S2-9 夏の通り過ぎるもの【後編】
コインロッカーに凭れていた三郎が身を起こし、如月に不安げな視線を送った。静かに張りつめた空気のなか、如月は口火を切る。
「私がすべてコントロールしていたなんて。買いかぶりすぎだよ。
だって、私はスクエアを信じていた。最後のチャンスっていうのも本当。四年生は大学祭でサークル活動を引退するから」
だからこそ、と語尾を強めて、
「インチキなんかされたくなかった。おかしな動きがあれば、私だけにわかるよう伝えて欲しい。そう三郎に頼んだの」
「おかしな動き……」
「四人の中に一人を紛れ込ませるようなね」
硬い表情のまま、如月は日向に告げた。
長月は独断で〈五人目〉を潜ませていた。しかも、それは外部の人間だった。すべて明らかにして、何かを決したように如月は大きくひとつ息を吐いた。
「オカルト研ね。創設した当時はそれなりに会員がいたの。マニアと呼べる人は少数だったけど、廃墟探索とか楽しくやってた。就職活動で忙しくなった四年生が辞めていって、新会員も思うように増えなくて……四人が三人になってスクエアができなくなった頃かな。様子がおかしくなってきたのは。
最後に辞めたのは私の友達だった。バイトが忙しいからって申し訳なさそうにしていたけどなんとなくわかるの。皆、同じ目をしているから。いつまでもこんなおふざけはしていられないって目。彼らのなかでオカルト研は、通過点にしか過ぎなかったのね」
通過点。淡々とした口調のなか、その語にだけアクセントを置いた。
「三人でも活動は続けていた。三郎は別のサークルを掛け持ちしながらだけど」
「すみません」三郎が短髪の頭を掻く。「頼まれると断れなくて」
如月は柔らかく微笑して、「あなたのそういうところは理解してる。イベントは絶対に協力してくれるし。今年の初めのフィールドワークも」
「フィールドワーク?」
光が怪訝そうに語尾を上げる。心霊スポット巡りみたいなもの、と如月は注釈をつけた。
「廃校探検の帰り、校舎を振り返ったら窓辺に誰かがいたの。嘘じゃない。そのときは本当に視えた気がしたのね。伝えたら、三郎と長月くんが盛り上がって喜んでくれた。次回のフィールドワークでも、私は神経を集中させて霊の気配を感じ取れるよう努力して、実際に声を聴いたりもした。――でもね、見ちゃった。長月君が建物にスピーカーを仕込んでいるところ」
三郎が下を向いた。光は露骨に顔をしかめる。如月が感じ取った心霊の気配は、長月にお膳立てされたものだったのだ。
如月はワンピースの裾をぎゅっと掴む。スクエアでは異彩を放っていた彼女だが、こうしてありふれた風景のなかにいると、ひどく弱々しげにみえた。
「悪気がないのはわかってた。長月君は盛り下がっていたオカルト研を元気づけようとしてくれたのね。でも、許せなかった。
かといって本人に問いただす気にはなれなくて、三郎に相談したの。結局二人ともどうすることもできなかった。行動を起こせば、長月君がオカルト研から離れていくのは目に見えていたから。やりきれない気持ちを吐き出すため三郎と過ごす時間が増えたら、彼氏に問い詰められてケンカ別れしちゃった」
如月は光の方を向いて、腰を折った。旅館の女将のような気品のあるお辞儀だった。絹糸みたいな髪をホームから吹き上がった風が揺らす。
「雷宮さん。噂、聞いたよ。槙田君がしつこく付きまとってごめんなさい。迷惑かけちゃったね」
「別に。あなたが謝ることじゃない」
光はぷいっと横を向いて、日向の腕を掴む指に力を籠めた。それを観た如月は察したようにふっと笑って、口許から切なげな吐息をもらした。
「長月君は自分が通り過ぎられる側になるのが嫌だったのね。だから、あんな馬鹿げたイタズラをしたのかな。でも、大学祭のスクエアは……私にとって最後のチャンスにだけは手を出さないで欲しかった。あなたは」と日向に、「喜んでいたのは演技だと思っていたみたいだけど、違うよ。私は実際に喜んでいたの。着ぐるみの三郎が現れるまではね」
彼女が興奮していたのは演技じゃなかったのだ。誰の、どの表情が真で偽りだったのか。推理で真相に近づいたものの、日向はますますわからなくなった。現実はあまりにも不確かだ。如月は、けど、と艶やかな唇を噛む。
