エピローグ
『――エル、まだ地上にいるね?』
荘厳かつ柔らかな声色が、鼓膜に直接伝わってくる。
通信元は、かつての指導役だった大天使である。エルは体の芯から震え上がる。
『申し訳ありません! ちょっとしたトラブルがあって、顛末が気になってしまい……』
今回は、極秘ミッション。
よほどの事が無い限り、天界との連絡は禁じられているのだが。
『事情はだいたい把握している。それよりも大きなトラブルが起こった』
『えっ?』
『犬塚と鬼元が別荘の近くに来た』
『あの、テロ事件の!?』
これから数年後、日本史上最悪のテロ事件が起こる。
主犯グループの犬塚と鬼元。彼らの出会いが、厄災の始まりだった。だからこそ、出会いのきっかけとなる存在――雷宮茉莉花を消去したのに!
『どうも見通しが甘かったようだ。凄まじい引きの力……磁石のS極とN極みたいな奴らだ。別々のサバゲーチームの一員として、同時にやって来たんだ』
『そんな偶然って……ふたりが会うのは、もっと先の予定なのに』
大天使は苦悩のため息を吐く。
『雷宮茉莉花の魂の残滓に惹かれてやってきたのか、それとも、近しい魂の存在に惹かれてやってきたのか』
『近しい魂?』
『ターゲットの従姉妹だろうね』
『雷宮光……ですか』
彼女も消去されるのか。鞄の中、ラブリー・キラーの冷たい感触が手に伝わってくる。
『とりあえず、犬塚と鬼元は追い払っておいた』
『追い払った? どうやってですか』
そのとき、玄関ホールで「ははは」と高笑いが響いた。エルは人間たちへ視線を戻す。
「森をうろついていたのは、クマじゃなかったよ。迷彩柄の服の奴らが、こそこそ隠れながら、おもちゃの銃で撃ち合っていてね」
「それ、サバイバルゲームってやつ? こんな閑静な別荘地で、わざわざやらなくてもいいのに!」
「ふざけた奴らだな」
「ねえ」
アカネと光が競うように怒る。
「『誰の許可を取ってやってるんだ!』と脅してやったら、蜘蛛の子を散らすように逃げていったがね」
「脅したって?」
「そういえば」と日向は怖々とした口調で、「門脇さん、本物の銃を持ってるんですよね……?」
アカネは耳を覆う仕草をした。「わー具体的にどう脅したかは聞かないでおこう」
「なあに。無闇にぶっ放したりはしてないさ!」
またも豪快に笑い飛ばす小柄な老人。
『――というわけだ』
説明を大幅に省いた大天使。
『なるほどです』
エルは感心して頷く。卵ケースの調達といい、鬼元と犬塚を撃退したことといい、大活躍の門脇である。
『あの、大天使様。雷宮光も消すことになるんでしょうか?』
『いや』
否定のあとの沈黙。重苦しい気配が漂う。
『計画はリセットされることになった。テロを防ぐためには、また別の対策を練らねばなるまい』
『リセット……』
がくり、と全身の力が抜ける。
強烈なめまいに襲われ気絶したエルが、次に目を覚ましたとき、大きな腕に抱き留められていた。
見渡す限りの白雲の上。見慣れた光景。地上と天界の中間、辺境の地だ。
『……ガブルエル様、どうして?』
『地上ではよくやってくれたね、エル。指令どおりラブリー・キラーを発動できた』
『たくさん……練習、したから』
『――でも、言ったろ? お前は何にでも首を突っ込みすぎる。好奇心は猫をも殺す、と忠告したろ』
『…………』
『あれはお前が見るには、都合の悪いものだった。誰だって失敗の後始末なんて見られたくない。プライドの高い主なら、なおさらだ。……ばかだね。ラブリー・キラーを発動した後、すぐ天界に戻ってくればよかったものを』
その言葉に、エルは七色に輝く双眸を見開いた。
『――そっか。計画と一緒に、ボクも消去されるんですね』
記憶、どころではなかった。存在自体も消されるのか。さすが天の差配は甘くない。えげつないほど粛々としている。
『このミッションは失敗してはならないものだった……誰かが始末をつけねばならぬ』
『……茉莉花はどうなります?』
『消去自体がリセットされる。彼女の魂は地上に戻る』
『そう、ですか』
『そして、ターゲットの微笑み。あのアルカイク・スマイルが他人の心を乱す波長を出しているのかもしれない。エルも気づいていたね』
『アルカイク・スマイルって、モナリザの? ああ……なんともいえない気持ちになる笑みでした』
『あれを攻略することが、厄災を止める鍵になるかもしれない』
『……じゃあ、あの娘を消去せずに済むかもしれないんですね』
天使は微かに笑った。
自分の魂と引き換えに、少女の魂が戻される。辻褄が合わされる。
不思議と悪い気分はしなかった。むしろ少し愉快な気分で、エルは最後の力を振り絞り、赤い唇を開く。
『――大天使様。ボク、わかったんです。茉莉花が卵を隠し持っていった理由……』
『かわいいエル。そろそろ、お眠りなさい』
『……』
あたたかな両腕に抱かれて。エルの意識は、まどろみに溶けていく――。
七色の小さな閃光が散った後、辺境天使の魂は、跡形もなく消え去った。
+ + +
愛の救済による消失、リセット。
これにより、時間は四時間ほど遡る。
+ + +
少女は足音を忍ばせ、部屋に入る。
まるで泥棒みたい、と彼女は思った。
