2-1 隠し撮り
「へっくしょん!」
美しい秋晴れの朝、澄んだ空気は気持ち良いが少し肌寒い。
水無月日向が大きなクシャミをすると、傍らの雷宮光が心配そうに顔をのぞいてきた。
「風邪?」
「昨日の夜からちょっと。大したことないですよ」
日向はぐすっと鼻を鳴らす。
やがて、ふたりが並んでいた建物の出入口から、職員の女性が出てくる。「おはようございます」と挨拶して、『閉館』のプレートを裏に返した。
午前九時――区立図書館の開館時間である。
朝イチの仕事を終えた清掃員のオバチャンとすれ違いながら、長机が所ぜましと並べられた閲覧コーナーへ直行する。
先頭に並んでいたから、もちろん一番乗りだ。向い合わせに座る。
「私たちの後ろに並んでいたオッサンたちは、どこに行ったんだろうな?」
「新聞コーナーだと思います。毎朝、図書館で読むのが習慣になってるんだと……」
答える日向は、まるで儀式のように、椅子や机の上をさらりと手で払っている。ようやく腰かけると、今度は上体を倒して、机の下をのぞき見た。
「あっ、こら!」
「いだっ」
思いっきり足を踏まれて、日向は悲鳴を上げた。
「今、スカートの中をのぞいたろ!?」
光が叫ぶ。日向は、一瞬きょとん、としたが慌てて弁明する。
「ち、ちがいますよっ!」
「そういうプレイが好きなら願い下げだぞ」
光は拗ねた表情を見せて、
「ふたりっきりのときだったら良いよ……私はどっちかの家でやろうって言ったのに。なぁ?」
熱っぽい瞳をしている彼女から、日向は顔をそらした。
「ふたりきりで密室にいたら……勉強どころか、襲われそうで」
「それが男子の発想かよ!」
「痛ぅ」
今度は軽いデコピンだ。
「ごめんなさい……っ、僕が悪かったです!」
開館したばかりで、周囲に人はまばらだ。
貸出カウンターにいる司書の女性らが、先ほどから、こちらに視線を向けている。図書館では静かに――
勉強会をしよう、と誘ったのは光だった。
光は高校三年生、受験生である。
一方、日向は一年生で、わざわざ休みの日に図書館で勉学に励むほど熱心でもないのだが、熱烈で過激な先輩に逆らうこともできず……。
部活動が休みだったこともあり、お互いの家から一番近い区立図書館で勉強会ということになった。
「せっかく朝イチで来たしな。今日はじっくり数Ⅰ、教えてもらうぞ」
「僕が教えるんですか?」ふつう逆だ。「数学得意じゃないですよ」
「ちょうど今、習っているところだから、記憶が新しいだろ? 私は忘れた。サインとかコサインとかさっぱりだ」
「どこがわかんないんです」
「正弦定理の最初っから」
うぅと日向が唸りつつ、持ってきた教科書をめくり始めたところ――
「あれぇ、水無月くんじゃないか」
突然声をかけられ、ふたりは同時に顔を上げた。髪を襟足まで伸ばした二十歳くらいの男である。
「こんな朝早くから勉強? 感心だね」
「――司さん」
日向が驚いたように名を呼ぶ。
「一緒にいるのは、彼女さんかな? へえ、彼女出来たんだ。良いことだ、なあ、カナ?」
男の身体に隠れるように、小柄な少女が後ろにいた。カナ、と呼ばれた少女はセミロングの髪を揺らして、ぎこちない笑みを向けてくる。
「日向くん、おはよう……偶然だね」
「おはよう。兄妹揃って、どうしたんですか」
「上の階で、ちょっと調べものがあってね」
と、司は二階の吹き抜けロビーを指す。
二階には資料室がある。去る際、司は日向の耳元に「年上? 美人だね」とからかい口調でささやいていった。
「なんだよアイツらは!」
司とカナの姿が見えなくなるなり、光が息巻く。
「僕の幼馴染です」
「そういえば、あの小っこい妹の方、君と同じクラスだろ。見覚えがある。ていうか、兄の方、めちゃくちゃ感じ悪いな」
「元はああじゃなかったんですが、ちょっと事情があって」
「なんだよ事情って」
「……愉快な話じゃないですよ」
出来れば話したくない。
そんな様子の日向だったが、有無を言わさぬ光の強い双眸に当てられ、諦めたように息をついた。