「今回のスクエアで思い知った。私の想像をはるかに超えて、長月君は結果にこだわるようになっていた。彼は私を尊重してくれるけど、目的は別にあったんだと思う。いいえ、最初は純粋に『私のため』だったのかもしれない。大義名分で動いているうちに罪悪感が麻痺して、経過よりも体裁を重視するようになったんじゃないかな? 三郎が着ぐるみで現れて確信したの。やっぱりそうだったんだって」
「長月は完璧主義者だから。思考が極端なところがあった。会場の手配も装置もひとりで用意したから、何かあるな、とは思っていた」
三郎が無念そうに言った。友人の暴走を止められなかったことを悔いているのかもしれない。
「まさか赤井さんと僕が仕掛けてくるとは思わなかったですよね。見過ごしてくれてありがとうございます」
日向が謝ると、いや、と三郎は手を振る。光には、そうだ謝る必要なんてないぞ、と逆に怒られた。腕組みを解いた三郎はやや苦笑して、
「赤井さんが抜けた後もスクエアは続くから変だと思ったんだ。これは霊じゃなかろうと。
観察していたら、案の定、教卓から黒い影が出てきてスタート位置の箱に入った。暗幕みたいなマントを被っていたから正体は分からないかったが、たぶん長月が雇った誰かだろう。その時点で、俺は見張りを離れて、パントマイム部から調達した着ぐるみに着替えた」
「乱入してスクエアを止めようとしたんですか」
「着ぐるみで現れるのが如月さんと決めた合図だった。彼女がオレを『ヌイグルミ』と呼んだから、そう振る舞ったまでだ」
日向は感服したように目を見張った。
ヌイグルミのふりをした方が、騒ぎが大きくならずに済む、と如月が判断したのだろう。彼女は賭けに勝った。あのときの一言が、自分と長月だけでなく、三郎をも操っていたなんて。
「タンコブができてる」
如月アスミは三郎に近づき、後頭部の出っ張った箇所を撫でる。
パントマイムで鍛えているとはいえ、受け身も一切ない倒れ方をしたから、タンコブくらいできただろう。如月はひたすら慈しむよう触れている。その様は慈愛にみちた女王のようだ。
「三郎、ごめんね。いつもありがとう」
無骨な従者みたいな男は、照れたように彼女から離れた。途端に、ふわっと独特の香りがした。
あ……。
日向はやっと悟る。如月に握手を求められたとき、彼女から漂ってきたのも同じ香りだということに。
これは――陰陽五行研究会の占いの館を通りかかったとき嗅いだ香の匂いだ。館のなかの会員たちはさぞかし匂いが濃く移っていたことだろう。三郎にも。それが如月に移っていたということは、今日、どこかで彼らが間近にいたことの証明ではないか。
「水無月君に今日のこと口止めしようと思ったけど、やめた」
からっとした調子で如月が言い、ホームに降りる階段へと歩み出す。三郎が重い足取りで続く。
「まだまだ好きなことに夢中になっていたかったけど。就職活動も厳しいしね。そろそろ潮時かな」
続けて独り言ちた如月アスミの瞳は、どうしようもなく未来に向いていた。
*
「ちょっと部室に寄っていいか。使用済みのタオルを忘れちゃって」
鞄を取りにきた目的は果たしたが、今すぐ電車に乗れば如月と三郎に鉢合わせする可能性が高い。なんとなく避けたかった日向は、光の提案に二つ返事でOKした。
エレベーターで一階に上がって、三号棟を一歩外に出ると、頬に冷たいものが垂れた。雨だ。
「とうとう降ってきちゃいましたね」
「すぐ止むだろう」
光の予想に反して、雨脚は急激に強まった。
文科系サークル棟に着いたときには、日向はスニーカーのつま先までぐっしょり濡れていた。守衛のおじさんにサークル会員証を掲げて中に入る。
「ああ本降りになってきたねぇ。――君、びしょ濡れだけど大丈夫?」
「日向? どうしてそんなに濡れているんだよ」
守衛のおじさんと光がそろって呆れた視線を向けてきた。困った人でも見るように。
光があまり濡れていないのは、日向が背後から彼女の頭上に鞄を掲げていたからなのだが、この様子だと本人は気づいていないっぽい。雨から光を守れただけでも良しとしよう。
