D-5 謎解きは彼女におまかせ
語が終わると、光は頬を無造作に撫でた。猫が顔を洗う動作に似ている。
最初はちゃちゃを入れてきた彼女だったが、終盤には、話し手の日向が緊張するほど集中して聞き入っていた。
日向が息をつめて反応を待っていると、光は、うつむいていた顔を重たそうに上げる。
「土橋君は、それから転校したんだっけ」
「はい。四年生になる前の春休みに。お父さんの仕事の都合で」
「家を建てたばかりだったのにな」
「その後、老夫婦が家を借りていましたよ。足の悪いおじいさんが住みやすくてありがたいって。土橋君たちが帰って来るタイミングで、老人ホームに引っ越しましたけど」
「家は無人にしておくと痛むし、ローンと家賃のダブル支出は厳しいからな」
工務店の娘らしく現実的なコメントをして、光はローテーブルに頬杖をついた。
「しっかし、わけがわからないなぁ! なんだその出来事は。ほんとに現実か?」
「まったく同感です。けど、空想でも夢でもなく事実ですよ。ギブアップしますか?」
「簡単に諦めるかよ」
あぐらをかいて、一休さんスタイルに戻る光。
「要点を整理しよう。土橋君は立て看板に落書きをしていた」
「はい。僕だけでなく右京も目撃しました」
「現行犯で取り押さえていればよかったのに」
「今でも悔やまれます。その場で捕まえて理由を聞いておけば、今こんなにモヤモヤすることもなかったのに!」
「そっち!? というか、落書きはダメだろ」
正論をとなえられた日向は、一瞬、呆気にとられた表情をした。
「土橋君があまりに悪びれていなかったので、意識が逸れていたというか」
「普段から、そういうイタズラをするタイプではなかった?」
「ときどきクラスメイト――主に僕ですけど――をからかうことはあっても、ルール破りはしないタイプでした。掃除当番もサボらなかったし、宿題も毎日提出していたし。先生たちにとっては、典型的な優等生だったと思います」
「学校の看板に落書き、なんて。典型的な不良行動だけどなぁ」
それとも、と光は桜色の唇をあいまいに開く。
「ただの落書きじゃなかったのか」
「へ?」
「いや。先に進もう。――放課後に、立て看板は元に戻っていたんだな」
かぶりを振って確認を求めてきた光に、日向は大きく頷く。
「落書きの痕跡は、まったく残っていませんでした」
「油性ペンを使っていたんだっけ。修正テープを使ったとしても、部分的に張り替えたにしろ、何か跡は残るよな。それが皆無ってことは」
「はい」
「看板は、張り替えられた」
「……としか考えられませんよね」
二人は揃って押し黙る。
起きたであろう事象は推測できるが、謎が多すぎるのだ。光はポニテのしっぽ弄りを再開する。
「張り替えたのは誰だ? 土橋君本人は? 自らの狼藉を悔いてさ」
「ちがいますね」
光は芝居じみた動作をするが、日向はすぐ否定して、
「土橋君のアリバイは……アリバイって言い方も妙ですが、僕が保証します。落書きの後、高学年図書室から三年一組の教室に戻って、以降は放課後まで教室を出ませんでした」
「ちっ!」
「残念ですが……。『土橋君が新しい看板を用意した』という仮説にも無理がありますね。
あの看板、かなりのサイズで、文字がブロック体で印字されていました。職員室にある大判プリンターで作成されたと思われます」
「子供が使うことはできないの?」
