止めたのは君なんだろ。僕にも力を貸してくれないかな?」
真相を突き止めた、なんて。
そんな大袈裟なことはしてないのに、と日向は思う。しかし、話の内容も気になる。口の中のパンをごくりと飲み下して、コーヒーを啜る。
「状況を詳しく聞かせてください。それと」
アカネの方を向いて、遠慮げにたずねる。
「――もうひとつだけ、パンもらっていいですか?」
*
「いやあ、気持ち良いくらいペロッと食べるねえ」
結局、残りのパンはすべて日向の胃におさまった。田雲は冷蔵庫から缶コーヒーを取り出すと、大食い少年にそれを手渡す。
「先生はあまり食べないの?」
「そりゃ高校生くらいのときは、よく食べたよ。焼肉だったら、1キロとか食べてた」
「今は?」
「全然駄目。胃腸の働きが鈍くなったのかな」
「ちょっと、まだ二十代でしょ」
どうでもいい世間話をする養護教諭と先輩を横目に、「で?」と日向は話を促す。
「昨日ベッドを使った生徒って、誰ですか?」
「ああ」田雲は指を三本立てる。「名前は言えないけど、三人の生徒だ――。1人目は……『太郎君』としようか。彼は一時間目が始まってから、すぐやってきた。頭が痛いとかで。熱はなかったけど、1時間くらい休ませて、教室に戻らせた」
「授業始まってすぐとか、メッチャさぼり目的じゃん!」
呆れたようにアカネがツッコミを入れる。
「2人目は『花子さん』。彼女は、もうすぐお昼という頃に来て、お腹が痛いっていうんで、お昼休み中休んで、午後の授業には戻っていったよ」
「腹痛かァ。生理痛がきつい女子とかもいるからね。3人目は?」
「3人目は『次郎君』だ。花子さんが帰った後に間もなく来て、関節が痛いとか言ってたかな。あんまり痛むようなら病院行きなさい、と勧めておいたけど。結局、その日の授業が終わるまでイビキかいて寝てたね」
「そいつもサボリかァァい! ったく、どいつもこいつも!」
いきり立つアカネとは対照的に、日向は大きな目をとろりとさせている。食べ過ぎで眠くなったのだ。
「――以上だけど。日向くん、聞いてた?」
聞かれた本人は、はっとした表情になって、「聞いてましたよ。――で、先生は翌朝の今日、ハンカチを発見したと」
「ああ。今日のうち、三人に聞いてみたんだけどね。皆、自分のじゃないって」
「三人に変わった様子はなかったの? あからさまに演技してるなコイツ、とか」
アカネの質問に、田雲は無念そうに手を上げる。
「僕に鋭い観察眼でもあれば、何か気付けたのかもしれないけどね。皆、本当のことを言ってるようにも見えたし、疑おうと思えば、いくらでも怪しく見えた」
ごめんね、と田雲が呟く。アカネは盛大なため息を吐いた。
「先生、いくら何でもそりゃ無理ってものよ! それだけの情報で、ハンカチが誰のものか、なんてわかるわけない。指紋でも採れたら、わかるかもだけどさ。新品のようだし、先生が使っちゃえばいいじゃない」
「う~ん。新品だから、余計悪いって気がするんだよね」
「どうして新品なんでしょう?」
日向は濃紺のハンカチを手に取って眺めている。
「新品ってことは、これの持ち主はハンカチを使ってなかったってことですよね。シールも剥がしてないし。全然使った気配がない」
「たまたま新しいハンカチを持ってきた日だったんじゃないの? ハンカチじゃないけど、新品の服を着たとき、タグが付いたままだったってこと、アタシもあるよ」
アカネが恥ずかしい失敗をさらしたのに、日向は腕を伸ばして「うぅん」とあくびをした。
「眠そうね、少年。真面目にやる気あるの?」
「あ、パンの分は働きます」
元演劇部部長の迫力ある目で睨まれ、ぺちっと頬を叩く。
「――田雲先生、お願いがあります」
「なんだろう」
日向は、薄い唇を人差し指でひと撫でしていう。
「調べて欲しいことがあるんです」




