A-5 おかしな事件の相談は
次の週の日曜日。カナはあせっていた。
卓上カレンダーをめくると、まごうことなく『11月』が現れた。
あと二月で今年が終わるなんて信じられない。欄外に描かれた緑茶をのほほんと啜る、ゆるキャラが憎らしい。
おまけに今週は模試がある。
日本史Bの復習ドリルをやっつけながら、無意識にスマホに触れようとした手を引っ込めた。
空野楓が通う白志山高校も同日程でテストがあるらしく、「お互い頑張ろう」とメッセージを交わしたばかり。
さあ集中しなきゃ、と焦るほどに、頭の片隅では別のことを考えていた。
森のおばちゃん。
明日香に召還された片づけの師匠。
日向と陽太に収納のコツを伝授し終えた森は、「また機会があれば」と水無月家を後にした。
彼女と過ごした二日間。それは、カナにとって、新鮮な驚きと感動の連続だった。なのに――
どうしてあんなモノを見てしまったんだろう?
背をかがめて寝室から出てきた場面が、まぶたの裏に焼き付いている。
階段の踊り場にいるカナに気づいた彼女は、氷点下の冷気を浴びせられたように全身を凍らせていた。
水無月家は二階にもトイレがある。
しかし、一階にいるにもかかわらず、他人の家でプライベートな二階トイレを拝借するのは、いささか常識に欠けるだろう。少なくともカナにとって森は、十分に常識を備えた大人にみえた。
つまり「広い家だから迷ってしまって」という言葉も、出まかせだったことになる。
ドミノ倒しのように記憶が連鎖した。
あの日、日向の連絡を受けてカナが馳せ参じ、二階ホールで森と鉢合わせしたとき。彼女は「お手洗いを借りようと思って」と口では言いながら、ハンカチをポケットに仕舞い、そのままカナと陽太の部屋に向かったのだ。服を褒められて浮足立っていたので気づかなかったが、やはりおかしい。
考えすぎだろうか?
すでに用を足した後で、「お手洗いを借りた」の間違いだったのかもしれない。
だが、いったん抱いた疑いは波紋のように広がっていく。
「おじさんとおばさんの部屋も掃除してくれるつもりだった……ちがうか」
カナは、楽観的な思いつきを打ち消した。
そんな親切心が芽生えたとしても、まずは許可を取るはずで、依頼された子供部屋ならともかく、夫婦の寝室を無断で掃除するなどそれこそ非常識だ。たとえ明日香に頼まれたとしても、森なら断ったのではないだろうか。
ドリルそっちのけで、納得できる理由を考えてみたが結局行き詰ってしまった。
「スッキリしないなぁ」
これ以上机に向かっている気になれず、カナは乱暴に立ち上がる。
日向に相談しよう。
こういうわけのわからない問題を解決してくれるのは、日向に限る。
草を食むアルパカのようにぼんやりした雰囲気の彼だが、不思議なことに直面すると、妙に思考が冴え渡るのだ。
それに、万が一事が重大だった場合、カナが独りで抱え込んでいるのは荷が重すぎた。
花畑牧場のキャラメル――依頼料だ――をパーカーのポケットにつっこみ、徒歩で十秒のお隣さんを尋ねる。
鍵が開いていたので、例のごとくチャイムは鳴らさない。
アディダスのブラックスニーカーは日向のだ。陽太の靴はないので、友達の家にでも遊びに行ったのだろう。
リビングは無人だったので、二階へ。
ノックをしようとして、中から聞こえてきた笑い声に、あわてて手を引っ込めた。
日向と、誰か、女の人……
かすかに会話も聞こえてくる。日向は、友だちや家族に向けるのとは全く違う柔らかな声音をしていて、カナは意味もなく頬が熱くなった。
間違いない。相手は雷宮先輩だ。
玄関に女性モノのブーツがあるのには気づいていたが、着道楽のおばさんが衝動買いしたのだろう、と思いこんでいた。
勢いのままドアを開けなくて本当によかった。どんな刺激的な場面に出くわしたかわからない。
タイミングが悪すぎた。帰ろう。
カナが回れ右したところで、内側からドアが開いた。
「やっぱり――宮西カナだ」
猫のような目に射ぬかれる。
直立不動になったカナの両腕を、雷宮光ががっちりと掴んできた。
「足音と気配でそうだと思ったんだ」
「気配で?」
この人は野生のライオンか何かか!
五感、研ぎ澄まされすぎでしょ。そうツッコミたくなるのをぐっと我慢して、
「ご無沙汰してます」
「久しぶりだな。元気か」
「おかげさまで。先輩もご機嫌麗しく」
「なんで棒読みだよ」
あいかわらず女神のようなスタイル。
タイトなデニムスカートから伸びる脚を眺めて、カナは羨ましくなる。
スレンダーな体型に、最近は腰からヒップのラインに女性らしい丸みも帯びてきた。流行を追うよりも、自分に似合う服を選んでいるのだろう。カナだと体型を気にして、タイトなラインだったり露出が多い服は避けてしまう。
「日向が掃除に目覚めたっていうから、見学に来たんだ」
と、凛々しい顔立ちの頬を緩める光。
勉強机のすべての引き出しが解放されていた。中がタッパーで埋め尽くされた景色に、光はこらえきれないように吹き出した。
「あははは! なんだよこれ」
「でも、よく整頓されているでしょ。探し物もかなり減ったし。結構な量を捨てたんですよ」
日向はそう言って、カナに蓋の束を差し出してくる。
蓋が邪魔なら取っていい、という森のアドバイスに甘んじて、さっそく実行したらしい。使用頻度の高いものが入っているタッパーの蓋をはずして、不要になったその束。
こんなもん貰ってどうすりゃいいのよ。
横目で睨むが、日向は困ったような顔をしながらも、彼の視線の先には光しかいなかった。正直な男である。
「じゃあ、私、帰るよ」
光がおもむろに言う。
「えっ、もう帰っちゃうんですか」
「今週は模試があるんだろ。ちょっと励ましにきただけなんだ。日向、勉強頑張れよ」
日向は従順にうなずくが、あきらかに寂しげだ。
もし彼にウサギ耳があれば、意気消沈したように垂れ下がっていたことだろう。
「私も帰ります」
一緒に部屋を出ようとしたカナに、光が首をかしげてたずねてくる。
「用事があったんじゃないのか?」
図星をつかれて、カナは黙り込む。
本当はそのつもりだったが、微笑ましい彼らを前にして相談する気が失せてしまったのだ。
どちらにしろ。このまま帰って勉強しても集中できそうにない。
「あの、実は――」