「行事でポスター作りをする児童会役員なら使えたかもしれないけど。プリンターを管理している事務員さんに知られず、あれだけ大きい看板を作れたとは考えづらいです。――素直に考えると、張り替えたのは先生たちの誰か、でしょう」
苦虫をかみつぶしたような顔を日向がする。
「なのに……教頭先生は看板に『何もなかった』と答えた。どうして?」
「大ごとにしたくなかったんだろう。罪を憎んで人を憎まず的な、さ」
「渡り廊下の窓ガラスが割られたときは、全クラスを通じて犯人探しが行われた上、全校朝会で校長先生が厳しくたしなめていましたよ」
冷然と返され、光はげんなりした表情になる。
「落書きの件はなぜそうならなかったんだろうな」
「そこなんですよね」
思考の海に溺れはじめた日向に、光は面白くなさそうにそっぽを向いた。
彼の謎を解き明かし、出し抜いてやるのが目的なのに。ここまですべて日向の推理に乗っているだけ、と気づいたからだ。
「なあ」
「……はい」
「雪が降ってきたよ」
光は立ち上がって、レースカーテンを開ける。
さっきまで視界に散らつく程度だった雪が、窓枠いっぱいに舞っている。日向もつられて窓辺に近づいてきた。
「やばい! 外に自転車出しっぱしだ」
「まだ片付けてなかったのか。――ねえ」
「はい?」
「初雪の日にこうして部屋にふたりっきりってさ。興奮しない?」
「興奮? いや表現……。ふつうはロマンチックとか使いません?」
座り直そうとした日向の腕を光が掴む。
後輩から鬼と怖れられ強いイメージがある彼女だが、間近だと、撫で心地のよさそうな細い髪や華奢な首が際立つ。心まで見透かすような双眸は、ちょっぴり怖いけど、それでも抗いがたい魅力がある。
どうして光は日向を好きなのか。
いつも疑問に感じている。こんな弱気で変わり者の自分に、よりによって真逆のタイプの彼女が……
「水無月君」
「?」
しなやかな手指に両目を塞がれ、唇に、暖かい感触がした。
「ちょっと……!」
「ふっふふ」
悪びれなく微笑み、上目遣いに見上げてくる。
不意打ちをくらった日向は顔を真っ赤にして、あたふたと周囲を見渡す。
バカか。今日は家に誰もいない、って聞いていただろう。跳ねた鼓動をととのえる。された側なのに罪悪感を感じるのはなぜなんだろ。
「ごめん。嫌だった?」
「嫌かそうじゃないかっていうより、いきなりされたら驚くでしょ!」
「嫌ではない?」
「……それは……えっと……」
「うーん」
なやましい唸り声に、ふたりは身をぴくりと震わせた。
「今、なにか言った?」
「言ってないです! 僕じゃないですよ」
「落書きがどういうものだったか……それが重要」
今度ははっきりと、光でも日向でもない声が響いた。
ぶんぶんと首を振り続ける日向。大股に出入口まで近づいた光が、ドアを一気に開け放った。
「ぎゃっ!!?」
コーヒーカップをのせた盆をかかえた女性が棒立ちしている。
驚愕に満ちた視線を浴びせられているのに気づき、女性は短い悲鳴を上げた。
「ママ!」
めずらしく上擦った声を光があげた。
女性は我に返ったように、片手で乱れた髪をととのえ、柔らかに微笑んだ。
「いらっしゃい。水無月くん、だよね?」
「あぅ……お、お、おお、お邪魔してます」
「ママ、いつ帰っていたの?」
「雪が降ってきたから、パート早めに上がらせてくれたの。会話の邪魔をしたくなくて、立ち聞きしていたら、すっかりコーヒーも冷めちゃって」
「いるなら、早く知らせて」
「ごめんごめん」
ていうか、この人、立ち聞きしていた、って認めたぞ。
キスしたときドア越しにいたのか!?
