A-1 シフォンケーキと秋の午後
『今日の稽古中ずっと、カナちゃんのことを考えていたよ』
宮西カナは、スマホの通知を見てアプリを起動せずに画面を閉じた。既読マークが付いてしまわないように。
「気持ち悪っ。なんだよそれ」
「陽太。あっち行ってよ」
後ろからのぞき込んでくる水無月陽太を、カナはしっしっと追い払った。
「誰から? ストーカー?」
声変わり真っ最中の陽太は、すべすべした頬に生意気なえくぼを浮かべている。
クソガキめ帰れ。そう罵りたいが、ここは彼女の家ではなく陽太の家なのが悔しいところだ。
十月初旬の日曜日の午後。
北国の秋は短い。夏の暑さが過ぎれば山々が紅く色づき、またたく間に落葉して長い冬がやって来る。冷房も暖房もいらない今時期は、ひとときのユートピアだ。
両親が共働きで留守がちな水無月家の家事を手伝うカナにとって、ここは自宅よりもくつろげる場かもしれない。とくに対面キッチンは自分専用のコックピッドみたいでお気に入りだ。勝手知ったるキッチンで、電気ケトルで湯を沸かしコーヒーを淹れる。
ストーカー……たしかにそうかも。
下校時間、校門前で待ち伏せしている空野楓の小柄な姿を思い浮かべ、カナは苦笑いする。
楓に好意を寄せられるのは不快じゃない。くるくるとした瞳は愛らしく、話も面白くて一緒にいると笑いが絶えない。
ただし、ひとつ問題がある。一向に告白してこないのだ。
「こらっ、陽太。シフォンケーキは冷めるまで逆さにしておかないと高さがキープできないの」
テーブルの上に身を乗り出した陽太をたしなめる。
コップの逆さにして置いた底に、シフォンケーキが型ごと逆さに乗っている。そのまま冷ますと生地が柔らかいので、重みでつぶれてしまうためだ。ふわふわ食感と美しい形態こそシフォンケーキの神髄。
なのに、「お腹へった」と年下の幼馴染がぐずるものだから、カナはしぶしぶとアルミ製の型に触れてみた。少し熱が残っているけど、まぁ良い頃合いだろう。
OKサインを出すと、陽太は型からスポンジを直接ちぎって頬張り始めた。
「日向くんも、ケーキ食べていいよ」
「あ、うん」
テーブルの隅で、漫画を読んでいた日向が顔を上げる。ケーキ型を手元に寄せ、陽太と同じようにもそもそと口に運ぶ。
型から直でケーキを喰らう。驚くなかれ、これが兄弟のリアルである。
大食いで甘味好きの日向はもちろん、食欲が増してきた小学六年生の陽太もワンホールを平らげてしまうので、効率化が図られたわけだ。洗い物が減るのはありがたいけど、料理部部長のカナとしてはマナー以前に許しがたいものがある。美少年兄弟と幼馴染なんていいなぁ、と羨ましがる夢見がちな友人たちに現実を教えてやりたい。
ブラックコーヒーを啜ってから、カナは日向に尋ねる。
「今日は雷宮先輩は?」
「剣道の稽古」
「終わったら会ったりしないの?」
「カナさんと空野くんは?」
「え」
「さっきからスマホ気にしてるし、連絡待ってるんじゃないかって」
「……」
普段ぼおっとしているくせに、妙なところで鋭い。
答えをはぐらかすように、カナは自分用に焼いたカップケーキを摘まんだ。楓とカナを引き合わせたのは日向だから責任を感じているのだろうか。……だめ。心がざわざわしてる。
告白の言葉?
なかったです。自然と互いに必要な存在になってましたから――。
雑誌のインタビューでそんな回答を目にしたことがある。自然と始まる関係もあるだろう。でも、カナは嫌だった。
面倒くさい奴と思われるかもしれないけど、はじまりの言葉が欲しい。できれば口頭で。
カナの願いに反して、楓は一度も『好き』と言ってくれたことがない。そのくせメールだと別人格のように歯の浮くようなメッセージを送ってくるものだから、苛立たしい。
高校二年生の秋。進路だってそろそろ本格的に考えなくちゃいけないのに、楓のせいで悩むなんて。そうだ、来週の料理部の実習は何を作ろう……?
ああ。頭までごちゃごちゃしてる。
視界だけでもスッキリしたくて、シンクにたまった洗い物を片付けにかかる。水に浸しておいたボールを磨き出したところで、日向が言った。
「カナさん。今日はお客さんが来るから」
「お客さん?」
カナは食器洗いの手を止める。おばさんから何も聞いていないけど。
しかし今日の日向はどうしたのだろう。ぼおっとしているのはいつものことだが、無気力を通り越して厭世感さえ漂わせている気がする。
五分後、客人を知らせるチャイムが鳴った。
タオルで泡だらけの手を拭って、ドアホンの受話器を取る。モニター画面にトレンチコートを着たボブカットの女性がたたずんでいた。
はい、とインターホン越しに応答すると、
「森です。明日香さんの友達の」
「おばさんの?」
明日香というのは、日向と陽太の母親の名前だ。いわれてみれば、女性はおばさんと同じ年代にみえる。
カナが惑っていると、日向は面はゆそうに腰を浮かして玄関に向かった。彼女がお客さんらしい。
「あらあらあら。ちょっと! 若いときのお父さんにそっくり!」
日向を一目みた瞬間、森は口に手を当てて大爆笑をはじめた。
カナはただ面食らう。若い頃のおじさんを知っているらしい。夫婦共通の知人だろうか。父親似の日向は慣れた反応らしく、愛想笑いしながらも「だから嫌なんだ」というような苛立ちをにじませている。笑いがひと段落した森は、目尻に浮かんだ涙をぬぐった。
「ごめんなさいね、前に会ったときは赤ちゃんだったから驚いて。立派に育って……学校でモテるでしょ? 息子さん二人だって聞いていたけど」
次はカナに注目を移した。条件反射で背筋が伸びる。
「私、隣の家に住む宮西カナといいます。今日はたまたま家事を手伝いに来ていて」
すると、森はしたり顔になって、うんうんと頷いた。これは――。
誤解されていると悟り、カナはうんざりした。高校生にもなって自宅に行き来しているのだから、恋人と疑われても仕方ないのかもしれない。いい加減、子離れ……じゃなかった。手のかかる幼馴染離れしたいと思っているのだが、なかなか出来ずにいるのだった。
玄関で立ち話をしている理由もないので、リビングに招くと、森は提げていた紙袋をカナに渡した。
「ルタオのドゥーブルフロマージュ。冷蔵庫に入れておいてね」
カナは思わず口元がほころぶ。札幌大丸にある有名な店舗のチーズケーキだ。大好き――じゃなくて、受け取る前に確認しなくては。
「あの、森さん」
「森のおばちゃん、でいいわよ」
「今日はどういったご用件でいらっしゃったんですか……?」
明日香おばさんが不在なのを、この人は知っているようだった。森のおばちゃんは、きょとんとした後、トレンチコートの胸をぽんと叩く。
「日向君の部屋の片付けだよ!」
ふさぎ込んでいた日向は死刑宣告をされたような表情になり、いっそう蒼ざめた。