2-5 信じてもいいですか
「落書きを見つけたの」
帆南玲子がぽつりと語り出した。
全面ガラス張りの大窓の向こうに、秋色に染まった街路樹が並んでいる。
「『消えたい』って一言。机に鉛筆でね。それがあんまりに寂しげでね……落書きはすぐ消したけど、代わりに、私は簡単なメッセージをつづって、机の裏に貼り付けた。返信があるとは思っていなかったんだけど」
日向はベンチの背もたれにぐったりと身を預けている。
体が熱い。ひき始めの風邪は、悪化して発熱までしているようだ。が、まだ倒れるわけにはいかない。
「内容は本当にとりとめのないものよ。お互い氏名も明かさずにね。本州から引っ越してきた学生さんみたい……たぶん女の子。環境の変化についていけず、悩んでいたみたい。あなたはずいぶん色めいた手紙だと予想していたみたいだけど」
「デタラメを書いてすみませんでした」
さっき朗読したのは、適当に作った偽の手紙だったのだ。光にも手伝ってもらって。
こんなにあっさり認めてくれるのなら、真正面から尋ねればよかった。日向はバツが悪そうに大きな目をふせる。
「――でも、その文通相手。あなたとのやり取りをとても楽しみにしていたんですね」
「そうかしら」
「だって、僕らを盗撮したり写真を貼り付けたり。あんな回りくどい方法を使ったんですよ? 普通あそこまでしない」
「あなたたちにとっては迷惑だったね」
ふたりは軽く笑い合う。
「僕の先輩は、もっと物騒な予想をしていました」
「先輩って、一緒にいた彼女?」
「はい。封筒の中身が、その……個人情報じゃないかって」
さすがに驚いたのか、帆南はぽかんと口を開けた。
「個人情報を違法にやり取りしていたっていうの? まさか」
「でも、最終的な判断は僕に任せてくれました――失礼ですけど、あなたは、司書の資格を持っていないんじゃないですか」
「ええ……でも、なぜそれを」
帆南はくぼんだ目をぱちくりさせる。日向は思い出すように、
「〈913ヨ〉の本に名刺が挟まっているのを発見したとき、『前の部署で、お世話になっていた知り合いだ』って連絡を取ってくれましたよね。その名刺の人物の肩書きは、建築会社の社長でした。だから、以前は図書館とは全く別の職場で働いていたのでは、と思ったんです」
「……なるほどねぇ。ここに来る前は土木課にいたの。私は司書じゃなくて、一般事務の職員だからね」
「僕は、あなただったら信じようって決めてました」
少年のまっすぐな言葉に、図書館係長は小首をかしげる。熱にそまった赤い頬で日向は言う。
「あなたは、司書じゃないのに、写真の裏にあった『913』が図書分類番号だって最初に気付きました。それで、本を好きな人であるか、少なくとも仕事熱心だってことがよく分かりました。そんな人が、自分の職場で汚いことをするわけないって……僕は思うんです」
休憩コーナに沈黙がおりる。
やがて、映画の一場面みたいに、帆南玲子は細く長い溜息を吐いた。
「ありがとう。――ところで、一緒にいた彼女はどうしたの?」
「他に用があるから、別行動をしようって」
*
ふたたび閉架書庫前の通路である。
陽が落ちて薄暗くなった廊下で、光はスニーカーのつま先をトンと鳴らす。「さて」と半身だけ振り返った。
「そろそろ出てきたらどうだ――? 火災報知器のかげに隠れているヤツ」
潜んでいた人物は、かすかに肩をふるわせる。
「今日は何だかわからないけど災難続きでな。私は機嫌が悪い。出てこないなら、こちらからつまみだしに行くぞ」
光の脅しに観念したように、小柄な人物が姿をあらわした。腕組みして仁王立ちする光の前に立つと、深々と頭を下げる。
「やっぱりお前か」
小さな顔を上げるとセミロングの髪がさらりと揺れる。日向の幼馴染、宮西カナだ。
「どういうつもりだ。水無月くんと別行動をしたのに、わざわざ私に付いてくるってことは、私に用があるんだな。今日一日私たちを見張っていただろう。なぜそんなことをする」
問い詰められたカナは、気丈にも真っ直ぐ光を見すえている。
「幼馴染の義務感、ですかね。日向くんが心配だったから」
光は冷たく笑った。
「だからってデートまで見張るのか。兄まで連れてきて? 幼馴染だからってそこまで気にかけるか、普通」
「お兄ちゃんは先に帰ってもらいました。わかっています、やり過ぎたっていうのは」
「水無月日向が好きなのか?」
他の目的があったとはいえ、過去に、日向とカナは付き合っていたフリをしていたという。
もし、それがフリじゃなかったら――?