パニック状態に陥った日向を、「コーヒーを淹れ直すから」と光の母はリビングに招いた。
「ほら、ここに三人じゃ狭いしね」
「まさか。ママも参加する気か?」
詰問してくる娘を無視して、スリッパの音を立てながら先導する。日向は逆らえるはずもない。
リビングに足を踏み入れ、妙に納得してしまった。
白い家具にアンティーク調の家具。お姫様っぽい趣味のインテリア。
光の部屋は、ここの縮図なのだ、と理解できた。
猫足のダイニングテーブルに光と向かい合わせに座る。まもなく湯気のたったコーヒーカップを置きながら、光の母が娘の横に腰掛けた。
にこにこと見つめ合うこと数分。
日向は額や背中に嫌な汗が伝うのを止められなかった。これは一体何の罰ゲームなのか。
「会えてよかった。光ちゃんの彼氏として、すごく納得。これからもよろしくお願いしますね」
「う……は、はい」
納得?
以前、光を昔から知っているらしい養護教諭の田雲政宗からも同じことをいわれたが。いわれたこちらは未だに納得できていないぞ。
光の母は、おっとりした優しい印象で、娘とは正反対の雰囲気だが、こうして並んでいると、通った鼻筋やアーモンド形の瞳がよく似ている。
「ママ。どの辺りから聞いていたの?」
光は、ふだんと違って少し甘えた口調。気恥しそうな態度も新鮮である。
「いつからだっけ? まあ、いいじゃない。ドバシ君の落書きについてだけど」
「だから。どこから聞いてたんだよっ」
しつこく責める娘を無視して、印象にそぐわないシャープな視線を向けてきた。日向は自然と背筋が伸びる。
「具体的に何を書いていたの? 絵?」
「……落書きの内容ですか? 絵じゃなかったです。漢字を塗りつぶして、よくわからない平仮名を書いたり……意味不明でごめんなさい」
「何て?」
「『かい』『がい』とか」
「海外?」
「いいえ、『かい』か『がい』のどちらかです。記憶が曖昧ですみません」
「いちいち謝らなくていいよ。看板には、先生たちの研修名が書かれていたのよね」
「はい。漢字とアルファベットの羅列で、どんな内容かは覚えていなくて」
「アルファベットの内容は?」
「憶えていません。ただ」
日向は頭を抱える。
押し込まれていた記憶を呼び起こす。精神的に追い込まれ集中力が増したせいか、突飛なシチュエーションが小さな奇跡を起こした。
「何か規則性があったように思うんです。文字が無秩序に並んでいたわけではなく。ABとかDBとかABDBとか。いえ、それがBかも定かでないですが。ある文字が繰り返して使われていたような」
すると、光の母は、きっかりした瞳を見開いた。
軽くウェーブのかかった髪を弄って、ほうっと息を吐く。
「水無月君の体験を聞かせてもらって、気づいたことがあったの」
「聞かせてもらって、じゃなく、立ち聞きしたんでしょ」
「光ちゃん、ちょっと黙っていて。――土橋君が落書きしているのを見た後、すぐ看板を確認したんだよね」
「はい、右京と。友達と一緒に」
「そのとき看板のサイズは、天井から水無月君の膝まであった」
無意識に膝頭をさすりながら、日向はこくこくと首肯した。
「放課後、ドバシ君と看板を見に行ったとき、教頭先生が『くるぶしあたりの画びょうが取れかかっていたのを直していた』のよね? つまり、看板の底辺は教頭先生の足首まであった。ちなみに上辺の高さは変わりなかった?」
「はい、天井につきそうなくらい高かったので。下がっていたら、何かしら違和感を感じていたと思いま……」
語尾まで到達せず、日向は硬直した。重要な変化に気づいたからだ。
光の母は、ふわりとした弧を唇に描く。
「わかった? 当時小学校三年生といっても、水無月君の膝と教頭先生のくるぶしが同じ高さのはずないよね」
子どもの膝と、大人のくるぶし。
それぞれサイズ感に違いはあるものの、前者が上方で、後者が下方であろうことは想像できる。
整った眉をひそめて、光がぽつりと言った。
「落書きの後、立て看板は長くなっていたってこと……?」
まだ謎解きの序盤ですが、ここまで辿りつけたのでテンションが上がってきました。ラストスパート頑張ります。




