問題編2
早乙女によると、その記事は、事件に疑惑を持った記者によって書かれたものらしい。
「ことが起こったのは、真冬の、とある別荘地。気温が氷点下二十度を記録した寒い早朝であった」
新聞記事と違って、若干脚色めいた文体だった。
国語の授業で、教科書を読み上げているかのように、姿勢を正す早乙女。
「『別荘の内見にいった夫が帰ってこない』――。
佐々木さん(仮名)の妻から連絡を受けた別荘オーナーは、管理会社の職員に様子を見に行くよう命じた。
女性職員(六十代)が別荘に赴くと、外には自家用車が停まっており、扉は施錠されていない状態で、室内に男性が倒れていた。そこで職員が目にしたのは、世にも恐ろしい光景であった」
そこで、早乙女はムンクの叫びみたいなポーズをした。
「無垢材の床は夥しい量の血で染まっており、倒れた男性の右腕の肘から先がなかったのだ!
室内には暖房が入っていたが、その身体は冷え切っており、呼びかけにも応じない。事切れているのは明白だった。職員は、もつれる足で雪を踏みしめ管理会社に戻ると、119番に通報した」
「わざわざ会社に戻って連絡を? 携帯電話は……?」
つい聞き入ってしまった日向は問いかけて、はたと気づく。
事件当時は三十年前。当時の携帯電話の普及率はかなり低かったのではないか。早乙女は後を引き取るように、
「携帯を持っている人の方がレアな時代だったけど、仮に持っていたとしても、圏外だったと思う。山奥の土地だから」
「あっ、別荘の中に固定電話は?」
「電話機はまだ置かれていなかったんだよ」打てば響くように、答える早乙女。「佐々木さんは別荘の『内見』に行った、って説明したでしょ」
「すみません、よく分からないまま聞き流してしまって……ないけん、って何ですか」
「不動産会社が紹介した物件を、実際に出向いて見学することだよ」工務店の娘、光が解説する。「佐々木さんとやらは、別荘の購入を検討していたんだろう」
早乙女は雑誌のページを捲りながら、「えっと……別荘オーナーの不動産会社社長と佐々木さんは友人の間柄だった。本来ならオーナーが案内するところを、鍵を貸してくれたら自分で行く、と佐々木さんが申し出たみたい」
「別荘購入かぁ……」
日向はまた遠い目をした。この世は裕福な人ばかりなのか。
「事件当時は、オーナーが気を利かせ電気とガスは通っていたものの、家具や生活用品等は何も置かれていない状態だった。――話を戻していい?」
「どうぞ」
「警察の現場検証が行われた結果、別荘の近くで、クマに噛みちぎられた男性の腕の一部とおぼしき肉片と、衣服の切れ端が見つかった。現場から別荘までの道程で血痕も発見された。
遺体の状況と、近辺でヒグマの目撃情報があったことから、佐々木さんはヒグマに遭遇し、襲われて負傷した後、別荘内に逃げ込み、その後、失血死したと思われた。――ところが!」
早乙女は、か細い腕をテーブルの上に乗り出し、力強く叫ぶ。
「解剖の結果、片足を骨折をしていた他、頭部を鈍器のようなもので殴られていたことが判明したのである!!
骨折はクマの攻撃によるものと思われるが、頭部の傷はクマの仕業とは考えにくい。その他にも不審な点があり、事件の可能性も含め捜査されることになった。――どう? ワクワクしてきたでしょ!?」
さらに身を乗り出してきた早乙女を、真向いの光はうざったそうに手で払った。
コーラを一口すすった日向は、ぽつりと言う。
「クマって冬眠するんじゃなかったでしたっけ?」
小さい頃に読んだ絵本で、巣穴のなかで安らかに眠るクマの姿がイメージが、脳裏にぽわりと浮かぶ。
それはそれは気持ちよさそうだった。起きるのが辛い寒い朝は、クマみたいに冬眠できたらいいのに、と幼心に夢想したものだ。
「一般的にはそうだが、暖冬のせいで冬眠しないクマもいるみたいだ。この前、ニュースの特集で見た」
「さすが光ちゃん、よく知ってるねぇ。放置されたごみや狩猟で駆除されたエゾシカの死体を食べることで、冬眠しないクマが増えているんだって」
「へえ……別荘地まで下りてくるなんて危ないですね。用心しないと」
「――で、早乙女」
ふいに、光の目つきが鋭くなる。
「三十年前の事件の話を長々と聞かせて、どういうつもりだ? サークルの合宿と関連があるのか」
「……いや、それは、ええっと」
鬼、と称された元剣道部部長、雷宮光の険しい眼光。
気持ちよさそうに喋っていた早乙女は、一瞬にして、興奮が冷めた表情になった。いつの間にやら聞き入っていた日向も、いわれてみればその通り、と夢から覚めた気分になる。
「合宿の打ち合わせが済んだなら、私たちは帰るぞ」
「ちょ、ちょっと待って……お願い」
だって、と早乙女が指を組んでモジモジする。
このポーズ、実際にする人を初めて見た。日向は軽く感動をおぼえる。
「アカネちゃんに聞いたんだよ。日向君は名探偵だって」
「はあ?」
「難事件をいくつも解決しているから、困ったことがあったら相談するといいよ、って」
「やめてください!」
なんてホラを吹き込んでくれたんだ、あの先輩は。
「僕はその場に居合わせた、ってだけで特に何もしていませんよ!」
「またまたぁ。名探偵は皆そういう謙遜をする」
「要するに、日向に事件の謎を解いてほしいってことか?」
ふん、と冷たく鼻白む光。
「物好きだな、早乙女。――それとも、身内の人が事件に関わっていたとか、特別な事情があるのか」
「や……そんな事情はないんだけど」
早乙女は、白い頬を朱に染めて、ますます、もじもじした。
「実は僕……この事件について推理してみたんだよね。誰かに聞いてもらいたくって! つい……っ」
ああっ恥ずかしい、と両手で顔を覆う。
日向と光は顔を見合わせ、きょとんとした。
なんだ、そういう話だったのか――!
謎を解いてほしい、といわれたら、どうしようかと思っていたけど……。安心すると同時に、納得した日向であった。
おそらく、父の書斎で偶然この記事を発見した早乙女は、自ら推理をして、事件の真相にたどり着いたのだ。それを誰かに披露したくてたまらないのだ。
「ほかに聞かせる相手、いなかったのかよ」
ああ、光さん、言っちゃった……。
早乙女は、申し訳なさそうに、赤面してうつむいてしまう。
他に話し相手がいたら、わざわざ日向を呼び出していない。ため息をついて席を立とうとした光を、「まあまあ」と日向は引き止め、
「いいじゃないですか。聞かせてもらいましょうよ」
「お人好しめ!」
「飲み物をおごってもらいましたし、ね? 少しだけ。それとも光さん、この後何か予定が?」
「お前と映画でも観に行こう、と考えていたけど。もういいよ!」
ごめんなさい……光さん。
心の中で深く謝罪する。日向としては、早乙女の話をどうしても今、この場で聞いておきたかった。
というのも、先ほど、迂闊にも連絡先を交換してしまった。
推理をお披露目できなかった場合、鬱憤のたまった早乙女が、夜半、個人的に連絡してくるのではないか……? 何だかとても悪い予感がした。
ただでさえ受験勉強に行き詰まっているのに、本気で勘弁してほしい。ぜひとも避けたい事態である。
「――じゃあ、さっそく教えてください。早乙女さんの推理を!」




