エピローグ
*
不協和音が鳴り止んだストリートピアノを、三人が囲んでいる。
ピアノ弾きの少女、空野楓、そして謎の中年男性。何かを言い合っているようだが、距離があって聞き取れない。
彼らに近づこうと、日向が歩み出したとき――
「すごいね、友達」
穏やかな口調で、崇が言った。
「空野君のこと……?」
片足を踏み出したまま振り向く。
べっ甲眼鏡の縁を弄っている崇は、どこか遠い眼で、三人を俯瞰しているようにもみえる。
「布教したのは間違いだったかな」
「え?」
「『日常の謎』だよ。あれって、聞けば解けることを、ああでもないこうでもないと考える。優柔不断な物語ともいえるから。空野君みたいに行動力のある人には、根本的に合わないよ」
『日常の謎系、僕はわりと好きだけど』
つい先ほど崇はそう発言していたのに……。にしても、なぜ今、それを?
「土橋君だって――」
不穏に感じつつも、日向は友人に向き直った。
「土橋君だって、勇気も行動力あるじゃん。頭だって良いし」
「違うよ」
投げやりに放たれた声の暗さに、日向は息を呑む。
「僕は水無月君が思っているような奴じゃない。……いや、君がよく知っている頃の僕はいくらかマシだったかもしれない。でも、今の僕は良くない。全然駄目」
口元は笑んでいるが、理知的な瞳は笑っていない。
崇は軽く頭を振って、
「先回りして観察して、うだうだと考えて……。結果、動くべきタイミングを失っている。いつもだ。ほら、今もこうして、彼らに近づけないでいるだろ?」
棒立ちの足元を自ら指し、ふっと細い息を漏らす。
「『撮影者にひと声かけてやる』なんて威勢よく言ったけど、実際には何もできないに決まっている。行動したところで何も変わらない、むしろ悪化させるんじゃないかって予感に襲われて、足がすくむ……。結局何もできない。
そんな自分がリアルに想像できて、ウンザリして嫌になるんだ。僕はさ――」
“臆病”になったんだ。
溜まっていたものを吐き出すように、崇は大きく息をついた。
数秒後、はっとしたように手で顔を覆って、「うあー」と意外に可愛らしく呻く。
「何言ってるんだろう……こんなときに。ごめん。無視して」
「あ……う、うん」
こういうとき、どんな対応をするのが正解なのか。
かける言葉が見当たらない日向は、逃げるように、視線を遠くへやった。
あれ……?
ストリートピアノ周りの三人に、いつの間にか、ショッピングモールの店員が加わっていた。
三、という数字の均衡が守られるかのように、楓がその場から離れ、こちらに来るではないか。
「空野君?」
小走りで戻ってきた楓は、弱ったように後頭部を掻いている。
「部外者は消えろ、みたいな空気になったから、戻ってきた……はは」
部外者、というワードに崇が反応する。
「じゃあ、あの男の人は部外者じゃないってこと?」
崇は、楓と同時に少女へと駆け寄った中年男性を一瞥し、すぐさま目線を戻す。
「あの人は、女の子のお父さんだって」
「お父さん?」
身内か。
よくよく観察すると、少女と中年男性の面差しは似ていた。日向は歯噛みする。なぜその可能性に思い当たらなかったのだろう。
「よくわかんないけど――」
楓は弱ったように、へらりと笑って、
「あの子、はぐれたお父さんに見つけてもらうため、ピアノを弾いていたらしい」
「「は?」」
たっぷり間を空けた後、崇と日向の声がハモった。
*
騒動のせいか、ストリートピアノの演奏は途絶えてしまった。
置物と化したグランドピアノ。広場を囲むベンチで、三人は思い思いにたむろしている。我先に、と行動した楓は、さすがにぐったりした様子である。
「あの子、めちゃくちゃ怒ってたよ。買い物途中、お父さんがふらーっと消えて、はぐれちゃったって。スマホ持っていなくて、連絡が取れなかったらしい」
「このモール、広いから」同情するように崇。「はぐれてしまったら、再会できる確率は低いだろうねぇ。あの子くらいの年だと、スマホを持たせてもらっているかは微妙だし」
「オレなんて。買ってもらったの、つい最近だぜ」
「僕も高校生になってからだよ」
頷き合うのは、楓と日向。
少女はどう見積もっても、高校生以上にはみえない。いいとこ中学生だろう。
「ええと、つまり」紙袋を持ち直しながら、崇がまとめに入る。
「あの子は、『私はここにいる』――と、はぐれた父親に知らせるためストリートピアノを弾いてたってこと?」
そんなことって……
背もたれに身を委ねた日向は、脱力感に支配されていた。
虚をつかれたような気分だった。まさか、ストリートピアノをそういう目的で演奏するなんて。
「あの子、家でも給湯器の曲をよく弾いているんだろうね。父親が聞いたら、娘が弾いているとわかる選曲をした。『聞いたことがある音』系の動画も流行っているし、苦肉の策だろうけど、よく考えたよ」
さすがに緊急地震速報はまずかったけど、と崇が顔を歪める。
三人が広場を離れてから、少女はさらに二回、給湯器のメロディを演奏したらしい。極めつけに弾いたのが、あの『緊急地震速報』だった。
父親に早く気付いてほしい、一刻も早く見つけて欲しい。焦りのなか、半ばヤケクソだったのかもしれない。
