D-6 マジック&バリア【解説編】
看板が長くなっていた――正確にいえば、縦の寸法が大きくなっていた。
ささいな、ともいえる発見に、微妙な空気が流れる。テーブルに肘をついた光は日向のほうに身を乗り出す。
「水無月君。自分で話していて気づかなかったのか」
「気づきませんでした……」
「そういうものかなぁ」
呆れたように目を細めて、
「まあ本当に長くなっていたとしたら、だ。
同じ内容の看板を印刷するのに、字体や文字間のサイズをわざわざ変えたりしないだろうし。単純に考えれば、文字数が増えたってことかな。どう? 何か思い出さない?」
「なんだか急に……記憶力に……自信が」
「おいおい。しっかりしろよ。実際に看板を見たのは、君だけなんだぞ」
「すみません。頼りなくて」
日向はひどく落ち込んでいた。
長年抱えてきた謎。その見落としを、よりによって乱入してきた光ママに指摘され、彼なりにプライドが傷ついたらしい。
「第二小学校だよね?」
口をはさんできたのは、光の母である。
「え?」
「水無月君の出身学校。黒志山第二小学校で間違いない?」
「はい……そうですが」
短い会話の後、すっくと立ちあがり、スリッパの音を鳴らしながらリビングを出ていった。
「どうしたんでしょう」
「さあ」
突飛な母の行動に、娘も首をかしげるばかりである。
静まり返ったリビングで、雷宮先輩、と押し殺した声で日向が言った。
「今回の、その、賭け事は無効にしましょう」
「無効? なぜ?」
「謎を解くのに唯一の手掛かりである、僕の体験談があてにならないからです。いえ、話し始めはそんなことなかったんですが……だんだんと記憶の曖昧さが目立ってきて」
すっかり自信をなくしたらしい、日向は考え込むように唇に手をやっている。
光は、ふんと鼻白む。
「じゃあ、負けを認めるんだな」
「負け? いや、負けではなくてゲーム自体を無効に」
「問題が不適切だった。そういう場合、出題者側はお詫びとして、どんな解答でも正解として扱うんだぞ。つまり、私の勝ちってことだ」
「そ、そんな」
絶望的な表情になる日向。
光が意地悪な笑みを浮かべたところで、リビングと廊下を仕切る引き戸が勢いよく開いた。
「わかったよ!」
光ママが印籠のようにスマホを掲げている。
どこかに電話をしてきたらしい。薄くチークがのった頬がなお上気しているように見える。
「わかった、って何が?」
「だから」じれったそうに娘へ答える。「研修の内容だよ。九年前、黒志山第二小学校で行われた教職員向けの研修会」
日向と光は顔を見合わせ、そろって困惑の色を浮かべた。
いまいち意味がわからないといった様子で、光が口火を切る。
「そんなの、どうやって知ったの? ていうかママ、何してきたんだ」
「仕事先の施設長に電話したの。うちの施設長、児童発達支援の分野では、区内で先駆者的な存在だから。当時から講師として学校に招かれていたのよ。第二小学校で講師を務めたことも覚えていた」
「ママの仕事先って……でも、よくわかったな。都合が良すぎないか」
「あながち偶然ともいえないよ。水無月君に話を聞いて、当たりをつけていたからね」
光ママは得意げに笑うと、「で何なの?」と結論を急かす光をいったん制して、日向の正面に座った。
「いくつか確認したいことがあるの。良い?」
母娘のやり取りに圧倒されていた日向は、怯えながらも顎を引く。
「ドバシ君は、看板の漢字を黒塗りにして、横に平仮名を書いていたんだよね。『かい』または『がい』って」
「横に平仮名……はい。たしかにそう見えました」
日向が慎重に回答すると、光ママは人さし指を立てて軽く振り回した。魔法使いのように。
「それは本当に“落書き”だったのかな。こういう見方はできない? 誤った文字を消して、修正していた」
「しゅうせい?」
つたなく発音して、日向は何度か瞳を瞬かせた。
「学校側は、ドバシ君の修正を適切と判断し、自分たちの誤りを認めたから看板を作り直した。だから犯人探しも行われなかった。そんなことをしたらミスを明かすようなものだから」
「はあ……」
落書きではなく、修正だった?
