ストリートピアノ奇談【後編】
土橋家は新築を構えていたが、父親の転勤で、本州に引っ越した。
五年以内に戻れると会社から伝えられていたため(実際にはかなり延びたが)、新築は貸家にして、家族はアパートで暮らしていたという。
「賃貸暮らしは初めてだったけど、貴重な体験だったよ。
自分の家なのに、常に、他人の気配が感じられる点が特に。だから、その声が聞こえたとき、僕は、お隣さんのものだと思っていたんだ」
「声……?」
ベンチの端に座る楓が、高校男子にしては高めの声をこわばらせた。
「引っ越してから、半年過ぎたある日。
塾の模試の勉強を終えてから、十一時過ぎ風呂に入ったんだ。のんびり湯船に浸かっていたら、ふと、誰かの声が聞こえた気がした。
最初はハミングみたいな、ぼんやりした感じだったけど、徐々に明瞭になって……女の人の歌声だった」
「おばさんの声では?」
日向はフードコートの冷水器から注いできた水をぐびりと飲む。
「風呂から上がって確認したよ。母さんはぐっすり眠ってたし、父さんはソファでうたた寝してた」
「…………」
鳥肌が立ったのは、アイスを食べたせいだけじゃないだろう。崇の語り口は、ホラーの雰囲気を醸していた。
「翌朝、さっそく家族に聞いてみた。
『風呂場で歌が聞こえたことがないか』って。――でも、ふたりの答えはノー。父さんなんか『自分が風呂で歌うことはあるけどな』って笑ってた。
時間帯のせいかもしれない、と僕は考えた。ふたりとも早寝で、僕も普段は十時には眠るようにしているから」
「十時!? はやっ」
変なところに興味を抱いたらしい、楓が割り込む。
「オレが寝るのは、たいてい夜中の二時過ぎだぞ」
「そんな時間まで何してるの?」
「何してるって……テレビ見たりゲームやったり、コーラ飲んだり、寝転がって尻を掻いたり。そういうことをしている時間が生きがいだから」
コーラがビールに代われば、人生に疲れた中年男である。
なあ水無月くん、と同意を求められた日向は顔をひきつらせるしかなかった。
「で、歌声の主は?」
崇は神妙に頷き、「僕なりに色々と考えてみたよ。アパートの間取り上、うちの風呂場の横は、右隣の家のキッチン。お隣さんは若い女性で、彼女の歌声が壁伝いに聞こえたのだろう、と推理してみた。――でも」
「でも?」
「僕の登校時間と彼女の出勤時間が被っていて、玄関先で顔を合わせたときに聞いてみたんだ。すると、彼女は顔色を真っ青にして、『その日は実家に泊まっていたから、家には誰もいなかったはず』って」
無人の自宅から得体の知れぬ声が聞こえていた。
当の住人にとって、これほど不気味なことはない。意図せず一人暮らしの女性を恐がらせてしまった崇は、謎の真相を突き止めねば、と義務感にかられたという。
「その日の晩、僕は風呂場で待機した。何かが起こったとき、すぐに行動できるよう服を着たままでね。
浴槽の縁に座って息を潜めていたら、あの日と同じく午後十一時を過ぎた頃、ハミングが聞こえてきたんだ。僕はすぐに家を出て、共同廊下を見回した」
「家の外へ?」
不思議そうに訊ねた日向へ、崇は、熱っぽく語る。
「共同廊下を通りかかった誰かの声かもしれない、と思ったんだ。
風呂場は廊下に面してないし、位置的に可能性は低かったけどね――案の定、廊下に人気は無かった。念の為、エレベーターで一階に下りて、アパートの外も確認してみた」
「すごい行動力だな」と楓。
「や……大したことないよ。静かな夜の住宅街で耳を澄ましていたら、驚いたよ。あの歌声が聞こえてきたから。すると、アパートの影から若い女の人が出てきたんだ。耳にイヤホンをかけて、気持ちよさそうに歌ってた。コンビニでバイトしている大学生で、シフトが終わった帰り道だったらしい」
外の歌声が、なぜ、アパート内の風呂場で聞こえたのか。
崇はますます混乱したという。
「結局謎は解けたのか?」
うん、と崇は、はにかむように微笑んで、
「歌声は、アパートの外壁に付いている換気口から聞こえていたんだ」
「換気口?」
「風呂場の天井に付いている換気扇は、ダクトを伝って、外の換気口に繋がっている。そのダクトが伝声管のような働きをすることがあるらしい」
「伝声管って、声が伝わる装置ってこと……? へえ」
「たまたまそこを通りかかる人の話し声や車の音が聞こえていたんだね。