父親は、店員と周りの客に何度も頭を下げた後、ふくれっ面の少女を連れて、広場をそそくさと離れていった。
ストリートピアノは、誰もが自由に弾いても良いものだが、何をしてもいいわけではない。緊急地震速報のフレーズを繰り返し演奏したのは、マナー違反に当たるだろう。
「うちの弟が、昔、ここで迷子になったことあるんだ」
「陽太が?」
ぽつりと漏らした日向に、崇が反応する。
「小二のとき、おもちゃ売り場で暴走して、はぐれちゃって。館内放送がかかって、サービスカウンターに迎えにいったら、大泣きしてたっけ」
「んっ?」
顔に対して大きめな耳を、楓はぴくりと動かし、
「館内放送って、『迷子をお預かりしています』ってやつ? そうだ、その手があるじゃんか! どうして、あの子、館内放送してもらわなかったんだ!?」
当然といえば当然の疑問を口走った。
「いやそれは……」
崇と日向は互いに顔を見合わせ、くつくつと笑った。
「自分の名前を放送されるのが」「恥ずかしかったからでしょ」
ストリートピアノを弾く人の精神構造は理解できない日向だが、この点には、大いに共感できる。
自分が少女の立場でも、館内放送をしてもらうのは、絶対に避けたい。
このモールは市内最大級。友人など知り合いが訪れている可能性も高い。反面、店内をぶらぶらと歩いている限り、会う可能性はそれほど高くない。
しかし、氏名などが放送されたら、確実に存在が知れてしまう。その上、迷子という、この上なく恥ずかしい情報とともに。相像しただけで気絶しそうだ。あの子も多分そうだったのだろう。
ところが、楓は、「え~」と満更でもなさそうに、
「館内で名前が流れるなんて、超カッコいいじゃん! 放送ジャックとかしてみたいと思わねぇ?」
「思わない」
日向はきっぱり断った後、「皆が皆、空野君だったらいいのにね」を皮肉を返してやった。楓はまるで堪えていない様子で、「そういやぁ」と手のひらを拳で打つ。
「あの子、さんざん拗ねた後、『ママと来れたらよかったのに。どうせ無理だけど』――って。あれ、どういう意味だったのかな」
母親なら、もっと早くピアノに気づいてくれたのに、という意味か?
にしても、どうせ無理、とは――?
日向が首をかしげる横で、崇は彫りの深い顔に笑みを浮かべた。
「なるほど、わかったかも」
かしこまった調子で、人差し指を立てる。
「さて――それほど仲が良くなさそうな父と娘が、わざわざ今日買い物にきた理由とは?」
ぶらり下げていた紙袋。中身は料理用スプーン。
存在を忘れかけていたそれを、出題者がチラ見したのを、日向は見逃さなかった。
「母の日のプレゼントを買うため?」
母の日。正解のキーワードが出た途端、いたずらっぽく笑う崇。
「あくまでも推測だけどね」
「いやー、たぶん正解だわ」
楓が、興奮したようにまくしたてる。
「お父さんが持っていた紙袋から、カーネーションの造花っぽいのが覗いていたのを見たし。んー! スッキリしたな! やっぱり土橋君はすげえよ」
スポーツ観戦で贔屓のチームが勝ったときのように、スカッと晴れ渡ったような笑顔をみせた楓。
「オレも母ちゃんに何か贈ってやるか。じゃあな」
と小走りで東出口の方へ。
嵐のように現れ、嵐のように去りゆく、空野楓。破天荒な後ろ姿を見送りながら、崇がつぶやいた。
「なんにせよ、僕の予想が当たってなくってよかった」
ふと、目が合う。日向は何も言わず、ただ微笑んだ。
鏡のように、崇も微笑む。
あのとき、どうして、もっと気の利いたことを言えなかったのか。
もっとマシな行動ができただろうに、なぜ自分はこうもダメなのか……
日常を生きていると、夜ひとり布団を抱え、後悔して悶えるようなことが何度もある。
けれども、今はこれで良いのだ、と確信できた。それは、不器用な日向にとって、奇跡のような出来事だった。
「――あれ、日向君? 土橋君も」
馴染みのある声に振り向くと、宮西カナがいた。
今日はよく知り合いに会う日だ。華奢な両腕にぽってりと膨らんだエコバックを抱えている。「持つよ」と崇がバックを受け取った。スマートな所作である。
「カナさん、さっき婦人服売り場にいなかった?」
「うん。通学用の紺ソックスを買いにね。安売りしてたから」
なんとも色気のない答え。デート用の服を吟味していたわけではないらしい。この場に楓がいなくてよかった、と思う日向であった。
「それから明日、母の日だからディナーを作ってあげようと思って。材料を買いに」
「ディナーなら明日の日中に買い物しても間に合うのに、わざわざ今日? さては、日中は予定が入っているのかな。デートとか」
ちゃっかり下世話な質問をした崇に、「なんのこと?」と惚けるカナ。間髪入れず、「ねぇ聞いてよ」とわざとらしく話題を変える。
「生活用品売り場で騒ぎがあったの。知らない?」
二人が頭をふると、カナは大げさな身振りで話す。
「おじいちゃんがね、マスクと消毒用品を大量に買い占めようとしてたの。
店員さんが咎めると、『数年後に恐ろしいウィルスが蔓延して、日本中からマスクが消えるって。だからこれを未来の人々に届けてやるんだ』って」
「預言者?」
それとも、タイムトラベルでやって来た未来人?