ある箇所を黒塗りにして、側に正しいものを書く。
修正……。言われてみればそうかもしれない。
だが、日向は、その考えに至らなかった。万に一つも可能性があるとは思わなかった。
なぜなら彼にとって、決定的な矛盾があったからだ。
「ちょっと待ってください。逆なら理解ります。平仮名を漢字に直していたなら。でも、土橋君が黒塗りしたのは漢字で、側に書いていたのは平仮名ですよ」
漢字を平仮名にしたほうが適切、だなんて。
いったいどんな場合なら在り得るだろう。人名でもないし。
日向はまったく見当がつかない。光に視線を向けると、彼女も弱ったように首をかしげていた。
「ひとつだけ、思い当たるケースがあるよ」
穏やかな声音で光の母は告げた。
キッチンカウンターに腕を伸ばし、メモ帳とペンを取り出す。真っ白なメモ用紙に、ジェルインクで丁寧な文字が綴られていく。
障害 → 障がい
「施設長も正式名称までは覚えていなかったけど、時期的にも間違いないと思う。障がい児発達支援関係の研修だったみたい。アルファベットの羅列はこうじゃなかった?」
再びペンをとり、
「LD、ADHD。順に、Learning Disabilitiesの略で学習障害。Attention-Deficit,Hyperactivity Disorderの略で、注意欠陥多動性障害。
LDは、知的な遅れはないのに、読み書きや計算とか特定の分野が上手くできない。ADHDは、集中力が続かなかったり、じっとしていることが苦手だったり、衝動的な行動をしがちだったり……これらの症状が年齢に不釣り合いに見られることね。
どちらも発達障害に分類されていて、脳や中枢神経がうまく機能していないことが原因とされているの。――二人とも耳にしたことがない?」
次々と挙げられる用語に、日向は唖然としたようすで聞き入っている。同時進行で、黒い瞳がメモ用紙に穴が開きそうなほど真剣に文字を追っていた。
一方、むずかしい顔で唸っていた光は「聞いたことはあるよ」と唇に手を当てて、
「でも、障害の『害』って平仮名のほうが正しいの? 漢字のままだと都合が悪いの?」
障害。障がい。どちらも、どこかで、目にした覚えがある表記だ。が、実際に並べられたところで違いはわからない。
光の母は、話すスピードをさらに緩める。
「障害の“害”って漢字は、なんとなく印象が悪いからって。一部の地方自治体や企業が『がい』を平仮名にしたのが始まりといわれているの。全国的にも平仮名を使う自治体が増えてきているね。国として統一の見解は出ていないけど」
「統一の見解がない……?」
「いろいろな考え方があるからね。害は、障害者自体にあるのではなく、社会にこそ、障害物や障壁があるのだという見解もある。障壁というのは、たとえば人の偏見とかね。どちらに統一するかはまだ議論の途中なの」
本人ではなく、社会にこそ、障壁がある。その言葉が棘のように心をかすめた。
「そうか……だからか」
ため息混じりに日向はこぼす。
「看板の縦のサイズが大きくなっていたのは、『害』を平仮名にしたから」
「もしかするとドバシ君は、学習障害や注意欠陥多動性障害の『害』も直したのかもしれないね。その分、文字数が増えた。学校側が実際にどこまで修正したかはわからないけど」
と光ママが注釈をさらに加えて、
「私たちが住む北海道は、平仮名表記を使っている。ドバシ君的にも平仮名表記が正しかったのね。そして、学校も修正したほうがベターと判断した」
きれいで正しい看板じゃないか――。
九年前の土橋君のつぶやきが、日向の脳内でリフレインする。
油性ペンで乱暴に書かれた『がい』の二文字。あれは彼なりの抗議だったのだろうか。
魔法のようにすり替わっていた看板。
土橋君は、なぜ正直に打ち明けてくれなかったのか……?
同時に、なぜ日向はその変化に気づかなかったのだろう、とも思う。土橋君の“落書き”が強烈で、きれいに修正されたブロック体の文字よりも、記憶に焼き付いていたからだろうか。
彼はきっと――日向や右京には、本当に魔法がかかったかのように思わせたかったのではないか。そんな気がした。
「でも、土橋君がどうして……」
残る疑問は、当時小学三年生の土橋君がそういった知識を持っていたとしても、わざわざ行動を起こした理由だった。他の誰かに目撃されていたら咎められていたかもしれないのに。
が、最後まで言い切らないうちに、日向の面持ちはみるみる間に変わっていった。やらかした失敗に気づいたように、驚きと後悔がにじみ出ている。
薄暗くなったリビングで光の母が照明を点けた。
暖色系の照明の下にいるにもかかわらず、日向は青白い肌をしている。
あのさ、とめずらしく遠慮げに切り出したのは光だった。
「水無月君の体験談を聞いて、ずっと引っかかっていたことがあるんだ。
土橋君のお父さんは……身体のどこかにハンディキャップがあって、車椅子を使っていたんじゃないか?」
次回は13日(金)に更新予定ですm(__)m