同じアパート内でも、部屋によって換気口の位置は違うから、気づかない住人もいたみたい。さっそくお隣さんに伝えたよ」
「ふうん」
楓は感動したように、小刻みに、細い顎を引いた。
「オレ、マンション暮らしだけど、そんな現象があるって知らなかった。土橋君、よく真相に辿りついたな! 『日常の謎』も、なかなか面白いじゃん」
よっと掛け声まで上げた楓に、崇は「あ……」と何かを言いかけた後、苦笑した。謙遜しているような、バツが悪いような表情をしている。
それを見て、日向はようやく合点がいった。
実は、崇の体験談には、腑に落ちない点があった。
引っ越しをしたのは、崇が小学四年生のとき。半年後といえば、まだ十歳である。
いくら崇が優秀で勇敢とはいえ、ひとりで行動し、謎を解いたとは考えづらいのでは……? 特に、夜の十一時過ぎ、アパートを出たくだり。そんな遅い時間に、まだ慣れない土地で十歳の子をひとりで外に出すだろうか。
――おじさんか、おばさんが一緒だったんだな。
歌声の主に話しかけたのも、二人のどちらかだろう。
なぜなら、お隣さんに話しかけたときの描写は詳しいのに、コンビニバイトの大学生との会話はそうではない。
風呂場で声が聞こえる、と息子に訴えられたとき、両親は真っ先にこの可能性に思い当たったのではないか。
外の声が聞こえる、ということは、中の声も聞こえる、ということ。
崇が言っていることが本当なら、確かめておきたいはず。加えて、気を付けねば。風呂場で歌うような習慣がある人ならば特に……
黙っておこう。
日向は確認したい欲を抑え、口を噤むことにした。
そもそも崇が『日常の謎』の話題を広げたのは、楓に責められションボリしていた日向を、励ますためだったに違いない。
謎を解いたのは崇本人じゃない、と明かしたら、せっかく楓が『日常の謎』に興味を持ったところに、水を差してしまうかもしれない。だから崇も黙っているのだ。
昔からそうだった、と日向は思い出す。土橋崇は正義感が強く、思いやりのある少年なのだ。
「あっ」
ふいに、楓が叫んだ。
ベンチから落ちそうなくらいに、婦人服売り場の方へ身を乗り出している。
「今、あそこに、カナちゃんがいた!」
「カナさんが?」
「ほらっ、麦わら帽子のマネキンの前に」
ベンチの中央に座る日向は尻を浮かせて、楓にならう。
指された方向を見渡すが、それらしき人物は見当たらなかった。
「本当に居たんだって! え~何してたんだろう……明日のデートに着ていく服を選んでいたのかな」
「カナって、宮西カナちゃんのこと?」
宮西カナとは、水無月家の隣に住む日向の幼馴染みで、崇とも面識がある。
身長150センチに満たない小柄女子だが、家事はベテラン主婦顔負けの腕前で、両親が不在がちの水無月家を助けてくれている。
崇は、ほぉん、と顎を撫で、
「カナちゃんと付き合っている相手って空野君だったんだ。スニーカーを新調したのもデートのためだったんじゃないの?」
「い、いやぁ、付き合ってるだなんて。デートっていうか、遊園地に行くだけだよ」
「デートじゃん」
「そ、そうかなぁ……へへ。カナちゃん、何の買い物をしていたんだろう。気になるな。――なあ、水無月君、探して聞き出してくれよ」
「やだよ」
「頼むよ! ここは友達の顔を立てて」
デジャブか。
つい先刻と微妙に似通ったやり取りが繰り広げられた。傍らで、崇がすっくと立ち上がる。
「そろそろ行こうか。……いや、戻ろう」
「戻る?」
「ストリートピアノがある広場だよ」
話しながら進むので、日向と楓は少し遅れて付いていく。
「どうしたんだよ、土橋君」
半ば走るようなかたちで、二人は崇に追いついた。
「――さっきの、給湯器メロディ少女の謎で、思いついたことがある。嫌な考えだけどね」
崇は、今までになく深刻な声音になって、
「水無月君も言っていたように、あの子、心から楽しんで弾いているようではなかった」
「つーか真逆だろ。無愛想で、嫌そうに、見えたけどな」楓が即答する。
「本人は嫌がっているのに、二度も、演奏待ちの列に並んでいた。自分の意思でなければ――誰かに強制されているんじゃないか、って」
「無理やり、やらされている、ってこと?」
顔色を曇らせた日向に、崇は前を向いたまま続ける。
「真っ先に考えられるのは、イジメの可能性だね。罰ゲームの一種とか。――もうひとつ浮かんだのは、動画撮影のため」
動画撮影――?
