A-6 盗られたものは
話を聞き終えた光は、腕組みを解いて開口一番。
「で、カナはどうしたいんだ?」
「……え」
「目撃した以上、そのままにはしておけないだろう。寝室で何をしていたのか。森のおばちゃんとやらに直接聞いてみたらどうだ」
「けど」カナはうつむき加減になって、「もし、私の見間違いだったら申し訳ないし」
頭上で光が溜め息をついた気配がした。
見間違いなんかじゃない。それは、カナが一番わかっている。
とはいえ、本人に問いただすなんて無理だ。怖い。
どんな風にたずねても、不審を抱いていることは森に伝わってしまうだろう。あの日から、カナは、彼女のブログにさえアクセスできずにいるのだ。
「でもな、どんな理由があるにしろ勝手に寝室に入るなんて無礼だろう。部屋から失くなったものはないか、日向のお母さんに確認してもらった方がいいんじゃないか」
ポニーテールの毛先をしっぽを撫でつつ、光はいくぶん口調を弱めて提案した。
失くなったものはないか――すなわち、盗難の可能性だ。
最も恐れていたことを指摘されたカナは、両手のこぶしをきつく握った。
森さんが窃盗犯だなんて。ありえない。いや、信じたくない。
唇を噛むカナのかたわらで、デスクチェアに座っていた日向が腰を浮かした。
「行きましょう」
「どこに?」
「現場」
「現場って……ちょっと、日向くん!」
フローリングの床にぺたぺたと裸足で音を響かせて、日向は両親の寝室に向かう。
カナが止めるのもおかまいなしでドアを開け放った。戸口にいる光は室内をちら見して、「おぉ」と呻きをもらす。
もうっ、明日香おばさんったら!
よりによって、今日の散らかし具合は絶好調だった。
有名ブランドのロゴが付いたバッグは床に倒れ、ベッドには同色系のセーターが数枚ねじれ、チェストの天板で腕時計とブレスレットが絡まっていた。
名探偵じゃなくてもわかる。コーディネートに迷ったとおぼしき痕跡が残っていた。
「これじゃあ盗り放題だわ」
カナは頭を抱えたくなる。むしろ片付けできないおばさんが悪いんじゃないか。そんな気さえしてきた。呆れたやら恥ずかしいやらで赤面していると、日向がこちらを振り向く。
「カナさん。森さんを見たときの状況を教えて欲しいんだけど」
「状況? 私に驚いて棒立ちしていた以外は、べつに」
「棒立ち。じゃあ、何かを抱えていたわけじゃないんだね」
「うん……」
頷いたカナは、ようやく質問の意図に気づいた。
寝室から出てきた森は、手ぶらだった。
高価な品がそこら中にあっても、持ち去れなければ意味がない。A4ファイルが余裕で入りそうな大きさのバッグなどはまず無理だろう。では、隠して持ち出せるとしたら……?
「アクセサリー?」
指輪やネックレスのたぐいなら、彼女が身につけていたエプロンのポケットの中に隠せる。
カナの脳裏にふたたび一週間前のシーンがよみがえった。
森はポケットの辺りを、大事なものを守るように撫でていた。盗んだアクセサリーがあそこに入っていたのかもしれない。
打ち明けようか迷っていると、日向が唇をなぞっていた手を止めた。
「けど、下見をせずに泥棒なんてするかな?
この家を訪れたのは初めて、って森さん教えてくれたよね。先週は僕に付きっきりで整頓を手伝ってくれていたし。じっくり下見する時間なんて無かった」
「まあ、うん。そうね」
レクチャーに付き添っていたカナは同意する。日向はさらに、
「手当たり次第に盗むっていうならともかく。アクセサリーを探す手間だってかかるんだよ」
「プロなら、どこに何があるか簡単に探せるんじゃないか」
光が意見すると、日向はあざけるような笑みを浮かべた。
「この汚部屋でも、ですか?」
少し前まで自分の部屋だって負けないくらい汚かったくせに。
やたらと得意げな日向にカナは冷めた視線を送る。
しかし今の主張は一理あるな、と思った。この無秩序な空間で、収納のプロならなおさら、探し物をするのは難しいのではないか。
「というか、ここに貴金属類はないんですけどね」
「なに?」
「母さんがジュエリーボックスごと脱衣所に移したんです。風呂に入る前に外すして、朝着替えるときに付けるから、理にかなってるって」
「脱衣所って……」
もはや光も呆れていた。さすが日向の母。発想が奇妙奇天烈すぎる。
身体の力が抜けそうになったカナは、あわてて気を引き締めた。事態は何ひとつ進展していない。むしろスタートに戻ってしまった。
「もしかして」
光はぽつりと呟くが直後に「やっぱりいい」と彼女にしてはめずらしく、ためらうようなそぶりをみせる。
「光さん。思いついたことがあるなら教えてください」
日向が促すと、それでもまだ遠慮げに桜色の爪で室内を指した。
「写真を撮るためだったんじゃないかな」
「写真……?」
カナと日向はそろって目をみはる。
「森のおばさんは、収納のブログを連載しているんだろ。
ほらテレビでやってるじゃん、片づけのビフォーアフター企画。いずれこの部屋を紹介するつもりで、ビフォーの写真を撮ったんだよ。汚部屋サンプル扱いするのは打ち明けづらいから、こっそりと」
汚部屋サンプル。この人、今、汚部屋って言ったぞ。
なるほど。エプロンのポケットに、スマホか小型カメラなら入っていたかもしれない。が、カナは即座に答える。
「違うと思います」
「なぜ?」
「森さんが私にブログを紹介してくれたからです」
限られた人にしか知らせていないんだけど――と、森はその存在を教えてくれた。
親しい間柄で、かつ整理収納に興味がありそうな人物に限定して伝えているのだろう。もし彼女のブログに『汚部屋』写真がアップされたら、カナはすぐに気づける自信がある。
「そうか。カナを通じてお母さんに伝わったらマズいもんな」
光が身じろぎすると、香水だろうか、柑橘系の香りがした。
いい匂い。カナは小さく息を吸って吐いて、気持ちをフラットに落ち着かせようとする。
それとも、カナが知りようもない別の雑誌などに投稿するつもりだった?
