D-7 子どもはいつか、大人になる
押しつぶされそうな空気を感じながら、日向は小さくうなずいた。
引っ越し挨拶のとき、土橋君のお父さんは車椅子に乗っていた。
若い頃、交通事故に遭った後遺障害で以来ずっと車椅子で生活を送っているという。
確信を得た光は語りだす。
「気になったのは、土橋君の家だ。『広いポーチ』だけならどこの家にもあるけど、クラスメイトの『玄関にベンチがある』って発言」
「右京のですね……」
「靴を履いたり脱いだりするのは足腰に負担がかかる動作だけど、玄関にベンチや手すりがあればその負担は軽減する。バリアフリーに対応した設計なんだよ。
お年寄りが住んでいるのか、と予想していたら、土橋君と両親の三人家族だっていう」
もしかしたら、と思ったんだ。
口のなかで転がすように、光はつぶやいた。彼女は父が経営する工務店を継ぐため、大学は建築学科を志望している。
「だが、利便性やインテリアのためベンチを置く場合もある。決め手にはならなかった。
土橋一家が引っ越した後、老夫婦が家を借りていたんだろ? そして君は、『足の悪いおじいさんが住みやすくてありがたがっていた』と教えてくれた」
「……はい」
「『おじいさん』だけでなく『足が悪い』と付け加えたからには、家の各所にそういった工夫がこらされているのだろうと思った。――で、“落書き”事件だ。
障害……障がいを持った家族がいるからこそ、土橋君は看板を見過ごせなかったんじゃないか」
一息ついた光は、得意げとは程遠く、むしろばつが悪そうだ。
日向はテーブルとにらめっこを続けていたが、二人の気遣うような視線は感じていた。何も追及されないことが、かえって彼の自己嫌悪をあおった。
土橋君のお父さんが車椅子を使っていたことを、日向は明かさなかった。
あえて話す必要はないと思ったからだ。それが、こんなかたちで露見するなんて……
意図的に隠したわけではないが、積極的に話そうとしなかったのは?
車椅子を使っていることが弱みだと思い込んでいたから?
それは、“偏見”ではないのか?
日向はうつむきの角度が深くなる。いたたまれない気持ちだった。
「土橋家は、自家用車を二台持っているんだったね」
光の母は、淹れ直したアッサムティーにミルクを注ぐ。金色の液体に乳白色が溶け合っていく。
「足が不自由な人のため、手だけで車を運転できる手動運転補助装置というものがあるの。福祉車両っていうんだけど。二台のうち一台は、土橋君のお父さん専用に装置が付いていたんじゃないかな? 他一台はお母さん専用ね」
そういえば……。
土橋君のお母さんに車に乗せてもらったことがあるが、運転していたのはいつもセダンの軽自動車だった気がする。どちらかが他方の車に乗っている場面は見たことがなかった。
「二台の調子が同時に悪くなることは考えづらい、って水無月君は言ってたけど。一台ならあり得るんじゃない? もしくは、お母さんの車は冬タイヤに替えていなかったとか。
想像でしかないけど、たとえば――お父さんが体調を崩して、一方、お母さんは初雪が降る道を自分以外の車や夏タイヤで運転する自信がなかった。土橋君は自力で学校に向かうことにしたけど、臥せっていたお父さんが、やはり送ってあげようと後から追いついた」
雪が舞う通学路へ足早に出ていく土橋君の姿を、日向は空想した。
『僕は大丈夫だから、休んでいて。ひとりで学校に行けるよ』
『ドッペルゲンガーでも見たんじゃない?』
嘘を吐いたのは、意地を張ったわけじゃない。追いついてきてくれた家族の苦労を無駄にしたくなかったのだとしたら。
胸の奥から渦のように感情がこみあげてくる。
彼は、日向が感じていたよりもずっと賢くて、強い人間だったのかもしれない。
「まだ……わからないことがあります」
開き直ったわけではないが、吐き出さずにはいられなかった。
日向のなかで昇華できない謎が残っている。
「あの朝、母さんたちはメールで連絡し合っていました。
右京と僕の母が『車で送っていく』とメッセージを送った後、土橋君のお母さんも『うちも送っていきます』と返信してきたんです。車にしろ体調にしろ都合が悪かったのなら、なぜ正直に伝えなかったんですか?」
