問題編3
ぶすっとしてアイスコーヒーを飲み干す光を横目に、日向は話を促した。
「いいの? じゃあ、事件の続きからね」
生き生きとした瞳で、嬉しそうに話し出す乙女系男子。気持ちの切り替えが早い。
「警察が事件の可能性を疑ったのは、他にも理由があったんだ。有力な容疑者がいたから」
「容疑者、ですか」
「佐々木さんの妻だよ。
被害者の夫から日常的に暴力を受けていた、という周囲の証言があったから。妻の妹は離婚を勧めていたらしい。『顔に殴られたような痣があるのを見た』と近所の人も証言している。本人も悩んでいる様子だったが、いつか元の優しい夫に戻る、と信じていた節もあったようで」
「DV……最低だな」
光が顔をしかめている。吐き捨てるような言い草だった。
DV――ドメスティック・バイオレンス。配偶者や恋人など親密な関係にある者から振るわれる暴力のことである。
「佐々木さんの妻って、別荘のオーナーに『夫が帰ってこない』って連絡した人ですよね?」
「そう。彼女の連絡がきっかけで、遺体は発見された」
「別荘の内見に、奥さんは行かなかったんですね」
「それがね――」
内緒話をするように、早乙女は声のトーンを落とす。
「一緒だったんだよ。途中まで」
「途中まで?」
「ところがどっこい、ドライブインで食事中、夫とケンカして、そのまま置き去りにされたらしい」
「置き去りって……ドライブインに奥さんを置いたまま、出発したってことですか?」
「ケンカっていうのも、奥さんが一方的に怒鳴られていたみたい。レストランの客が目撃していた」
「ひどい……。置き去りにされた奥さんはどうしたんですか」
「ドライブインを出て、付近を観光した後、21時の高速バスに乗って自宅に帰ったと証言している。ケンカを目撃されたのは13時ね」
「13時から21時。高速バスに乗るまで、ずいぶん時間が開いていますね」
「連休中で混雑していたせいか、観光中の奥さんを見たという証言は得られず、アリバイは立証されなかった。――よって、警察はこう考えたわけ。
置き去りにされて怒った彼女は殺意を持ち、夫を追って別荘に向かった、と」
おお、と日向は思わず呻き声をもらした。
「急にハードな展開になりましたね。車のほか、別荘に行く手段は?」
「ドライブインから別荘地方面に、一時間ごとにバスが出ている。夫がいる別荘までは、バスで二時間、さらに停留所から徒歩で三十分」
「三十分……」
雪道を半時間も歩くのは大変だ。場所が山奥ともなれば、なおさら。燃えるような殺意も冷えてしまいそうな距離だ、と日向は思う。
「ちなみに、タクシー会社に照会したが、事件当日、容疑者らしき人物が利用した記録はなかった、と」
早乙女は雑誌のマーカーが引いてある箇所を指でなぞり、
「別荘にたどり着いた妻は、そこで夫と口論になった。ついに積年の恨みが放たれ、相手の頭部を殴りつけたのであった――! ちゃ~ら~」
激情的なシーンを表現した早乙女に悪いと思いつつも、「ちょっといいですか」と日向はストップをかける。
「佐々木さんの死因はクマに襲われた傷による失血死、ですよね。片腕を失って」
「ん……『失血死』とあるけど。クマに襲われた傷か、殴打された傷、どちらが致命傷になったかは分からない」
検証の結果、不明なのか。雑誌には記されていないだけなのか。
どちらが正しいのか、この場では知りようがない。なにせ三十年前の出来事なのだ。
「とにかく――動機を持ち、死亡推定時刻の午後五時すぎにアリバイがない妻は、クマに襲われる前後に被害者の頭部を殴った。そう疑いをかけられたわけ」
DVを行っていた夫が、クマに襲われ、妻に殴られ、絶命した。
すべて本当に起こったことだとしたらこれは……。日向はかすかに身震いする。まるで――
「“天罰”だな」