歩調が早まり、崇の口調も早まっていく。
「今、投稿サイトでストリートピアノを演奏する動画が流行っているんだよ。
プロか同等の腕前を持つ演奏者が、ストリートピアノを華麗に弾きこなす。音楽を通した交流を純粋に楽しむ動画もあるし、集客の凄さや、観客のリアクションを競うような動画もある。
一方で、トラブルも起こっていて……有名なクリエイターが『〇月〇日に××で演奏します』とライブ予告をしたことで、人が集まりすぎて、利用休止になったこともあるんだ」
そこで、崇は休憩するように、ひとつ溜息を吐いた。
「演奏者の多くがマナーを守って楽しんでいるけど、バズりたいがために異常な演出をしたり、マナー違反をする人がいるのも確かだ。――もし、あの子がそんなことをやっているとしたら。いや、やらされているとしたら……?」
注目されたい。バズりたい。
誰もが持ち得る承認欲求。しかし、そのためなら何をやってもいい、というわけでは当然あり得ない。
「でも、行ってどうするんだよ」
息を弾ませながら楓が、崇の横顔に問う。
「僕の推理が当たっていれば、近くに撮影者がいるはず。
撮影者じゃなくても、見届ける存在が居るはずだ。上手く見つけられたら、一声かけてやろうと思う――あくまでも推理が当たっていれば、の話だけどね」
どうか当たっていませんように、と願っているように、日向は聞こえた。
突飛な考えかもしれない。
しかし、外れているとも言い切れない。
なぜなら、『誰もが聞いたことがある給湯器のメロディを、ストリートピアノで奏でる不機嫌少女の謎』は、崇の解釈で、納得できてしまうからだ。
崇を先頭にエスカレーターで降りる。
広場が近づくものの、撮影者らしき存在は確認できない。あの少女はまだ居るだろうか。
ピアノの音色が大きくなり、鳴りやんだ。ちょうど誰かの演奏が終わったところらしい。
あの子は――?
「おい!」
楓が声を荒げる。
まだ、いた。
ピアノに向かい合っている。
今まさに鍵盤に手を置き、奏でようとしているところだ――
「っ!?」
瞬間、耳をふさぎたくなるような不協和音が響く。給湯器のメロディじゃない。
――なんだこれは?
明らかに周囲の空気が変わり、一様にざわめいている。
休日のショッピングモールに、強制的に恐怖を煽るような不協和音の連続が響き渡る。
昨年、大きな地震を経験した道民は、嫌でもこのフレーズに反応せざるを得ない。
「これ――緊急地震速報の……」
少女は今度はすぐに演奏を止めなかった。
何かに耐えるように、演奏を繰り返している。
「っ、オレ、行ってくるよ!」
「空野君」
「止めるなって! 理由はわかんねぇけど、心配だろ」
楓はエスカレーターの残り数段を飛び降り、走り出す。止める間もない。
日向は、あ、とかすれた声を漏らした。
ざわめきのなか。
楓がストリートピアノに駆け寄っていくのと同時に、男性がひとり大股で近づいていくのが見えた。
次はエピローグです。