勢いのまま、責めるみたいな口調になってしまう。
光の表情が曇るのと対照的に、光ママは、からっとした笑顔で声を立てて笑った。
「それは、謎とは呼ばないよ」
呆気にとられている日向に、笑い声の余韻を残したまま話す。
「想像するに、水無月君のお母さんはドバシ君を何度か車で送り迎えしたことがあるんじゃない?」
「はい。雨が降った日の登下校なんかはよく」
放課後、急に降り出した雨に児童玄関で立ち往生していると、駐車場から大声で名前を呼ばれた。気恥ずかしい思い出だ。土橋君だけでなく、右京もよく一緒に送り届けていたっけ。
光の母は納得したように、「大人はね」と今までになく慈悲深く微笑んだ。
「そういった親切を何度もされると、ありがたいと感じると同時に、もうこれ以上迷惑はかけられない、と思ってしまうものなのよ。
私、わかるな。ドバシ君のお母さんの気持ち。一緒に通学している三人のうち二人が車で送るのに、『自分の子だけ歩かせる』と正直に打ち明けたらどうなるか」
「うちの母さんが『崇君も一緒に送っていく』と申し出ていたと思います……実際そうしようとしていました」
でしょ? と光ママ。
「予想できたからこそ、遠慮したんでしょうね。気を遣う人なら特に」
「うちの母さんがお節介だから……」
「誰かが悪いわけじゃない。そういうものなの。
ご両親がどうしようか悩んでいるうちに、ドバシ君は出発しちゃったのかな」
やさしい子なのね。
最後に、誰にいうでもなく独り言ちた。
光の母は、よいしょっと腰を上げて、リビングのテレビの電源を点ける。
大通り公園で降雪のようすを告げるライブ中継がされていた。女性リポーターの髪をたちまち雪が飾っていく。
「あぁ、もう積もり始めてる」
テレビ画面をぼんやりと眺め、頬杖をつく光。
日向は、昨日再会したばかりの友人に思いを馳せていた。
九年ぶりに会った土橋崇は、変わっていなかった。
背丈が伸びていた。声が太くなっていた。大きな丸眼鏡がべっ甲フレームの洒落た眼鏡に変わっていた。
でも、彼自体は変わっていなかった。
穏やかで余裕のある雰囲気、理知的な瞳や、少しだけ皮肉っぽい表情も。あい変わらず大人っぽかったのだ。
彼はいつから“大人”だったのだろう――?
九年前、右京をかばって偽ドッペルゲンガーの噂を広めた行動には迷いがなかった。
きっと彼は、周りの子どもたちより早く、人の痛みや苦しみ――感情の機微がよめるようになったのだろう。成長の階段があるとしたら、何段上にいたのかわからない。
ふと、再会を喜びあっていたはずの友人が遠くに感じた。
「土橋君。僕のこと、どう思っていたのかな」
自覚せず、泣き笑いのような表情になっていた。
声が震えているのに気づき、ダメ押しのような不甲斐なさに襲われる。
「どうって。友達だろ」
振り向いた光は、あっけらかんとした態度で日向に言った。
「友達は友達だよ」
「……」
返答など期待していなかったように、ぷいっとテレビの方へ視線を戻す。
日向と光を静かに見つめていた光ママが、「あっ!」と突然すっとんきょうな声を上げる。
「そうだ! 水無月君に何をしてもらおっかなぁ」
口元に指を当てて、わざとらしい口調で、
「謎を解いたらキス以上ひとつなんでしょ? 私、けっこうファインプレイだったよね!」
「ママ、いつの時点から立ち聞きしてたんだよっ!?」
冗談だって、と爆笑しながら憤慨する光を押しとどめる。
かしましい母娘のやり取りを横目に、日向は回想を続ける。
久しぶりに会った土橋君は変わっていなかった。
さらに、日向をじっくりと見つめた後、目を細めてこう言ったのだ。
――水無月君、変わったなあ。うん。変わったよ。で、君を変えてくれたのは誰なの?
今度僕にも紹介してよ。
【『ドッペル土橋―"Children grow up,someday."』…END】
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