U-2 やっぱり事件は起こる?
「あたし、演劇部に行ってくるね。光は剣道部でしょ。最後、保健室に集合で」
元演劇部部長のアカネは口早に告げて、スキップしながら特別棟へ向かった。彼女も高校の懐かしい空気に浮かれているのかもしれない。
かたや元女子剣道部部長の光は、後輩たちに会うため格技場へ足を運んだ。ところが、
「女子は今日、白志山高校で模擬試合をしていますよ」
男子剣道部の部長にそう伝えられ、いきなり肩すかしをくらうことになった。
「せっかくだから、男子の稽古を見学して行ってもいいか」
「は、はい……どうぞ!」
しゃきっと背筋を伸ばす三年生部長。
光はブラウスの腕を組み、剣舞をしばらく眺めていたが、妙な緊張感が漂いはじめたのを察した。剣筋は悪くないが無駄な力が入っていて動きが固い。
原因、わたし?
結局休憩に入ったタイミングで、静かに退室した。
ありがとうございましたぁ、と緊張をはらんだ声音で背中越しに送られる。現役時代についた“鬼”の称号は根強く残っているらしい。
「さて。どうしよう」
独り言ちてみたものの、選択肢は多くない。
保健室でアカネを待つか、演劇部に顔を出してみるか。それとも――。自然と足は特別棟へ向いていた。
三階まで上がると、四階へ続く踊り場に、ステップを踏むTシャツ姿の男子が二人いた。
ちっす、と背が高いほうの男子に会釈されるが、見覚えはあるのに名前が思い出せない。誰だっけ?
たった二か月前のことなのに、記憶が遠のいている。
ここにきて光は、卒業したことを強く自覚せざるを得なかった。
廊下を一歩踏み出すごとに弾かれるような反発をおぼえるのは、慣れないスリッパのせいだけじゃない。
お前の居場所はもう高校にないのだ、と場に囁かれているようだ。かといって、寂しいだけじゃなく、むしろ安心に近い感情も抱いている。不思議な心地だった。
いくつかの特別教室を過ぎて、物理準備室で立ち止まり軽くノックする。
ガラス窓から中のようすを伺うと、小部屋の中央にある作業台を宇宙研究同好会の三人が囲んでいる。
「あ、雷宮先輩」
「ごぶさたしてまーす。遊びに来てくれたんですね。嬉しい」
ふっくらした頬がチャームポイントの少女、宇井川が顔をほころばせた。隣にいる尖った顎のやせぎすな少女、星住もにこやかに挨拶してくれる。
彼女たちの斜向かいに端正な顔立ちの少年がいる。水無月日向だ。光の登場に驚き、大きな目をさらに大きくさせるが、すぐ悲しそうに顔を伏せた。
「日向? どうした」
「……だまされた」
「は?」
「騙されたんですよ、ゲームセンターに」
どんっと大きな音を立てて、膝に抱えていた物体を作業台の上に置く。
つい先日彼が小遣いをつぎ込んだ末にクレーンゲームでゲットした、メガどんぶりだった。
なんてものを学校に持ってきているんだか。光があぜんとしていると、日向は沈痛な面持ちでどんぶりの蓋を開けた。
プラスチック製の容器の中に、ミニサイズの〈とん兵衛〉が5つ並んでいる。
「どんぶりのサイズの麺とかやくが入っているとばかり思っていたのに……ミニサイズが5個入りだなんて! とんだ裏切りですよ!!」
「騙された、とはいえないね。『ミニサイズ5コ入』ってパッケージに書いてあるし」
「食いしん坊にありがちな妄想」
宇井川と星住。宇宙研究同好会の理系女子たちがそれぞれ的を得たコメントをした。
自宅に置いておくのも腹立たしくて部室に持ち込んだという日向はなんともつらそうな溜息を吐く。
「じゃあ私たち、黒点の観測にいってきますね」と星住。「雷宮先輩ごゆっくり。あ、日向くん目当ての女子が入会しないよう見張っていますから」
「ありがと。これからも頼む」
「「はーい」」
邪魔者は消えます、とばかりに二人はそそくさと出ていった。
辛そうにしていた日向は一変して、むっとして頬を膨らませている。さっきの星住のセリフが気に障ったに違いない。
信頼していないわけじゃない。でも、しかたがないじゃない?
