S2-5 スクエアの顛末
33番教室。午後二時五十分――。
しばらくは誰も口をきかなかった。
全身を灰色の体毛で覆われたそれは、チンパンジーのようにも見えた。半開きで眠そうな瞳は瞬きもせず、得体の知れぬ不気味な色をたたえている。
「なんだよ、これっ」
長月が苛立ちをにじませて言った。
飛び出た目玉と三角形の鼻は、プラスチック製。それが『作り物』であると気づいたからだ。
身長は如月の胸くらいの高さで、雪男の子供、といった風体。胴回りが大きく、箱の床面積の半分を占領している。
「ヌイグルミ……?」
自らを抱きしめるようにしていた如月が、おそるおそるといった手ぶりで小突くと、“雪男”は重力にしたがって傾き、パネルをつたって、ずるずると床に倒れた。体毛に隠れていた、ペンギンみたいな三本足の爪先が天井を向く。
「誰がこんなものを」
うなった長月は、はっとしたように教室を見回した。
「赤井さんは?」
如月と日向が呆然としている間に、長月はすべての箱を回って確認した。四つの箱、いずれにも赤井はいなかった。――赤井は消えていた。
「おいっ、三郎!」
教室の外に向かって叫ぶものの、返事がない。
廊下に出てみると、見張り役も消えていた。フランケンシュタインめいた容貌の左衛門三郎雄太の姿はなかった。代わりに『立入禁止』の看板が、主人の不在を詫びるよう、ちょこんと置かれている。
「三郎までどこ行ったんだよ。まさかアイツに限ってサボったなんて」
興奮のせいで、長月の顔色が真っ赤になっている。いらだった様子でスマホを操作し、盆踊り唄を止める。
気を利かせた如月が電話連絡を試みるが、コール音がむなしく漏れ聞こえてくるだけで、相手が出る気配はない。「ダメ。出ない」と溜息まじりに報告した。
「どうなってんだよ! これじゃあ、逃げ放題じゃないか。くそ!」
逃げ放題。赤井がスクエアの最中に逃げた――と?
可能だったろう、と日向は回想する。大音量で流れる北海盆踊り唄が、それぞれの足音や気配を消していたし、待機中に箱の外を覗く行為は禁止されていた。
箱から箱への移動のときスクエアを抜けて、さらに出入口の見張り役が不在となれば、33番教室を脱出するのは容易いことだ。
長月は、彼のクセのある前髪を乱暴につかみ、日向を睨みつけた。
「さっき、君はどこから出てきた?」
「……え」
「如月さんの悲鳴がして、スクエアを中断した直後だよ。僕は、彼女のひとつ先の箱にいた。水無月君は、ひとつ前の箱から出てこなかったか。そこは本来、赤井さんの場所のはずだ」
こくり、と頷いた日向に、さらに厳しい追及が迫る。
「君が最初にいたのは、それよりもひとつ前の箱だった。俺のひとつ先の箱。おかしいよな。なぜズレている?」
日向は落ち着かなく目を泳がせて、「僕にもわかりません。よく憶えていないんです。リレーを続けているうちに、意識がうつろになって。気づいたらあの箱に」
「霊の仕業に間違いないわ。ねえ、絶対そうよ」
おぼつかない釈明をする日向と対照的に、如月は堂々とした態度で、感極まったように瞳を潤ませている。舞台上の女優みたいに叫ぶ。
「スクエアは成功した! だって、私、感じたもの。異質な存在が混じっていたのを。たぶん、それに肩を叩かれた」
「ああ……異質な存在が降りてきていたのは、俺にも分かったよ」
長月はそう認めて、如月と握手を交わす。
オカルト研究会の祈願は達成されたのだ。張りつめた雰囲気がわずかに和んだが、そう簡単に“めでたしめでたし”とはならなかった。
でも、と悔しそうに長月が唇を噛む。
「あのヌイグルミも霊のしわざだと? あり得ない。スクエアは妨害されたんだよ、赤井さんに」
「そういえば赤井さん」如月が唇に指を当てて、「私とふたりのとき教えてくれたの。院のボランティア活動の一環で、高齢者福祉施設で人形劇をしているって。劇で使っているものを大学院から運んできたのかな」
「可能性はあるな。大学院棟はすぐ隣だ。時間的にも余裕はあったはずだし」
「あの、待ってください」
赤井犯人説が急速に進展するなか、日向は待ったをかけた。
「赤井さんが犯人と決めつけるのはどうかと。三郎さんが、いつの時点で居なくなったのかわかりませんが、彼が不在になってからは誰でも出入りできたはずです」
「誰かって誰だ」
長月がすぐに異論をとなえる。
「オカルト研がここでスクエアを行うことは、ごく身内しか知らない情報だ。
俺たちにしても、メンバーを揃えるのに必死で、直前まで実現できるかさえ分からなかった。そんな状況で、ここに侵入した誰かが悪戯をした? しかも都合よく誰もいない箱にヌイグルミを仕込んだ? 馬鹿げてるよ」
「外部の人間が犯人とは限りません」
「なに?」
「スクエアに直接参加していた長月さんと如月さんには無理だったと思います。――でも、三郎さんにならチャンスはあったんじゃないかな、って」
彼ならば、暗幕一枚を隔てた廊下で、スクエアの様子を伺うことができたはず。
もしそうならば、赤井がいつスクエアを抜け出したのか、なぜ三郎がそれを見過ごしたのか、別の問題が浮上するのだが。あくまでも可能性です、と日向がやんわり付け足すと、長月は少し考え込むようなそぶりを見せた。
しかし、如月がきっぱりと言う。
「三郎は私を絶対に裏切らない」
なぜそう断言できるのか?