否。バレたら名誉棄損で訴えられるかもしれないのに――明日香は訴えないだろうが――、そんなリスキーな冒険はしない。
だったらまだ泥棒説の方がありそうだ、とカナは思ってしまう。また振り出しに戻ってしまった。
日向はロングTシャツにジャージという家スタイルで、ぶつぶつと呟きながら、光とカナの間を歩き回っている。
双眸もうつろで、足取りもふらふらしている。集中力が高まってきた証拠だ。
「森さんの立場になって考えてみよう。
初めて訪れる家で、漠然と何かを盗もうとするかな。僕なら、しない。逆にどういう状況なら“いける”と考えるか」
そこで一拍置いて、
「ターゲットはあらかじめ決められていたんだと思う。彼女はそれをすぐに見つけられる、と踏んでいた。目につく場所にあるに違いないと予想していたんだ。で、ポケットに入る大きさのものといえば……」
足音を忍ばせて二階に上がる森。慎重にドアノブを回し、氷の上に降りるように片足を踏み入れる。雑然としている室内で、彼女は幸いにもターゲットをすぐに発見した。エプロンの中に潜ませたものは……
「ただいま。皆そろって何してるの。かくれんぼ?」
「ひゃう!」
森になりきって空想の世界に入っていたカナは、背中を叩かれて悲鳴を上げた。
「おばさん! 仕事は?」
水無月明日香が笑うと大ぶりなピアスが揺れた。
グレージュのシルクシャツに、同色のプリーツスカート。婦人服の販売員だけあっておしゃれだが、このコーディネートが出来上がるのに、この部屋の惨状が生まれたのだと思うと複雑なカナであった。
「シフトを早く切り上げてもらったから帰ってきたの。光ちゃん、いらっしゃい。美味しいパンを買ってきたから食べよう」
光はにこやかに応対しつつも、カナに何やら目配せしてくる。
え? 何? 下手くそなウインクを繰り返していた光は、まもなく諦めたように口火を切った。
「最近寝室から無くなったものはないですか」
「なあに突然?」
「……この頃、うちの近所に空き巣が出て。物騒だから」
「そうなの? 気をつけなきゃね。無くなったもの……うーん、特にないかな。あっても気づかないかも。だって、こんな汚い部屋だし?」
ぺろっと舌を出す。汚部屋という自覚はあるらしい。
忙しい明日香とゆっくり話をできる機会はそうそうない。カナは興味があった事柄を明日香に尋ねてみる。
「森さんとは退職してからずっと付き合いがあったの?」
「森さん? ううん、年賀状をやりとりする程度の仲だったんだけど、今年の夏に私の職場で偶然再会してね。交流が始まったってわけ」
「おじさんとも知り合いみたいだけど」
「三人とも区役所に務めていたからね。なあに、カナちゃんったら、三角関係的なこと疑ってる?」
「全然疑ってないけど」
「ばっかねえ。森さんは今の旦那さんと大恋愛して結ばれたのよ。別れて復縁すること三回、紆余曲折の末、結婚したんだから! 課内旅行の夜、壮大なロマンスの物語を聞かされたわ。日向も興奮してお腹をぽかぽか蹴ってね」
「妊婦のくせに旅行したの?」
日向がむっとした様子で口を挟む。
「経過も順調で安定期だったし、行先も小樽で近場だったから。特別にお父さんも同行させてもらったしね。宴会のお酒は控えたわよ」
「当たり前じゃん」
なおもむすっとしたまま日向は目をさ迷わせ、やがてガラス戸棚の前で留まった。
雑然としたなかで、工芸品がキレイに並べられた唯一の聖域。
ビー玉が詰まった小樽ガラスのコップ、鮭をくわえた木彫り熊の親子、表情が愛らしいアイヌ人形の夫婦、コルク瓶入りのまりも……。
そのとき。
結露でくもっていたフロントガラスがクリアになっていくような。不明瞭だった、遠い風景がはっきりと見渡せるような。
不思議な感覚に、カナは支配された。
嘘でしょ。
顔を上げると、日向と目が合った。気づいたことに気づかれたのだ。
この幼馴染はいつだって妙なところで鋭い。カナはさりげなく日向から視線をそらした。
――どうしようもなく根本的なところで、私たちはつまずいていたのかもしれない。
カナははげしい後悔と動揺におそわれていた。