天使2―おもわぬ誤算
「わわっ、すごい豪邸じゃん!」
早乙女熊雄が歓声を上げた。
一行がようやく目的地に到着したのだ。ミニバンをのんびりと追ってきたエルは、ふぅ、と白い額の汗をぬぐった。
『暑すぎ……ジメジメしすぎ』
もう何度目かわからない不満をぼやく。まったく、雲の下ってやつは、天気次第で湿度が変わるのが煩わしい。
別荘周辺を飛び回っていると、森の中をさまよう生物がいた。近づいてみると子グマである。親グマとはぐれてしまったのか。
子グマはエルを目視できないはずだが、野生動物には独特の勘が備わっているのかもしれない。重圧的なオーラを送り続けると、子グマは怯えたように鼻を鳴らし、山の麓へ方向転換した。
『よしよし、いい子』
ターゲット――雷宮茉莉花がクマに襲われでもしたら、計画は台無しになってしまう。ここは大人しく退散願おう。
「すごーい」「広い!」
別荘に入った人間たちは、興奮している様子だった。開放感やら非日常感やらを味わっているらしい。
エルは彼らが不憫になった。
ある宇宙の太陽系、そのうちの一つの星、そのうえ日本という小さな列島にいながら、開放感だって。
『ぷふふっ!』
羽根の生え際がこそばゆくなり、エルは身をよじった。と、〈愛の救済による消失〉が手からこぼれ落ちそうになり、またも顔色を失くした。
『いけない、お仕事お仕事』
ガラス窓をすり抜け、内部に侵入する。
リビングの学生たちは野巻アカネを中心に集まっていた。
このアカネがリーダー的存在らしい。天界のデータでは、車の運転が荒い以外、今のところ警告マークは付いていない。
「早乙女君は一階のゲストルーム、あたしは二階のいつも使っている部屋を、茉莉花ちゃんは――」
「私も、ふだん家族で使っている部屋に」
宿泊する部屋の割り当てについて、話している模様。
茉莉花の当然ともいえる申し出に、アカネは赤フレーム眼鏡の奥の瞳を曇らせた。
「それなんだけど――エアコンが故障しているから別の部屋を使ってくれないかって。管理人さんから連絡があったのよ。修理を頼んだけど間に合わなかったらしくて」
『は?』
「二階の光の家が使っている部屋で、我慢してくれる?」
『はああ? 何言ってんの、この赤眼鏡!』
想定外のことに、エルは声を荒げた。
〈愛の救済による消失〉は、茉莉花の魂が生まれる契機となった場所で発動しなければならない。
その場所とは、彼女が両親と別荘を訪れる際、使用する個室。茉莉花自身が希望したように、当然その部屋を使うと思っていたのに……!
「この時分にエアコンがないのは辛いですね。了解です」
『茉莉花も了承しちゃってるし!』
彼女が足を踏み入れた時点で、アイテム発動、ミッションコンプリート、楽勝。勝利の道筋はみえていたのに……!!
しょげたエルは、吹き抜けから二階へ飛び上がり、廊下を散策することにした。
射程許可範囲に近づくと、ラブリー・キラーは反応するようになっている。
一番奥の扉の前に降り立つと、ステッキの先に付いているハート(天界石)が桃色に光り出した。エルは扉をすり抜ける。
ベッドが三台並んだ寝室。両端の二台は、ホテルライクな清潔感のある白いリネン類で統一されており、真ん中の一台のみピンク色のベッドカバーがかけられている。茉莉花の両親、雷宮永遠と恵夫妻の個室だ。
ぴこん、ぴこん、ぴこん――アイテムの反応が強まった。
『やっぱり、ここ……だよね?』
アイテムを発動させるのは、この場所で間違いなさそうだ。
故障中のエアコンを、エルは睨みつける。
いっそ天の力で修理できたらいいのに。下級天使のエルといえど、雲の上では、このくらいの小さな奇跡なら起こせるのに。下界に降りた途端、これほど無力になるとは……。
だからって、嘆いてばかりいても仕方がない。とにかく――
『茉莉花をこの部屋に連れてこないと』
一にも二にも、それである。
今回は秘密裏のミッション。天の力で、彼女を誘導することはできない。彼女がこの場所に来るのを辛抱強く待ち続けるしかないのか……
「えっと、どこだっけ?」
廊下から声がした。
小さなボストンバッグを左手に提げた茉莉花が、エルの方に歩いてくる。彼女は天使を通り抜け、永遠・恵夫妻の部屋のドアノブに手をかけた。
「あ! 間違えちゃった。今日はここじゃないんだっけ!」
小さく舌を出し、拳で頭をコツンとやる。
ターゲットは踵を返し、今回割り当てられた個室――光の両親、常磐・絵美夫妻の部屋に入った。
『っ……なんなのっ!!』
エルは思い切り舌打ちをした。今すごく惜しかった気がする。
