人間3―豪邸と部屋割り
古民家風のカフェを過ぎてから、見渡す限り建物がなくなった。舗装路は落ちた青葉で彩られており、背景には山々が広がっている。
森の間から、ふいに、巨大な建物が姿を現した。
「わわっ、すごい……豪邸じゃん!」
ミニバンの窓から歓声をあげる早乙女。
彼の場合、長いドライブが終わりつつある開放感もプラスされているに違いない。
ふっと、現実感が薄れていくような感覚に日向は襲われた。
L字型にレイアウトされた建物は、黒屋根にレンガと木材で造られた壁で構成されており、洗練されたデザイン。
日常が急速に遠ざかり、非日常が迫ってくるような眺めだった。
石垣で囲まれたゆるい坂道を上がって、邸宅の敷地内に入る。
アカネがリモコンを操作すると、ビルトインガレージのシャッターが上がってゆく。ミニバンを停めても、他に五台は余裕で停められそうなスペースが確保されていた。
「とりあえず、生ものを冷蔵庫に入れようか」
アカネはロングスカートのポケットから鍵束を取り出し、勝手口を開ける。
バケツリレーの要領で、スーパーで買い貯めた食材を中へと運ぶ。
邸内は木々の匂いが漂っていた。かび臭いといったこともなく、澄んだ空気が通っている。普段からよく管理されている証拠だろう。
「パパが会社の人と使っているのよ。接待とかでね。家族で使うのなんて、一年に一回あるかないかよ」
ダンボールを移動させながら説明し、アカネはパントリーからキッチンへ進み、大型冷蔵庫を開けた。彼女と日向以外は、玄関に回って各自の荷物を運んでいる。
複数人で使うことを想定しているのか、広々としたアイランドキッチンだった。ステンレスの作業台、五口のコンロ、業務用オーブンなど本格的な設備が揃っている。ちょっとした小料理屋が開けそうだ。
「あ~! 牛乳と生クリームとチーズが入っている。管理人さんが置いていってくれたんだ」
冷蔵庫に頭を半分突っ込み、嬉しそうな声を上げるアカネ。
「管理人さんて、近くに住んでいるんですか」
「ここから、一キロ離れたところに暮らしているよ。酪農ヘルパーをやっていてね、そのおかげで新鮮な乳製品を差し入れてくれるってわけ。最近養鶏ヘルパーも始めたみたい」
「へえ」
日向から、二つ目の卵ケースを手渡されたアカネが、動きを止める。
「卵が2パックある……1パックでいいのに」
「僕らの買い物リストに、卵が入ってましたけど」
「あちゃあ、あたしが重複して書いちゃったのか。弱ったね。食材は使い切って、帰りたいのに」
「多いとまずいですか」
「ま、いっか。卵なら何でもアレンジできるしね。なんなら、夜食に卵かけご飯でも食べる?」
「いいですねえ」
とかく燃費の悪い日向は、夜食大歓迎だ。
にしても、アカネは食材の無駄のない使い切りに随分こだわっているようである。お嬢様のわりに――といったら失礼か――その辺りは厳しく躾けられているのかもしれない。
「はぁーい! 今から部屋割りを伝えるよ」
片づけを終えたアカネが、注目を引くよう腕を振った。
ダイニングキッチンの奥はリビング。
日向が凭れている壁から向こうの壁まで、いったい何メートルあるのか。小さな子どもが余裕でかけっこできる広さだ。リビングに散らばっていたメンバーが、一枚板で造られたダイニングテーブルに集まってきた。
「個室は全部で五つあるの。一階に一つ、二階に三つ、三階に一つね。
早乙女君は一階のゲストルーム、あたしは二階のいつも使っている部屋を、茉莉花ちゃんは……」
じゃあ、と当の本人が胸に手をやって、野巻嬢に向かって名乗り出る。
「私も、ふだん家族で使っている部屋に」
