A-2 机のなかのカオス
『カナちゃん、来年から受験生でしょ。お手伝いさんみたいなことをさせているのは申し訳ないと思っていたし、日向と陽太にも家事を覚えさせないと。
森さんは私が区役所に務めていたときの先輩。整理整頓の名人でね、コツを掴めば誰でもできるようになるって言うから。だったら愚息に伝授してくださいってお願いしたわけ。それから、二階にモップかけてくれるとありがたいんだけど』
「おばさんとおじさんの部屋も?」
『なんだか最近埃っぽくて。ざっとでいいからお願いします。ほっぺタウンで点天の生餃子買って帰るからね。よろしく』
返事をする間もなく電話は切れた。
フロアモップを片手に、カナは階段を上がって寝室に入る。息子の幼馴染とはいえ、プライベートな空間の掃除をさせるなんて気が知れない。もう慣れてしまったけれど。
仕事をバリバリこなし料理上手な水無月母だが、弱点もある。掃除が苦手なことだ。
ダブルベッドの上に丸まっていたカシミアのストールを畳み、室内を見回す。
「ほんとに申し訳ないと思ってるのかな……」
カナのつぶらな瞳が剣呑な光を帯びた。ベッドボードの棚に、旅行用のアメニティセットを見つけたからだ。
こういうところ。こういうところよ、おばさん!
先週出張から戻って、鞄から出したままにしているのだろう。代わりに、本来そこにあるべきサイドランプは床に下ろされている。もやもやした。
床に物を置くと掃除しにくくなる。定位置に物がないと失くしものが多くなる。すべてが不効率になるのに。
唯一の例外は、ガラス戸棚だけ。
ビー玉が詰まった小樽ガラスのコップ、鮭をくわえた木彫り熊の親子、表情が愛らしいアイヌ人形の夫婦、コルク瓶入りのまりもなど。道内観光のたびに買い集められた工芸品が几帳面に並べられている。
思い入れがあれば綺麗をキープできるタイプなのかも。
幼馴染の母を考察しつつ、繊細な作りのものが多いので注意して、マイクロファイバークロスでホコリを払う。
「――なにもね、全部捨てようってんじゃないのよ」
諭すような語り口に誘われ、カナは日向の部屋をのぞいた。
正面に森のおばちゃん。クマの刺繍がほどこされた可愛らしいエプロンをして、保育士さんのようにも見える。日向は彼女の対面で縮こまっている。
カナは戸口で小さく息を呑んだ。
床に本の柱が生えているのは予想範囲内だが、陽太――見物に来たのだろう――が寝そべっているベッドにも服がうず高く積まれていた。
お客さんを入れるのに何もしないほど無神経ではないから、これでも少しは片づけたつもりなのだろう。救えない。いっそ悲しくなる。
整っているのは外見ばかりで、日向が生息しているのは汚部屋としかいいようがなかった。困ったことに、掃除が苦手な明日香の遺伝子は息子にもしっかり受け継がれていたのである。
「この引き出しの中身。何が問題だと思う?」
森と日向の間に、勉強机の一段目の引き出しがある。
ペンと消しゴム、得体の知れないメンバーズカードの他、こちゃこちゃしたものが山ほど詰まっている。カオスだ。
そういえば先日、毛糸のくずが机に散らばっていたのを捨てたら、「宇宙ひもの概念を理解するために作ったのに!」とキレられた。腹が立ったカナは以来ここの掃除をしていない。
ふてくされたように黙っている日向を、森は辛抱強く見守っている。
「日向くん。どう思う」
「……物が多すぎること?」
「でも、すべて大事なものなんでしょう」
こくんと頷いた日向に、「本当かよ」と陽太が茶々を入れた。カナも同意する。ほとんど使っていないものばかりのくせに。
森は企みをするような笑みを浮かべて、「じゃあ」とモスグリーンのセーターの袖をまくった。
「欲しいものをすぐ取り出すことができる? 実際にやってみましょうか。コンパスは?」
「たぶん、この中に」
「出してみて。タイムリミットは三十秒」
はじめ、と宣言して、森は腕時計に目を落とした。
日向はおろおろとカオスを掻きまわす。コンパスならケース入りだしすぐ見つかるでしょ、とカナは予想したが、三十秒どころではなかった。一分以上かけて、結局ほとんどのアイテムを外に出すはめになったのである。
「痛って」
「え、大丈夫?」