演劇サークルの部室はきっちりと片付けられていて無人だった。
『18:00~居酒屋つぼ九集合』とホワイトボードに連絡事項がある。公演を無事に終え、打ち上げに向かったのだろう。
光はロッカーからタオルを取り出すと、おもむろに日向の頭を被せ無造作に髪を拭いた。ふわふわした気持ち良い素材のタオルだった。
「このままじゃ風邪引いちゃうよ。使用済みタオルだけど、許せ」
「ありがとうございます。変なことに巻き込んじゃってすみません」
「いつものことだろう」
「花火大会、中止ですかね」
「この天気の下じゃ、さすがに観る気も起きないなぁ」
「今から打ち上げに参加しますか」
「途中参加は嫌だ」
「ですか」
「それに」誰もいないのに光は小声になって、「皆でいるより二人でいたい」
先刻よりも弱まったようだが、雨は止まずに続いている。
コンクリートの地面が黒く染まっていく。夜になれば空との境も曖昧になるだろう。雨は暗闇を深くする。
雨合羽をかぶった学生たちが特設ステージを片している。ミス黒志山大学の発表を早めた学祭実行委員会の判断は大正解だったわけだ。雨のなかご苦労様がんばって。日向は心のなかでエールを送る。
「ん……!」
唇に触れるだけの感触がした。
びっくりして目を瞬かせていると、光は無邪気に笑っている。その顔がすぐに真顔になった。
日向が光の手を握ったせいだ。手首から上腕へ、ゆっくりと撫でるようにして位置を上げていく。光の肌は冷えていて、それでいて触れた箇所はすぐに熱を帯びた。
「――あのね。部屋にエアコン付けたんだよ」
唐突もなく光がいった。部屋というのは、彼女が一人暮らしをしているアパートだろう。
「日向が来るたびに暑い暑いっていうから。だから……今から来る? 花火大会もダメになっちゃったし」
首を縦に振ると、もう一度キスをされた。
さっきよりも深く絡んで、そのまま抱きしめ合う。薄着のせいか触れた胸から互いの心臓の鼓動が感じられた。これじゃあ自分の服の水気を吸って光の服も濡れてしまう、と途中気づいたが、しばらくそのままでいたかった。頭に被せられたタオルが音もなく床に落ちた。
視線の先で、街灯がオレンジ色にともる瞬間を、日向は見た。
光の視界には何が映っているだろう。好きな人とのキスは幸せで、ちょっぴり切ない。抱き合ってもこうして違う景色を観ているからだろうか。
小雨のなか実行委員会は黙々とステージを片付けている。
黒志山大学祭、終了。こうして日常は着々と過ぎていく。きっと高校も瞬く間に卒業して、大学に入って、あっという間に大人になってしまうのだろう。
すべては未来への通過点。
そう告げた如月の顔は青白くて、どこか寂しげだった。日向は、番町皿屋敷のお菊さんのことを想う。
愛情を確かめるため死さえ恐れなかったお菊。青山播磨との身分違いの恋など成就しないと彼女も薄々勘付いていたのだろう。けれども、彼女は愛する人の通過点になりたくなかった。だから運命に逆らった。青山播磨は負けず劣らずの狂愛で彼女に応えた。
「光さんにとって、僕って何ですか」
「うん?」
「通り過ぎる存在ですか」
まずい。空想からあふれ出た台詞に、日向は自己嫌悪でうんざりした。
彼女のほうが年上のせいか、いつか自分を置き去ってしまうのではないか。そんな不安に駆られてばかりいる。
バカだな。また変なことを言って。
次にくるであろう光の台詞を待って、日向は焦れた。お願いだからそんな風に笑い飛ばしてほしい。早く……。
でも、光は笑わなかった。かわりに耳に唇が触れるほどの距離で囁かれる。
「私にとって日向は……はじまりでおわり」
夢の中にいるような、どこか、ふわふわした口調だった。
始まりで終わり――。始発駅と終着駅。
耳たぶのくすぐったさに身をよじりながら、日向は一文字ずつ噛みしめる。
はじまりでおわり。頭で理解しようとするよりもダイレクトにそれは心の隙間を満たした。
真夏の雨はしっとりと夕方の路地を濡らしていく。
【『うだるような真夏のスクエア』…end】
夏のエピソードを、お読みいただきありがとうございます。
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