水無月日向は、一点の曇りもない美少年である。その実態は途方もない好奇心の権化で、おまけに女性恐怖症ぎみなのだけど、そんなことは露つゆ知らず寄ってくる女子も少なくない。光が察するに、女子を恐れるがゆえ、慎重に親切に接するのも思わせぶりでいけない。
ただでさえ心配が絶えないのに、この春、光が進学して大学と高校で別々になってしまった。
悪い虫が寄ってこないかソワソワしていたところ、宇宙研の女子たちが虫払いの役目をしていたのは嬉しい誤算だった。
ごぽぽぽ、と異音がしてその方向を見やると、日向が電気ケトルで湯を沸かしている。
「何をしてる?」
「小腹が空いたから。カップ麺を食べようと」
「ぜんぶ?」
「どんぶりに、5個分の麺とかやくを開けて一気に」
何かにとりつかれたような目つきで準備をすすめる日向。なにがなんでも、メガどんぶりで、5倍の量を食べたいらしい。
はあ。諦めの吐息をひとつ。
周りは光が日向を振り回していると勘違いしているようだが、むしろその逆、とアピールしてやりたい。
カップ麺をひとつ手に取りパッケージを破りはじめた日向に、光はストップをかける。
「その容器、洗ったか?」
「いいえ。でも新品だし。大丈夫でしょ」
「食器として使うには抵抗があるだろ。水ですすぐだけでいいから洗おう」
肩にかけていたトートバックを丸椅子の上に置いて、有無をいわさずどんぶりを奪う。
たしか特別棟三階には手洗い場があったはず。きびきびとした動作で先を行く光の後を、「光さんはキレイ好きだなぁ」と日向がのんびり付いてくる。まったく。
手洗い場には先客がいた。
エプロンをした小柄な女子生徒が振り向くと、艶々したセミロングの毛先が揺れた。
「あれっ、雷宮先輩じゃないですか! 日向くんも」
おまけみたいに扱われた日向は気にした様子もなく、宮西カナの手元を凝視していた。華奢な腕に、千切りキャベツが山盛りになったザルを抱えている。
「「それなに?」」
日向とカナの問いが被さった。
先に日向がメガどんぶりの悲劇とこれから部室で食べ尽くす決意を打ち明けると、カナはころころと笑った後、「家庭科室に水道点検が入ったの」と不満げに唇をすぼませた。
「料理部の活動日に点検なんてひどいよね! こっちは半年前から計画していたのに。今日のメニューは豚カツだから、千切りキャベツを先に用意しておこうと思って」
「だから、こんなところで作業していたんだ。いいなぁ、豚カツ! 千切りキャベツも和風しょうゆドレッシングかけて食べたいなぁ」
「余りが出たら家に届けてあげるよ。カップ麺でお腹壊さないようにね」
幼馴染にくぎを刺したカナは、ザルをふるって水を切り、蛇口の上にあるパイプ棚にそおっと置く。
パイプ同士の間隔が広くて危ういバランスだな、と案じていた光は、間近で見た千切りキャベツに心を奪われた。
千切りした一本一本が、糸のように細い……!
めちゃくちゃ薄い!!