指を引っ込ませた日向に、カナは駆け寄る。人差し指の先に赤い粒が浮かんでいた。むき出しのコンパスの針が刺さって流血したらしい。
「ケースに仕舞ってなかったの? もうっ、ズボラすぎ!」
「あらあら。どうぞ」
森がカナに絆創膏をくれた。ケガをした指に巻いてやろうとしたが、過保護を晒すようなので止めた。無言のまま日向にバトンする。森が静かに語りだす。
「物が多いのは問題じゃないの。無理して捨てなくったっていい。でも、大切なものを生かせていないのは勿体ないでしょ。今のままじゃ死んでいる状態と同じ」
その言葉に、日向はショックを受けたように固まった。
たしかに目的物を取り出すのに一分以上もかかるのでは、「生かせている」とは、とても言えない。古いコンパスに牙をむかれた日向は、出血した指先を舐めて悲しそうな顔をした。
明日香によって召喚された片付けの師匠は、うーんと唸ってカナを仰ぐ。
「使ってないタッパーある?」
「タッパー……」
「いつか使うかも」と明日香がコストコで購入した、ジップロックコンテナの二十個セットがあったはず。
「いつか使う、は使わない」
口ずさみながらカナはキッチンからタッパーセットを持ち出す。森のおばちゃんは「家にあるものは自由につかっていい」と明日香に仰せつかっているというので問題はなかろう。
戻ると日向と陽太が二人がかりでインクが出なくなったペンを選り分けていた。蛍光ペンはほとんど色が出なくなっていたようで、次々とゴミ箱行きになった。
森のおばちゃんは、タッパーのサイズをひとつずつ吟味して、満足げに微笑んだ。エプロンのポケットからマスキングテープと油性ペンを出す。
「じゃあ、アイテムごとに収納していこうか」
「タッパーに、ですか」
「タッパーに入れるのは食品だけって、決まってるわけじゃないよ」
日向は小さめのタッパーに消しゴムを詰めて、森が『消しゴム』と書いたマスキングテープを蓋に貼る。メンバーズカードは期限切れのものは捨てて、四隅をそろえた状態で収納される。(『宇宙ひも』のラベリングもちゃっかりあった。)
すべてのアイテムがタッパーに収まると、森は日向に確認しながら、使用頻度の低いものから引き出しの奥に詰めていく。
最後に、パズルゲームが得意な陽太が隙間がないようタッパーの位置を微調整した。テトリスみてえ、とご満悦である。
「すごい! すごいです! ありがとうございます、森のおばちゃん」
作業を終えると同時に、カナは歓声を上げていた。
実際、初めのカオスと比べると見違えるようである。日向はしばらく呆然としていたが、「よかったじゃん」とカナが声をかけると、
「うん……」
しっかり頷いた。
お気に入りのアイテムをすべからく見渡せて、快適に手に取ることができる素晴らしさ。物を捨てれば解決する、とばかり考えていたカナは反省した。
「僕、なにかを掴んだ気がします」
さらにこうも発言した日向に、森のおばちゃんは目尻に皺を浮かべてにっこりと微笑んだ。
お茶でもどうぞ、とカナが招くのを断って、森のおばちゃんは慌ただしく帰り支度をはじめた。旦那さんの夕ご飯の用意をしなくちゃいけないらしい。
外はすっかり暗くなっている。秋の日暮れは早い。見間違いかと疑うくらい、目を離した隙に世界が変わる。
「今日は本当にありがとうございました。あの、また来てくれますか」
森の“パフォーマンス”に魅了され、すっかりファンになってしまったカナである。
「うん。次は陽太くんの部屋だよ」
うぐぅ、と陽太。彼の部屋は兄ほど汚れていないからすぐに片付くだろう。
「日向くんの向かいの部屋だっけ」
「いえ、そこはおじさんとおばさんの寝室で、陽太の部屋は隣です」
カナが代わりに応えると、「バラすなよ」と陽太にニットワンピの裾をまくられた。げんこつをお見舞いする。悶絶する陽太を睨んでいると、森が名刺大のカードを差し出した。
『“シンプルライフ”な暮らし』と洒落た字体が並び、アドレスも記載されている。
「私、整理収納に関するブログをやっているの。限られた人にしか知らせていないんだけど、カナちゃん興味を持ってくれたみたいだから。よかったら覗いてみてね」
「はい……ぜひ」
カナは小さな手で、森がくれたカードを宝物のように握りしめた。