そんな思考がちらついた光は、彼女らしくストレートにたずねた。
カナは薄らと笑う。
「私ね、小学校低学年くらいまでは本気で日向くんのお嫁さんになるって決めていたんですよ。水無月さん家の親、共働きなんです。親が家を空けることが多いなら、子どもは身の回りのことくらいできてしかるべきじゃないですか。なのに――」
薄いニットのワンピースの裾を、カナはぎゅっと握る。
「あの兄弟ときたら! 料理はおろか洗濯も掃除もロクにできない! 基本言わなきゃ何もやらないし、いい加減な生活送ろうとするし、すぐに風邪をひくし!」
突然怒りを爆発させたカナに、光は度肝をぬかれたように絶句した。
一目ぼれした美少年は、家ではとんでもなくだらしがないらしい。見た目とのギャップに驚きつつ、 光はしばらくカナを眺めていたが、
「もしかして――それは、宮西さんが代わりにやってあげてたからじゃないのか」
指摘されたカナはつぶらな目を丸くする。
「原因、わたし!?」
「今気づいたのかよ!」
頭を抱えたカナは、力なく微笑んだ。
「――たぶん、私たち距離が近すぎたんでしょうね。お嫁さん通り越してて、“お母さん”みたいになっちゃいました」
そこで華奢な身体の姿勢を正す。
「今日一日観察して、雷宮先輩は、私が思っていたよりもずっと、優しくて素直で、普通だってことがわかりました」
「もとは何だと思っていたんだ」
「だから――」
ちょこん、と頭を下げる。
「大丈夫ですよね、任せても。日向くんをどうぞよろしく」
おどけた口調だったが、カナの目は笑っていなかった。
光は少しかまえる。返事をしようと口を開いたところで、
「あれっ、カナさん?」
廊下の突きあたりから、当人が現れたのである。登場すると同時に、「くしょん!」と大きなクシャミをする。
「まだ図書館にいたんだ。司さんは?」
日向は鼻を啜りながらこちらに近づいてくる。やけに上気した頬に、カナの目がぎらりと光った。
「日向くん。もしかして、熱ある?」
「あるぞ」かわりに光が報告する。「オデコに触れたらかなり熱かったし。三十八度以上はあるんじゃないか」
「やっぱりねっ! 陽太の風邪がやっと治ったっていうのに、今度は兄なの!? さては――また真っ裸で寝たな!?」
烈火のごとく怒るカナに、日向はごまかすように笑う。
「パンツは履いてたよ」
「だからぁ、パンイチで寝るなっつってんだろうが! ちゃんとパジャマを着ろ。裾をズボンに入れろ! 腹巻をしろ!」
「ら、雷宮先輩」
助けて――。
説教の鬼と化したカナから逃れようと、日向にそんな視線を向けられたが、光は顔をそむける。
「あー私、そろそろ稽古行かなきゃ。お母さん……じゃなかった、幼馴染のいうとおり安静にして早く風邪治せよ」
と、ひらひらと手を振って走り去る。
「先輩っ」
「こらっ、逃げるな! もう体熱すぎ!」
背後の喧噪を聞きながら、光は図書館を出た。
何だか色々あって……色々ありすぎたけど、悪い一日じゃなかった気がする。
光はポニーテ―ルの長い尻尾を撫でる。
いつの間にか、口元に笑みが浮かんでいた。
夕闇が迫る空には、白い三日月が浮かんでいる。
(to be continued...)
第二章まで、お読みいただきありがとうございます。
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