A-7 思い出のカケラ【解決編】
苦手分野をひととおり復習し終え、カナは問題集を閉じた。
現代文の出来にムラがあるけど、キリがないのでこのくらいにしておく。
カップのカフェラテはすっかり冷めていた。指先と足先も。睡眠時間を考えたらすぐベッドに入りたかったが、ちょっとだけ湯船で温まりたい。
カナ以外の家族はとうに寝静まっている。忍び足でバスルームへ。追いだきしている間、服を脱いで、セミロングの髪を束ねる。
「あうー」
お風呂に浸かるとき、変な声が出てしまうのは不可抗力だと思う。
白くにごった湯はローズ系の香りがした。むき出しの肩が寒い気がして、顎まで湯に浸かる。凝り固まった疲れがほぐれてゆく。
長い一日だった。
日向はまだ勉強中だろうか。模試の前にやっかいな相談事を持ち込んで申し訳なかった。偶然とはいえ光も巻き込んでしまったし……。
あの後、光は、明日香にたっぷりお喋りに付き合わされ、パンをどっさりお土産で持たされていた。彼氏の母親と接するのは神経を使いそうだ。
盗まれたものは何か――?
答え合わせはしなかったものの、カナと日向は、たぶん同じ結論に達していた。
『森さんの立場になって考えてみよう。初めて訪れる家で、漠然と何かを盗もうとするかな』
日向のアプローチは正しい。
森は、日向と陽太とカナに気づかれないよう短時間で効率よく“ミッション”をこなす必要があった。侵入してから、「金目のものは?」と物色するのでは悠長すぎる。そう、『ターゲットはあらかじめ決められていた』のだ。
『彼女はそれをすぐに見つけられる、と踏んでいた。目につく場所にあるに違いないと予想していたんだ』
これも納得できる。
そもそも、他人のテリトリーで探し物をすること自体が難しいのだ。あれだけ散らかった部屋となればより一層。もしカナが、整頓前の日向の部屋でそれをやれといわれたら途方に暮れてしまうだろう。
にもかかわらず、『すぐに見つけられる』と彼女は考えていた。なぜか?
タンスや押入れの奥にあると想定していたら、そんな楽観はできない。
つまり、表に置いてある――『目につく場所にある』と確信していた。加えて、エプロンのポケットに入るほどの大きさのモノといえば……
カナが把握している限り、これらの条件に当てはまるのはひとつ、いや、一か所しかない。
雑然とした空間の唯一の例外。ガラス戸棚に飾られた、道内各地で買い集められた工芸品である。
では、工芸品のうちのどれか?
木彫りの熊やアイヌ人形じゃサイズが大きすぎる。除外。小樽ガラスのコップとマリモ入りのコルク瓶は、無理すればポケットに収まりそうだが、これらが寝室にあったことは今日確認済みだ。
他に、豆粒ほどの大きさの七福神の置物もあるが、『七』福神のように、在る数がはっきりしているものが増減していたら気づいたはず。夫婦や親子などセットになっている品も同様だ。
ところが、明日香や日向はおろか、カナも一切気づかなかったのである。それでもあの部屋に何らかの変化が起きていたとすれば、アレしかない。
小樽ガラスのコップに詰められた、ビー玉。そのうちの、いくつか。
急にのぼせた感じがして、カナは浴槽のふちに腰かけた。濡れた髪先から雫が滴り落ちる。
ビー玉。なんて、ささいな……。
そう思いかけて、考えを改める。大雑把な明日香があれだけ丁寧に飾っているのだから、少なくとも彼女にとってはささいなものではない。おそらく森にとってもそうではなかったのだ。
どんな因縁があるのか、カナには想像もつかない。
熱いシャワーを浴びて浴室を出た。風邪をひかないよう手早く着替えて部屋に戻る。
学校指定の鞄に教科書類を詰めようとしたところで、手が止まった。
書店の袋に入ったコミックスが、机の隅にある。空野楓に返すのを忘れないよう用意しておいたのだった。
だって、他人のモノが自分のテリトリーにあるのは落ち着かない。几帳面な人間なら大抵そうだ。――森のおばちゃんも同じはず。
『森さんの立場になって考えてみよう。初めて訪れる家で、漠然と何かを盗もうとするかな』
日向の言葉がふたたび脳内にリフレインした。
明日香が帰宅したせいで言いそびれてしまったが、日向とカナの解釈は根本的なところで違っていたと思われる。〈時系列〉についてだ。
ビー玉は盗まれた。
だが、それは先週のことではなく、もっと前のことだったのではないか?
先週、ビー玉は盗まれたのではなく、返されたのではないか?
