D-1 雪虫とモンブラン
今回のエピソードは、主人公二人とも高校生の頃のものです。
尻を浮かして、落とす。
動作を繰り返しているうち、デジャブに襲われた。はて何だったろう?
そう。小学校のレクリエーションで何度もやらされたイス取りゲームだ。
――イス取りゲーム、苦手だったな。
思い出すだけでゆううつな気分になる。
今腰かけているのは、学習イスではなく、花柄のカバーが掛けられたベッドだけれど。
「えっと」
水無月日向は呼びかけるが、返事はなく、さらに距離を詰められてしまう。
パーソナルスペースを確保すべく、日向はまた腰を浮かして移動した。
最初はベッドの中央にいたはずなのに、横にいる雷宮光がじりじりとスペースを侵してくるので、残り三セットいや二セット、この不毛なゲームが続けばマットレスから落ちてしまうだろう。敗北は必至だ。
「先輩、あの」
「だめ。じっとして」
やっと口をきいてくれた。
と思いきや、いっそう強い瞳で見据えられ、さらに間を詰められた。
「う」
互いの息遣いが感じられるほどの近さである。
もうダメだ。日向は観念して目をつむった。掛時計の秒針の音がやけに大きく感じられる。
鼻先まで近づいた気配は、数秒後、ほのかな甘い香りを残し離れていった。
「よし。取れた」
……え?
光は凛々しい顔立ちに、してやったり、の表情を浮かべている。
かかげている人さし指の先に、体長数ミリの綿をまとったような虫がいた。すでに事切れているもよう。
「前髪にくっついてた。学校からここに来るまでの間に付いたのかな」
雪虫だった。
北海道では雪虫が飛ぶと、まもなく雪が降るといわれている。それだけ聞くとロマンティックなようだが、とんでもない。
単体で現れることはほとんどなく、例年大量発生するのが常だ。酷いときは視界を雪虫で埋め尽くされ、歩くのにも苦労するほどだ。
うっかり口を開けて進むと雪虫が入り込んでくるので、『この時期に出歩くときは身体中の穴という穴に神経を研ぎ澄ませねばならぬ』が水無月家の教訓である。
今日は風が強いので奴らの勢力も衰えているだろうと思いきや、油断ならない。
「ああ……ありがとうございます」
緊張から逃れ、脱力した日向は、変な笑いがこみあげてきた。光は彼をのぞき込むようにして、
「なに。別のことを期待した?」
「期待したというか、恐怖したというか」
「は?」
「あんな……獲物を狙うライオンみたいに迫ってこなくていいじゃないですか」
憮然とした後、小さく噴き出す光。やっぱり確信犯だったのか。日向は朱に染まった頬を膨らませる。
まったくもって油断ならない! 雪虫も、目の前にいる二学年上の先輩も……!
「美味しいケーキがあるから一緒に食べよう」
そんな誘い文句だった。
放課後、生徒玄関で待ち伏せしていた彼女に誘導されるままついてきてしまった日向である。
もともとケーキは好きなほう、いやスイーツ全般大得意だ。一階が工務店になった雷宮家に到着したとき、
「カフェもやってるんですか?」
マヌケ面でそう訊ねた自分を呪ってやりたい。
「ケーキは家の冷蔵庫のなか」
しれっとそう答えられ、あれよあれよという間に、二階の自室まで連れ込まれてしまった。
だまされた気分だ。しかし――
「わ! ほんとうに美味しいですね」
光が運んできてくれたケーキを一口食べ、舌鼓を打つしかなかった。
「だろ? お父さんの得意先の人がお土産で持ってきてくれたんだ。私、甘いの嫌いだけどこれなら食べられる」
渋皮のマロングラッセとブルーベリーが艶々した光沢を放っている。
土台のチーズタルトは適度な酸味があり、マロングラッセのもったりとした甘みと抜群にマッチしていた。
あっという間に平らげてしまった日向は、「私のも食べる?」と差し出してきた光の分もぺろっと平らげてしまう。
「はぁ、おいしかった。ごちそうさまでした」
幸せな時間だった。だまされた、という所感は撤回しなければならないだろう。
胃袋が満たされると、沈黙が、急にその存在感を主張しはじめた。
「今日、家の人は?」