しかし、しかしである。
天使にも人間にも“慣れ”というものがある。変更した事柄を頭では理解できても、体はすぐには慣れない。
別荘に滞在している間、茉莉花がうっかり目的の部屋に入る、なんてことがあるかもしれない。一筋の希望が見えた気がした。
ぱたんと音がして、ワンピースに着替えた茉莉花が室内から出てきた。
軽快なステップを踏み、廊下の先まで小走りする。その動きや仕草から、浮かれたようすが見てとれる。
「あーあ……光お姉ちゃん。いつの間に彼氏なんか作っちゃって」
誰にも聞こえないよう呟いた言葉も、エルにはしっかり届いている。
彼氏、とは雷宮光が交際している水無月日向のことだろう。
茉莉花と血が繋がっている光はまだしも、エルにとってはどうでも良い人間だ。作戦の邪魔さえしなければ。
――と、噂をすれば陰が差す。
三階から日向が降りてきた。気配に茉莉花が振り向く。
「水無月さん! ジャグジーがありますよ。入りませんか?」
「ありがとう。寝る前に入ります!」
大声で返事した日向は愛想良く振る舞い、そのまま一階に降りた。
茉莉花は彼を見送った後、バルコニーに出て、浴槽が汚れていないことを確認してから湯張りボタンを押した。
「これでよし、と」
流れ出てきた湯の加減をチェックして、満足そうに独りごちる。
「嫌われないようにしないとね」
嫌われないよう――誰に?
主語が抜けているので、対象がわからない。流れからすると、日向に、だろうか。
その後、茉莉花は一階のキッチンで、アカネや光と焼き肉パーティーの準備を始めた。早乙女熊雄と水無月日向は、管理人である門脇老人と火起こしをしている。
やがて、肉の焼ける匂いが立ち昇り、上空に浮かぶエルの鼻孔をくすぐった。
野外で生肉を焼き、騒がしく喰らう。ただただ野蛮な行為に思われるが、一体どこが楽しいのだろう?
冷めた気分で傍観していた天使は、ふいに瞳を輝かせた。
「烏骨鶏のプリン。職場で販売しているんだ。食後のデザートにどうぞ」
門脇老人が捧げた箱には、瓶詰めのプリンが六個並んでいた。
『わあ、おいしそ……!』
エルはよだれを垂らしそうになる。実は、この天使、甘いものに目がない。特にプリンは大好物だ。
六個、ということは、学生たちが一個ずつ食べたとしても、ひとつ余るではないか。どうにかいただけないものだろうか。
「私は甘いもの得意じゃないから、皆で分けて食べて」
プリンを勧めてきた茉莉花に、雷宮光が言った。
なんて勿体ない女。甘いものが苦手だなんて、ただでさえ短い人生の大部分を損しているといっても過言ではない。
光が食べないということは、プリンの余りは二個。いや、茉莉花を早々に消去できれば、三個になるではないか。天の力を使わずにプリンを食べる術を、うんうん唸って考えているうちに、焼き肉パーティーはお開きになった。
バーベキューコンロや皿の片付けを済ませると、女子三人は浴場へ向かった。広い湯船に肩を並べて浸かっている。
「今気づいたんだけど。入浴中、って看板を作っておけばよかったわね。男子ら、困るだろうし」
シャワーキャップを被ったアカネが言う。家族としか使ったことがないので、そういった発想がなかったらしい。
「男子といっても、日向と早乙女だけだろ。別にいいんじゃないか」
「水無月君が入浴中にあたしが鉢合わせちゃってもいいの?」
シニヨンヘアの後れ毛に気にする光に、アカネがお湯をかける。
「あの――」
「うん?」
「合宿に誘ってくれてありがとうございます」
顎まで湯に浸かった茉莉花があらたまった口調で言った。「こちらこそありがとうだよ」とアカネ。
「明日の練習、期待しているからね。卵売りの少女役」
「頑張ります……光お姉ちゃんの彼氏さん、とても良さそうな人ですね」
「そうか」
「はい」
茉莉花は頷いて、湯気のなかで微笑んだ。
「私、おふたりが幸せになれるよう心から願っています」
ぶるっと――。エルは両の羽根を震わせた。
言葉に反して表情は無。立ち昇る湯気で、光は茉莉花の顔が見えていない。ありがとう、と素直に礼を口にする。
『なんだろ……変な感じ』
エルは妙な胸騒ぎがした。
“悪意なき悪製造マシーン”――大天使らが彼女をそう呼んでいたことを思い出す。
彼女の表情は、他人の感情に奇妙な“さざ波”を起こす。
うまく表現できないが、その辺が厄災のきっかけとなっているのではないか。大天使様に報告しなければ……。
コロナワクチン打ちました(;´∀`)無事だったら明日にもう一話更新します。