ジャージの腹の部分から、卵のパックを慎重に取り出す。ついさっき冷蔵庫から取ってきたばかりで、よく冷えている。プラスチックケースの表面には結露ができていた。
「えっと……ここだっけ」
アンティーク風の机の引き出しを開ける。
あった。小さい頃、お父さんが買ってくれたアートセット。
開封シールを剥がし、卵をひとつ手に取ると、油性ペンのペン先を近づける。
「インク、大丈夫かな」
出始めは少しかすれたが、まだ十分に使えそうだ。幼い頃に覚えた歌を口ずさみながら、卵の殻に落書きをし始めた。
「ハンプティ・ダンプティが塀に座った……ハンプティ・ダンプティが落っこちた」
すべての卵に顔を描き終えた彼女は、元のようにケースに戻し、部屋を出ようとする――が、気が変わって引き返し、机からアルバムを一冊手に取り小脇に抱えていった。
「何をこそこそしているんだ、茉莉花」
キッチンに戻り、卵を冷蔵庫に戻そうとしたところ、年上の従姉妹に目ざとく気づかれてしまった。
光がキャベツを切る手を止め、茉莉花の顔をのぞきこんでくる。
「何を隠している?」
「あ、やめっ!」
隠していた卵ケースを、無理やりテーブルの上に引っ張り出される。その拍子に、ケースの蓋が開いた。
のっぺりとした卵の表面に、目鼻口髭が描かれている。
「……なんだこれ」
光は表情をゆるませた。なんだか急に恥ずかしくなって、茉莉花は顔を手で覆ってしまう。
「あれー」
ウインナーを皿に盛っていたアカネが、片手にフライパンを持ちながら近寄ってくる。
「すごい既視感なんですけど! 茉莉花ちゃん、野菜とか卵に落書きして恵おばさんに叱られてたよね」
なつかしい、と頬を緩ませる。茉莉花は開き直ったように薄い胸を張った。
「光お姉ちゃんは昨日の夜、私のイタズラに『癒やされた』って、言ってくれましたよ」
「……そんなこと言ったっけ」
「ずるい! とぼけちゃって」
「懐かしいねぇ。ハンプティダンプティ」
千切りキャベツを“百切り”キャベツとアカネにからかわれて、むっとしていた光。ささいなケンカで気まずい雰囲気になっていた二人は、いつの間にか笑顔が戻っていた。
茉莉花が二階から持ち出してきたアルバムの中には、三人の少女が並んで微笑む写真が納められている。
*
合宿二日目、午後の稽古。
「そこの旦那様。卵、いかがですか。産みたてほやほやの、新鮮玉子ですよ」
存在感が強く、声量も申し分ない。
演技をする茉莉花は、普段の彼女と全く印象が違った。二階廊下の広いスペースを舞台代わりに、稽古が行われている。
真剣な表情でヒロインを見つめるアカネと早乙女の背後で、日向は「ぐえ」と悲鳴をもらした。シャツの襟を後ろから引っ張られたせいだ。
「……光さん」
ポニーテールの後れ毛を耳にかけた光は、内緒話の近さで日向にささやいてくる。
「白状しろ」
「何をですか?」
「――昨夜、ベランダで何をしていたんだ?」
「! な、なんのことだか」
「とぼけるなよ。見ていたんだぞ、三階の窓から。よくわからんが怪しい動きをしていただろ」
見られていた――!!
日向は赤面した後、しゅんとなって顔を伏せる。
「早乙女さんに貰った雑誌に、この別荘地がUFOの聖地って載っていたから……」
「UFOを呼び寄せていたのか? 呆れるなぁ。受験生のくせに」
「受験生は関係ないでしょ」
「どちらにしろ今夜の儀式は中止だな」
「なぜ? 今度こそ、と思っていたのに」
「茉莉花は今夜は自分の部屋で眠るっていうから。――今夜こそ一緒だよ?」
「……っ」
覚悟しておけ、と熱い吐息とともに吹き込まれた。それだけで、日向はたじたじになってしまう。
少しでも抵抗、とばかりに、心のなかに留めていた謎を聞いてみることにした。
「結局のところ、どういう意味だったんでしょう」
「ん?」
「――小学校に上がるまでは毎年別荘に遊びに来ていた光さんが」
「うん」
「叔父さん夫婦が来なくなったから、足が遠のいたって」
「………」
「あ、無理に聞くつもりはないんですが」
いや、と光は平然としたまま答える。
「理由は単純だ。叔母が茉莉花を妊娠したから。子育てが落ち着くまで数年ほど別荘に来なくなったんだ」
「なんだ……そういう」
理由だったのか。茉莉花と光を年齢差は考えると、合点がいく話だ。
「ただ、それまでは私のことを可愛がってくれていたから……私よりも一番の存在ができたんだ、って思うと、子供心に悔しくてな」
「寂しかったんですね」
日向の言葉に、光はゆるく唇の端を上げた。
「でも、そんなのどうでもよくなったよ、生まれてきた従姉妹に会ったら。だって、あんなに可愛いものと想像してなかったんだ。私、一人っ子だから……お姉ちゃん、って呼んでくれるのが嬉しくて」
凛とした瞳が、稽古中の従姉妹へと真っ直ぐに向けられる。
「生まれてきてくれて、存在てくれて良かった――って心から思ったよ」
茉莉花がこちらを振り向いた。
光と日向と顔を合わせると、花の蕾がほころぶように、にっこりと微笑んだ。
【『The mission failed and the girl and eggs are not dissapeared.』...END】
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