ひとり暮らしをはじめて料理をするようになったが、キャベツの千切りは大の苦手だ。どんなに頑張っても、うどんの太さくらいにしかならないのだ。
『どうよこの極細。あなたに再現できるかしら? おーほっほっ』
屈託ない笑みを浮かべるカナの背後から、おかしな幻聴が聞こえてきた。
女子高生ながら家事を完璧にこなすカナは、初めの頃は光を怖がっていたようだが、だんだんと親しげな態度をみせてくれるようになった。それ自体は喜ばしいことなのだけど、楽しむような、いたぶるような気配を醸すようになったのは思い過ごしだろうか。まるで小姑が嫁をいびるような……。
「ねえ、カナさん」
いやな幻聴を振り払おうと頭をふる光のかたわらで、日向が違う話題を口にする。
「さいきん放課後、物理室に衣田乃々さんが出入りしているみたいだけど」
ああ、とカナは寂しげに笑う。
「乃々は、料理部を辞めて手芸部に入ったの」
「手芸部って、衣田乃維が部長を務めていた部か」
同級生の名をあげた光に頷いて、「廃部寸前だったところに、乃々が入部したんです。今は、産休に入ってしまう顧問の代わりに、担任の正木先生に次の顧問をお願いしているそうです。そのために日直の代わりに雑用を申し出たりして」
「そこまでしなきゃいけないものか」
「たぶん、気持ちの問題だと。乃々は人一倍マジメだから」
パイプ棚に置かれたザルから水が滴っているのをしばらく眺めてから、カナは嘆息した。親友を応援したい気持ちと、クラブが離れてしまった寂しさとがせめぎ合っているのだろう。
「もう少しの間、水切りしておこうかな。家庭科室にボウルを取りにいってきます」
遠ざかっていくカナのエプロン紐が揺れるのを眺めていた光はふと気づく。
メガどんぶりを水で洗った日向も、パイプ棚の空いたスペースに逆さにして置いた後、ようやく気づいた。二人は顔を見合わせる。
「拭くものがない」
「すっかり忘れていたな。ハンカチじゃ拭き取れないし、演劇部に布きんを借りよう。あそこなら何でもある」
「家庭科室に寄って、カナさんに頼んだほうが確実じゃないですか」
「……料理部の活動中だから止めておこう」
それを言うなら演劇部も活動中なのだが、
『あらあら。布きんをお持ちじゃないんですか? おーっほっほ』
再度おかしな幻聴が聞こえて、気後れしてしまった光である。
いっそカナに弟子入りしようとも思うが、気安く頼めるほどの間柄でもなく、またプライドが簡単には許さないのだった。
手洗い場を離れようとしたところで、入れ違いに男子生徒がやってきた。
「楢崎」
日向から声をかける。
光が物理準備室におもむく途中、踊り場でステップを踏んでいた生徒だ。後ろ髪をちょこんと束ねているのが特徴的だ。そうだ――楢崎!
日向がバスケ部に所属していた頃、体育館で練習を眺めていたときに見かけた男子だ。鍛えられているのがわかる筋が目立つ前腕に不似合いな調理用ボウルを抱えている。
「雷宮先輩、お久しぶりです。大学生って時間あるんすね」
「今日はたまたま講義が休みになったんだよ」
話しかけてきた楢崎に光は返す。嫌味を感じさせない口調は、裏表がない性格ゆえか。そんな楢崎が、不快な出来事を思い出したようにチッと舌打ちをした。
「そうだ、水無月。またふっかけられたよ、奇術同好会のヤツらに」
「今度はなにを?」
「ダンス同好会の練習場のほうが日当たりが良いから、場所交換しろってさ。無視したけどな」
「京谷さんでしょ。難しい人だよね」
同情をよせる日向に、楢崎は肩をすくめて、手洗い場に直行した。彼が抱えるボウルにはスポーツドリンクが二本入っていた。
演劇部の練習場をたずねるべく西階段を下っているとき、日向がぽつりと語りだす。
「楢崎、バスケ部を辞めてダンス同好会を作ったんです。うちの同好会は、廃部した天文部を引き継ぐかたちで部室が当たりましたけど。部室を持っていない同好会は活動場の取り合いが激しくて」
わかるよ、と光はあいづちを打った。
ダンス同好会か。日向も好きが高じて宇宙研究同好会なるものを起ち上げたし。衣田乃々も姉が創った部を失くさないよう必死に動いているという。
光が卒業した後も、後輩たちはそれぞれの意思で活動している。そんな当然のことにあらためて気づき、感慨をおぼえずにはいられなかった。
しかし、彼女が抱いた深い感慨は、まもなく無残に打ち砕かれることになる。
*
三十分後――
「あーっ! 僕のカップラーメンがない!」