寝室から出てきた場面を目撃したことで、さまざまな憶測が飛び交った。
日向と陽太に収納レクチャーをしていた森は、理路整然としていて、静かな情熱と誠実さが感じられた。カナは、彼女が、友人の家で盗みを働くような人物にはどうしても思えなかった。
盗るためではなく返すためだったとしたら、状況はまったく異なる。
寝室から出てきた森は、まさに手ぶらだったのだ。
こっそり忍び込むように返したのだから、過去に後ろ暗いなにかはあったのかもしれない。けど……。
――もう止めよう。
灯りを消して、ベッドに潜りこむ。
これ以上悩んでもどうしようもない。結局カナに問いただす勇気はないのだから。できればこのまま、将来の夢を鼓舞してくれた恩人のままにしておきたい。
パイル素材の柔らかいシーツにくるまれて微睡む。
目覚まし時計代わりにスマホのアラームをAM7:00にセットして、なにげなく、ホーム画面の『“シンプルライフ”な暮らし』のアイコンをタップした。
森のブログにアクセスしたのは一週間ぶりだった。
最新更新日時は、十月最後の日曜日。彼女が最後に水無月家を訪れた日の深夜になっている。
記事のタイトルに、カナは目を奪われた。
*
『思い出の欠片』
今日は昔話をさせてください。
M(森のハンドルネーム)さんは落ち着いていますね。何があっても動じなさそう。
↑のようなコメントをよくいただきますが、全然そんなことはないという話です。
それどころか、嫌われちゃうかもしれません。正直怖いです。
でも、懺悔します。
十七年前のことです。
当時、私はある職場で正職員として働いていました。
同じ課に、後輩の女の子がいました。
デスク周りが汚いという弱点を除けば、素直で明るく仕事ができる、素敵な女性でした。
年下なのに面倒見が良くて、私の恋愛相談を親身になって乗ってくれたりもしました。
彼女は退職をひかえていました。
同僚の男性と結婚して、まもなく出産予定だったからです。
今は、産後も働き続ける女性は少なくありませんが、当時私たちの環境では半々の割合で結婚出産を機に退職していました。
私は、しかたないなぁと諦めつつも、寂しく思っていたのです。
秋恒例の課内旅行は、彼女と楽しめる最後のチャンスでした。
妊婦の彼女は元気で体調も安定していましたが、課長のすすめで、他課の旦那さんに同行してもらうことになりました。
心待ちにしていた旅行の日。私は荒れていました。
その前夜、長年付き合っていた男性(今の旦那ですが)とケンカ別れしたばかりだったからです。
三度目の破局でした。
年齢的にも「この人とは本当に終わりだな」と覚悟したものです。
でも、楽しい旅行中に不機嫌な顔はできません。
私は幹事でした。陽気に振る舞いつつも、やはり無理をしていたのでしょう、最終日には心も体もすっかり疲弊していました。
その日は、小樽ガラス工房で工芸体験がありました。
後輩の彼女は旦那さんと仲睦まじく、とんぼ玉作りをしていました。
とんぼ玉を入れて飾っておくためのコップも一緒に買っていました。
新居の寝室に飾ります、と嬉しそうに。
その幸せそうな笑顔と新しい生命が宿りふっくらしたお腹を眺めているうちに、自分の中の何かが歪んでいくのを、はっきりと感じました。
工房の職人さんに出来上がりの品をいただき、紙袋に入れてそれぞれに渡す作業を手伝っていたとき。
私は、人目を盗んで彼女の袋からとんぼ玉をひとつ取り、コートのポケットにつっこみました。
どうしてそんなことをしたのか?
今でもよくわかりません。いわゆる、魔が差した、という現象でしょうか。
でも、泥棒です。
人のものを盗んだのです。しかも、彼女の大事な思い出の品を、です。
若気の至りで済ませてしまうのはあまりにも傲慢です。
幸いにも彼女は気づいていないようでした。
もしかすると、気づかないふりをしていただけかもしれません。
とにかく、私の手元には、浅はかな罪の証拠が残りました。
その後、ケンカ別れした彼と仲直りし、「なんてバカなことをしてしまったんだろう」と後悔がいっそう強まりました。
黙っていようか返そうか迷っているうちに彼女は退職してしまい、縁は途切れなかったものの、正直に打ち明けることはできませんでした。
捨ててしまおうと何度思ったことでしょう。
整理整頓するたび、どこにも分類のしようがないそれを私は持ち続けてきました。
酷いことに、たかがとんぼ玉ひとつ、という思惑もありました。けれど、どうしても捨てることはできなかったのです。
そして、ついに今日。
偶然に訪れたチャンスにより、私はそれを手放すことができました。
本来あるべきところに返したのです。
どれだけスッキリするだろう、と思っていました。どれだけ心が軽くなるだろうと。
でも、それは大きな間違いでした。
返す前の私と今の私は、何ひとつ変わらなかったのです。
長年抱き続けた置き場のない感情はなくなりませんでした。
とんぼ玉のスペース分、心に深く埋め込まれたように。
思い出の欠片は、私のなかに。
いまだ己の愚かな過去に囚われたままです。
*
画像もないシンプルな記事だった。
とんぼ玉とは、穴の開いたガラス玉。穴が開いていたなんて知らなかった。ただのビー玉じゃなかったんだ。
検索して、スマホの画面を閉じた。その指はかすかに震えていた。
答えはすぐそばにあったのだ。
私に読まれることを意識している――。
直感的にそう思った。
森はこれをどういう心境で綴ったのだろう?
カナは涙があふれそうになった。同情ではない。真実を知ってしまってどうしたら良いのか。混乱と動揺で流れてきた涙だった。
かすむ視界のなか感情のまま、空野楓にメッセージを送った。ほとんど無意識だった。
『楓くんのことが好きです』
互いの未来に、互いが隣にいるかはわからない。
でも今、たしかに抱いている感情は置いてこなければならない。
どこにも分類ができなくなって、置き場所を見失わないうちに。届けなければならない。
さらにメッセージを送る。
『ここで返事はききたくないです。明日の放課後、いつもどおり校門の前で。あなたの声で聞きたいです』
カナはスマホの電源を落とし、あとはもう溶けるように眠りについた。
秋の夜長といえど、明日はもうすぐ傍に迫ってきている。
【『あるべきところに』…end.】
お読みいただきありがとうございます。
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