「それなんだけど」と申し訳なさそうにアカネ。「エアコンが故障しているから別の部屋を使ってくれないかって――管理人さんから連絡があったのよ。修理を頼んだけど、間に合わなかったらしくて。二階の光の家が使っている部屋で我慢してくれる?」
「この時分にエアコンがないのは辛いですね。了解です。でも、光お姉ちゃんはどうしますか?」
「光には三階のゲストルームを使ってもらうわ。水無月君と一緒に」
「えっ!?」
「何いまさら動揺してるの。付き合ってるんだから別にいいじゃん。天窓から見上げる星空は最高にロマンチックよ」
「や、そういう問題じゃなくてですね……」
日向はしどろもどろになる。
二人だけの旅行ならともかく、サークルの合宿で同部屋になりたいとは思わない。光に助けを求めるが、
「別に。私はかまわないけど」
と平然とした様子でのたまうではないか。
「今日は晴れているから、星空がよく見えるよ」
だからそういう問題では……。
でも、好都合か、と日向は思い直す。目的を果たすためには。
ちくりとした視線を後ろの首筋に感じた。目の端で伺うと、茉莉花がこちらを見ていた。が、すぐ視線を逸らされる。
なんだろう。気に入らない行動をしてしまったのだろうか。それとも、目的がバレて……?
「じゃ、各自部屋に荷物を置いて、四時半にリビング集合ね!」
アカネが解散を宣言する。
わーい、と無邪気に早乙女が走っていった。体調もすっかり戻ったようである。よかったよかった。日向は微笑ましく見送る。
らせん状の階段を二階分上がると、三階のホールがお目見えした。
ソファとラグが敷かれたミニリビングがあり、その奥にゲストルームがある。
屋根の形状が生かされた勾配天井に、大きな窓が設えてあった。ベッドに横たわると、ちょうど空を見上げる位置にある。
「すごいなぁ」
思わず呟いてしまう。
天窓から見上げる星空は最高にロマンチック、といったアカネの言葉の意味がわかる気がした。日向の期待度は高まる。これが個人の邸宅か。
「お金持ちだ……」
つい安易な表現を口に出してしまった。
聞こえていたらしい光が、「共同購入といっても、経費のほとんどは野巻父が出したらしいぞ」と耳打ちしてきた。乾いた笑いしか出ない。さすが娘に新車をぽーんと買ってやるくらいのことはある。
「面白い家だよな。父もこの家を気に入っていて、『俺の自信作だ』って来るたびに言ってるよ」
光は荷物をベッドに上に置き、日向の足元を一瞥すると、不思議そうに首をかしげた。
「――いつもより、荷物が多くないか?」
「え? そ、そうですか」
膨らんだスポーツバッグが目立たないよう、ベッドの下に押しやる。
「僕、汗っかきだから着替えを多めに持ってきたんです」
「ふうん。一階のランドリールームで洗濯もできるぞ」
「使わせてもらうかもしれません。――えと、光さんがここに来たのは久しぶりなんですか?」
話題をそらしたくて、別の質問をする日向。
「三年ぶり、かな。利用頻度は二、三年に一度だな。野巻の家に遠慮しているってのが本音かもしれないな」
「――そういえば、叔父さん夫婦が来なくなったから、って前に言ってましたけど」
『小学校に上がる前までは、毎年夏休みに滞在していたけど。叔父夫婦が来なくなってからは……。以来、野巻に誘われて何度か行ったきりかな』
合宿の打ち合わせで、別荘について尋ねたとき、光はそう答えたのだった。そのときの物憂げな表情が、日向は引っかかっていたのが。
猫のような瞳をぱちくりとさせ、「ああ、それは」と口を開きかけた後、光は急に黙りこくる。
「――私、シャワーを浴びついでに着替えてくるよ。日向もそうしたら? 二階のバルコニーにジャグジーがあるから使うといいぞ」
着替えをまとめると、ポニーテールの尻尾を揺らして、そそくさと部屋を出ていってしまった。