「中学のとき、同じクラスの女子に告白されたんです。でも、当時、僕の女性恐怖症は今よりも酷くて」
水無月日向は、見た目は文句無しの“美少年”である。
その実態は、途方もない分野への好奇心と知識欲のかたまりで、おまけに女性恐怖症ぎみなのだけど、そんなことはつゆ知らず、寄ってくる異性も少なくはない。
「正直に伝えて断ったんですが。納得してくれなくて……きっと治るって逆に励まされたり」
どこかで聞いたような話である。
光は肩をすくめて、「あきらめの悪い女子だなあ」などと言う。日向は苦笑するが、すぐに表情を引き締めた。
「――で、カナさんに、“彼女”のフリをしてもらうことにしたんです」
光の眉がぴくりと動く。
「彼女のフリだと?」
「良くないこととはわかっていたんですけど……相手もようやく諦めてくれて、正直助かりました。でも、それを、僕らの家族まで勘違いしちゃって」
いたたまれないように、日向はますます声を落とした。
「司さんも、僕を本当の弟みたいに可愛いがってくれて。僕もカナさんも、耐えられなくなったんで、本当は『フリでした』って謝りました。それからずっとあんな感じです。ヒナタって呼び捨てだったのに、他人行儀になっちゃうし」
「……まあ、妹を“フリ”に使われたら、兄は怒るな」
冷静でまっとうな意見に、日向は深くうなだれた。
「はい。僕が悪いんです」
「そうか」
光は頷くと、その話題に興味をなくしたのか、数学の問題集に視線を落とす。「これはどう解けばいい?」とシャーペンの先で問題を指し尋ねてくる。
「あ、はい。それはですね、えっと」
日向はおずおずと解説する。
いったん集中し始めると、光は日向の説明を真摯に聞いた。その態度に、日向は素直に感動する。引退してしまったが、光は女子剣道部の部長だった。武道をたしなんでいる人は、集中力も高いのかな、と日向は勝手な想像をした。
光があまりに集中しているので、日向は貸し出しの本を読みはじめた。
時空やタイムマシンの原理について、わかりやすく解説した本だ。
この十六歳の少年の興味は、世の中の不思議――特に、自然現象や宇宙に向けられている。
「くあ」
向かいに座っている光が、大きな伸びをして、
「何を読んでるんだ」
「先輩、知ってます?」
待ってました、といわんばかりに日向が大きな目を輝かせた。
「二機の飛行機を反対方向に地球を一周させるでしょ。そうしたら、西方向に飛んだ飛行機の方が、時間が早く進むんですよ」
「なんだそりゃ」
「不思議でしょう。双子のパラドックスの一例でですね」
手をひらひらさせて、光は説明を中断させる。そんなに多くの情報量が返ってくるとは予想外とばかりに。
「ようやく公式が頭に入ったとこなんだ。悪いけど、他の知識が入る場所はない」
「そうですか……僕、この本、返却してきますね」
光が話に乗ってくれなかったため、日向はションボリした様子で、カウンターへと足を向ける。寒気がしたので、捲っていたシャツの袖を戻した。貸出カウンターに本を差し出す。
「返却お願いします」
「はい。……あれ? あ、ああっ!」
司書の女性は、日向を見上げた途端、メガネの奥の目を丸くする。
「写真の子!」
いきなり叫ばれ、唖然としていると、さらに司書は背後の事務室に向かって「係長」と叫ぶ。すぐに中年の女性が出てきて、「あら、本当! 写真の子」と全く同じリアクションをする。
奇妙なシチュエーションだ。
いったい何なんだろう。写真って?
「あなた、これに心当たりがないですか。出入り口の掲示板に貼ってあったの」
中年女性は、図書館に入って最初に目にする、大きな掲示板を指す。戸惑う日向に、プリント用紙を見せる。
「これ、あなたよね?」
A4サイズの用紙いっぱいに、読書中の少年の姿が写っている。
熱心な様子で、本に目を落とすのは――
「僕、ですね」
そこに映っているのは紛れもなく、日向自身だった。