日向は期待に目を輝かせるが、カナはまるで信じていない態度で、
「学校が休みになって、仕事も家でやるようになる。だから、ホットケーキの粉やパン作り用のドライイーストが品薄になるんだって」
「本当だとしたら怖いな。新しい日常だね。――誰かにとっての日常が、他の誰かの非日常」
「? なあにそれ」
後半は独り言のつもりだったのか。
カナに問われた崇は、秘め事を暴かれたように顔を赤らめた。
「……父さんが昔、僕に言ったんだ。『皆にジロジロみられるの、嫌じゃないの?』って聞いたときに」
崇の父は、若い頃、交通事故に遭った後遺障害で、車椅子で生活を送っている。
「事故に遭う前、車椅子生活になるなんて夢にも思わなかった。非日常が日常になったんだ、って。――『ジロジロみられるの、お前が想像しているほど嫌じゃない。興味を持たれるのは良いことだ。一番怖いのは無関心だから』って。
誰かの日常に興味を持つ『日常の謎』は、優柔不断で、優しい物語だと僕は思うよ」
最後の台詞は、日向に放たれたもののようだった。
つぶらな瞳を瞬かせるカナの横で、日向は心の中で反芻する。
「一歩踏み出す……か」
前を向いたまま、崇がふらりと歩きだした。
誰もいなくなったストリートピアノの広場に、ひとり歩み寄り、エコバッグを足元に置く。
椅子を引いて腰を下ろし、鍵盤に十指を置いた。
たったそれだけの動作が、あまりにも滑らかで――。
日向は、崇のピアノを聴いたことはないが、弾く前に、鳥肌が立ってしまった。きっとこれは、彼が数えきれないほど繰り返してきた日常なのだ。
見えない何かを愛でるように、虚空を見上げ、崇は深呼吸する。
そして、音の洪水が流れ出した。無防備な聴覚は溺れるしか術はない。
「きれい」
たったそれだけ、カナが呟いた。
後はもう、うっとりしたように目を瞑る。周りにいる人々も、ざわめくことさえ忘れ、夢中になっているのがわかった。
極上の奏が、ショッピングモールの吹き抜けを昇っていく。
それは、日向が今まで耳にしたどの演奏よりも、高く、美しく、響いた。
【『Life is beautiful.』…END】
お読みいただき、ありがとうございました。
よろしければ、ご感想、ブクマ、ご評価などいただけたら励みになります。
なお土橋家については、前章『ドッペル土橋―Children grow up,someday.』に詳しいです。
(以降は作者のつぶやきです)
さて、1年半ぶりの更新となりました。
前々からの読者様にはお詫びと感謝のしようがありません。
久しぶりに執筆して、あらためて文章と構成の難しさを痛感しました。
時間をかけて、プロット通り書いてみたものの、「これでいいのか」と疑わしくなるばかり。通しで読んでも、まあ、こちゃこちゃと散らかっていて、理屈っぽい。
こんな惨めな思いをしてまで、どうしてダラダラ書き続けるのだろう、と卑屈になったりもしました。
それはやはり、物語を自分が描いている終着点に着地させる喜びがあってこそ、と思います。
次の更新はいつになるやら…。今度はもっと突飛なシチュエーションがいいですね。『更新されていません』表示が出ない間隔で頑張ります、と小さい声で宣言しておきます。