わざわざ聞き返すのもためらうような、揺るぎのない台詞だった。
如月アスミは凛として唇を真一文字に結んでいる。これ以上の異論は受け付けない、とばかりに。そうだよ、と長月も彼女に賛同し始める。
「三郎にはそんなことをする理由がない。他のサークルにも顔を出していたから、活動はサボりがちだったけど、オカルトには敬意を払って信仰していた。あんな嫌がらせはしない」
「でも、たとえば、ですよ? スクエアのメンバーを外されて、見張り役にされたことに不満を持っていたとか」
「三郎自身が志願したんだよ、見張り役に。自分は裏方が向いてるからって」
「ねえ、やっぱりおかしいよ。何かあったんじゃない、三郎? 緊急の連絡が入ったとか」
如月が不安げにスマホに目を落とす。三郎から折り返しの連絡はまだ無いらしい。
「うーん……スクエア中の俺たちに声をかけるのが忍びなくて、黙っていなくなったのか。三郎のキャラ的にありそうだ。一応、俺が構内を探してきます。他のサークルの模擬店も」
「ありがとう。助かる」
先輩に微笑みかけられた長月は教室を出ていこうとするが、転がったままの“雪男”をいちべつして、憎々しげに愚痴をこぼした。
「無断でスクエアを抜けるだけでなく、下らないイタズラをするなんて。赤井さん、大人げないにもほどがある」
「――もしかすると、原因は長月さんかもしれませんよ」
立ち止まった長月は、スローモーションのようにゆっくりとした動きで、日向を見やる。
調子を取り戻した彼は、元の優しいイケメン風に笑いを含んだ声で、
「俺に? 初対面だっていうのに、そこまで恨まれていたとはね」
赤井をたぶらかしてスクエアに強制参加させたのは如月アスミだが、オカルト研の会長の彼にも責任はある。そもそも彼は日向にも同じことをしたのだから。
苛立つ気持ちをおさえて、日向は、暗幕で覆われた窓に視線をやった。
「ひとつだけ思い当たることがあります。
スクエアが始まる寸前に、そこの交差点で玉突き事故が起きましたね。あのとき長月さん、こんなことを言っていました。『先頭の車がちんたら走っていたせいだ』って。なぜあんなことを?」
それがどうした、というふうに長月が片眉を上げる。
「玉突き事故は、後ろの車が前の車に衝突して起こる事故です。例外はあるでしょうが、後ろの車に責任があるケースがほとんどです。なのに、なぜ先頭の車だけを非難したんですか?」
小首をかしげていた如月が「あ」と口元を手で押さえた。長月は面倒くさそうに頭を掻く。
「別に。たいした意味はないよ」
「本当に?」
「ああ」
「でも、赤井さんにとってはそうじゃなかったのかもしれません」
たとえば、と日向は唇に指を当てて、「赤井さん自身か、彼の親しい人が玉突き事故の被害者になった経験があるとしたら? 事故が原因で重傷を負ってしまっていたとしたらどうでしょう」
「そんな偶然があるわけ……」
「ない、とは言い切れませんよね。あなたが何気なく放った言葉のせいで、赤井さんに悪意が生まれたのかもしれない。スクエアを抜けるだけでなく、嫌がらせをしてやろうと」
黙りこくった長月を、如月が心配そうに見つめている。
「長月くん。何か思い当たることがあるの?」
「……去年、兄貴が事故ったんです」
観念したように、長月がぽつりと話し出す。
「俺は助手席に乗っていたから知ってる。兄貴だけが悪くないって。前を走っていた車が、蛇行運転したり変なタイミングでブレーキを踏んだりで、散々ペースを乱された。……なのに、追突した兄貴が100パー悪いってことになって。納得がいかなかったんだ」
「そう」如月は穏やかに受け止めた。「大変だったね」
「三郎を探してきます」
伏し目がちになった長月は、33番教室を静かに出ていった。
日向とふたりきりになった部屋で、如月アスミは困ったように笑ってみせると、教卓の上からスマホを取った。
「はい、これ。お返しするね。大変、約束の時間を過ぎてる」
ディスプレイを起動させると、15:10の表示。ああ、と日向は嘆息する。
結局、午後三時までには間に合わなかったか。
「無理やり付き合わせてごめんなさいね」
「……いいんです、僕は。赤井さんに次会うことがあれば、謝ってあげてください」
如月は微笑したまま、どこか意味ありげで曖昧な表情を浮かべた。
「水無月君。色々ありがとう。助かったわ」
*
デート楽しんできてね、と野巻アカネに見送られた光と日向は、イベントホールを出て、並んで歩いていた。冷房嫌いの光が外に出たがったからだ。夏はエアコンなしでは生きられない、と自負している日向は、強烈な暑さにぐったりする。湿度も増しているようだ。
夕方からの花火大会、大丈夫だろうか。灰色の天を仰いでいると、光が間近に迫ってきていた。
「それで終わりか?」
「はい」
「ほんとうに?」
「はい。一目散に、光さんの舞台を観にかけつけましたよ。遅刻しちゃいましたけど」
全貌を話し終えると、光は、スイッチを切られたかのごとく押し黙ってしまった。
頭の中で情報を整理しているらしい。
これまで数は多くないが、奇妙な謎に直面することがあった。そんな日向の隣には、ワトソン役とまではいかないものの、彼女が大体いたのだ。
その光は何か引っかかりを覚えたらしい。神妙にしていた彼女が、ついに口を開く。
「日向。お前、やったな?」
入念に隠した宝物を見つけられた子供のように、悔しいような嬉しいような表情を、日向は浮かべた。
「重要なのは――あのスクエアは誰のためのものだったかってことです」