日向があえて出さなかった言葉を、光はあっさりと放った。
文科系部室棟ホールは相変わらず騒がしかったが、彼らの周りの空気だけ、ぐんと重くなった。
「で、奥さんは逮捕されちゃったんですか?」
案ずるような聞き方をしたのは、容疑者に同情してしまったからか。
日向のクエスチョンに、早乙女は即座に答える。
「いや、されなかった」
「そうですか……。でも、なぜ?」
「犯人と断定する根拠が乏しかったから。一番のネックは、凶器が見つからなかったこと」
凶器。つまり、頭部を殴打した鈍器のようなもの。
「鈍器って、たとえば、野球のバットみたいな形状ですかね」
「犯行後、捨てたり埋めた可能性も考慮し、現場一帯を捜索したが、凶器らしきものは見当たらなかった」
「――でも、当時は冬で、雪が積もっていたんだろ。雪の中を捜索するのは限界があるんじゃないのか」
冬と雪の厳しさは、北国の住人がよくわかっている。光は続けて言う。
「もしくは、自宅に持ち帰ってから、捨てたかもしれない」
「21時の高速バスに乗った奥さんを運転手が記憶していたんだ。『膝の上に乗るくらいの小さなバッグしか持っていなかった』と証言している。ゆえに、雪の中に捨てた可能性が高いと考えられたんだろうね」
「ごめんなさい。もうひとつ、いいですか?」
「いいとも!」
控えめに手を上げると、全力で許可された。日向は制服のネクタイをゆるめてから口を開く。
「凶器のありかも重要ですが、奥さんはいつ凶器を用意したんでしょう?
警察によれば、ドライブインでのケンカ後に殺意が芽生えた、とのことでしたが」
「ドライブインの近辺にある金物屋とかホームセンターで購入したんじゃないのか」
光の意見に、日向は大きな瞳をぱちくりさせた。「んん……」と自分の頬を撫でて、
「金物屋やホームセンターに寄ったのなら、もっと殺傷力の強い武器を調達できそうじゃないですか? 相手は夫で、自分より体格が勝っていたとしたら、それこそナイフとかの方が確実に殺せそうです。バットみたいな鈍器より、持ち運びも楽だし」
三十分も雪道を歩く、としたら、できるだけ身軽な装備の方が良いにきまっている。
光は唇に人さし指を当て、考え込むような仕草をした。
「妻の殺意が芽生えたのは、ケンカの後ではなく、もっと前だった、としたらどうだ?」
「前、とは……?」
「DVを受けていた妻は、夫を殺してやろうと決意し、チャンスを伺っていた。その矢先、山奥の別荘を内見する機会が訪れる。別荘で殺そう、と決めた彼女はあらかじめ凶器を用意しておいた。たとえば――工具なんてどうだ? スパナとかレンチとか。バッグに入る大きさの」
ここにきて、積極的にアイディアを出し始めた光。
好奇心旺盛な日向のせいで、少なからず面倒ごとに巻き込まれてきた彼女である。こうなったら、早く済ませてしまおうと、割り切った上での行動か。
しかしながら、年下の彼氏は一筋縄ではいかないようで、
「じゃあ、ドライブインで置き去りにされたのは、奥さんにとっては予定外のアクシデントだった、ってことになりますね……」
「なんだよ。何が気に入らない?」
「や、工具って結構重いじゃないですか。雪道を歩いて体力を削られることを考えたら、僕なら置き去りにされた時点で計画を中止するなぁ、とか」
「根性なし!」
苛立った声で光に怒鳴られ、日向は縮こまる。
「彼女はそんな程度のアクシデントじゃ、くじけなかったんだよ! お前とは違ってな」
「っ、う……ご、ごめんなさい」
恋人同士というよりは、師弟のような二人を、早乙女は面白そうに眺めている。
「――にしても、雪道を、凶器と殺意を抱いて歩く人妻かぁ。シュールで、映えそうな光景だね」
演劇サークルでは、役者だけでなく演出家もこなす早乙女が、頬杖をつき、うっとりしたように呟いた。