「お父さんは岩見沢に出張。ママは施設のパート」
「施設でパート? 工務店を手伝っているんじゃないですか」
「社員さんがいるから。ママは基本的にノータッチ」
「へえ」
ていうか、先輩。父親は『お父さん』なのに、母親は『ママ』って呼ぶんだな。
あまりにも自然に呼び分けているので、わざわざ指摘するのは気がとがめた。それぞれ家族の在り方があるのだから。またその在り様は千差万別である。
ふたたび会話が途絶えた。
誰もいない家にふたりきり。しずまっていた鼓動が高鳴り始める。
鬼とよばれた元剣道部部長の部屋は、意外にも女の子らしかった。ピンク色や花柄を基調とした内装で、竹刀やダンベルが無造作に転がっているわけでもなかった。
落ち着かなく見回していると、光と目が合う。
余裕のある微笑みを向けられて、ぎこちなく愛想笑いをするが、気まずさは増すばかり。さんざんご馳走になった直後に、そろそろお暇します、なんて切り出しにくいし……。
「雪、そろそろ降るかな」
静けさのなか、ぽつりと光が言った。
水玉模様のレースカーテンの向こうに、灰色の空が広がっている。凍えそうな雪雲は、数日中に初雪を降らせるのだろうか。
降るならもう降ってしまえばいいのに、と日向は思う。
初雪が降った朝はいまだに少しワクワクするし、雪虫の大群よりずっとましだ。
「――そういえば、昨日なつかしい友達に会ったんです」
それを話題にしたのは、沈黙が気詰まりだったせいもある。
また、初雪にまつわる印象的な光景を思い出したからでもあった。
「小学四年のとき引っ越しちゃって、以来会っていなかったんですけど。最近こっちに戻ってきて」
うん? と紅茶に目を落としていた光が顔を上げる。
「同級生か」
「はい。土橋君って名前で」とうとつに日向は遠い目をして、「今考えてもあれは何だったんだろう? という謎のエピソードが」
はっとした表情になり、口ごもった。光は不審げに首をかしげる。
「なんだよ」
「や……この話続けていいのかなって」
「はあ」
「全然知らない人の話を聞かされたら退屈じゃないですか」
瞳を瞬かせていた光は、くすくすと笑い出した。
「そりゃ、面白いかどうかは内容によるな。――でも、そうか。せっかく君が気を使ってくれているから、ひとつ条件をつけようか。聞き手の私にメリットがあるようにしたらいいんだろ」
「メリット?」
この人はいきなり何を言い出すのだろう。日向が不安を募らせていると、
「『謎』のエピソードと言ったな。その謎を私が解いたら、君にキス以外ひとつしてもらおうじゃないか」
光はとんでもない提案をしてきた。ぶはっ、と紅茶を吹き出す日向。
実はキスは経験済みだったり。
光から一方的に好かれて始まった交際だったが、ゆっくりとした速度で親交を深めてはいる……けど、今のは絶対何か間違っている!
反論しようと口を開きかけた日向を制するよう、光はたたみかける。
「さあ、早く話してみろ。最近やたらと不思議な出来事に巻き込まれるから、私も経験値が上がってきたように感じているんだ」
「いや、でも、それとこれとは」
「不思議大好きマニアの君がいうんだから、相当レベルが高い謎なんだろう。それとも私がすぐに解いたら悔しい?」
「…………」
わかりました、と肩を落とす日向。妙なプライドをくすぐられたらしい。
「キス以上ひとつですね?」
キス以外でなく、以上?
光は一瞬ぽかんとするが、悪い顔でにまぁと笑った。
日向は自分の言い間違いに気づいていない。女性恐怖症ぎみで超奥手な彼との仲を進展させるべく、むしろ気づかないうち先を促す。
「じゃあキス以上ひとつね。さあ、どんと話せ! 盗難事件? それとも暴行事件か?」
「そんな物騒な話じゃないですよ」
小さく吐息をして、日向は言う。
「今から七年前、初雪が降った日。僕が、土橋君の“ドッペルゲンガー”を目撃した話です」
来年からさらに時間がなくなりそうな感じなので、書けるうち更新していきます!
時系列がバラバラで申し訳ありません。ちなみに、今朝起きると雪が結構積もっていて驚きました。




