S2-4 光、番町皿屋敷
むかしむかし。江戸の番町のとあるお屋敷に、お菊という腰元(貴人のそばに仕えた侍女)がいました。
年の頃は、十六歳。美しい顔立ちに、まだあどけなさが残る可憐な娘でありました。
屋敷にはたくさんの腰元がいましたが、当主の青山播磨の一番のお気に入りはお菊で、「おきく、おきく」といつも可愛がっていました。
初心なお菊は、優しい播磨に、すっかり身も心も許すようになりました。
ところが、二人の幸せは長くは続きませんでした。独り身の播磨に縁談話が持ち込まれたのです。
屋敷には先祖から代々伝わる家宝がありました。十枚一組のお皿で、一枚でも失うと価値を損なってしまいます。
ある日、お菊は、家宝の皿を一枚割ってしまいます。播磨の自分への愛情を確かめるためでした。
皿が九枚しかないことに気づいた播磨は、お菊を許そうとしますが、お菊がわざと皿を割った場面を目撃した下女がそれを告げ口したのです。
すぐさまお菊を問い詰めた播磨は、「おれの愛を疑ったのか」と激怒のあまり、お菊を手討ちにしてしまいました。かわいそうなお菊の死体は古井戸に捨てられました。
それから、というもの、屋敷では毎夜おかしなことが起きるようになったのです……
*
日向は、足音を忍ばせて中ホールに入る。
身をかがめてきょろきょろと見回しながら空席を探した。客席は八割がた埋まっていて、後方に空席がないこともないが、ど真ん中だったり一席しか空いていなかったりで、迷っているうちに最前列まで来てしまった。
もう後戻りはできない。観念して、左端のパイプ椅子に座る。
同時に、暗転していたステージがぱっと明るくなった。小さな埃が舞っている。
間口七メートルもないステージの中央に、フットライトで照らされた木造りの井戸がある。無駄にハイクオリティな出来だった。
もしや、光が造ったのだろうか。父が経営している工務店を継ぐ予定の彼女は、修行のつもりなのか、大工仕事の真似をよくしている。自宅の庭で、トンカチを手に舞台用の大道具を作っている姿を見かけたこともある。
ひゅーどろどろ、とザ・お化け屋敷みたいな効果音が流れて、井戸の底から女が登場した。
結った黒髪は執拗に乱れて、顔が見えないよう前に垂れている。矢絣柄の着物の襟元も乱れ、鎖骨があらわになっていた。雰囲気がずいぶんと違っているが、まちがいない。光だ。
きたきたきた……。日向は、にやけた口元を覆い隠す。自分が目立つのは大の苦手だが、親しい間柄の人間がステージに立つ場面は、愉快でたまらないのだ。
お菊さんは持っていた皿を一枚ずつ掲げて、『いちま~い、にま~い、さんま~い……』と弱々しくも恨めしい声音でカウントしはじめた。それは光の肉声ではなかった。効果音にセリフが吹き込んであるのだ。とどのつまり、口パク。
セリフがない、とは言っていたが、こういうことだったのか。幼稚園の劇じゃないんだから。愉快を通りこして、呆れてしまう日向であった。
お菊さんは九枚目の皿を井戸の中に落として、『一枚たりな~い』とさめざめと泣き出す。
「Hi,かわいらしい娘さん。あなたが落としたのは、このお皿ですかー?」
舞台の上手から、自由の女神の扮装をした赤毛の女が現れた。BGMはアメージンググレース。
野巻アカネである。ぴゅーと指笛が客席から鳴り響いた。なんと固定ファンがいるらしい。女神は、懐から安っぽいプラスチック皿を取り出した。
お菊は無言のまま皿を受け取るが、ぽいっと放り投げてしまう。
「Oh,違いましたか!」
あちゃあ、と額に手を当てる女神。次に出すのは、シルバーの皿。しかし、それも無下に捨てられてしまう。
「なんてわがままな娘! モッテケドロボー!」
女神が片言の日本語で叫び、ゴールドの皿がお目見えした。
金色に輝く皿を手にしたお菊さんはそれをまじまじと見つめていたが、ふいに、垂れた髪の間から鋭い眼光をのぞかせた。
やばい――!
気づいたときには遅かった。光の視力2.0の両眼は、観客席の日向を寸分の違いもなく、正確に捉えている。慌てふためき座高を低くしてうつむくが、無駄な行為でしかなかった。
お菊は、地獄の底から這い上がってきたような肉声を発する。
「み~た~なあ~?」
いや、なんかもうそれ別の混じってるし!
*
「この裏切り者め! 観に来るなっていっただろ」
舞台裏の物置に押し込められるなり、怒鳴られた。
密閉された部屋特有の埃っぽい匂い。物置には、使われなくなったグランドピアノ、卓球台や舞台の書き割りなどが雑然とひしめき合っていた。
「約束を破ってごめんなさい。でも、上手でしたよ」
確信犯なのでおどおどしたりはしない。心にもないお世辞を述べて謝るものの、「うるさいよ!」とさらにお叱りを受けてしまった。
光はむすっとした顔で着物の腰ひもを解く。そのまま前をはだけたので、日向はあんぐりと口を開けた。
「ここで着替える気ですか!?」
「控室は混んでいるからな。誰も入ってこないよう、扉の前で見張っとけ」
「いや、でも僕が――」
いるんだけどな。光を見やるが、すでに下着姿だったので、日向はおとなしく背を向けた。あいかわらず色々な意味で刺激が強い。
気を紛らわすために、劇場前の受付にあった演劇サークルのパンフレットをめくった。パロディ劇の元になった『番町皿屋敷』と『金の斧』のあらすじが紹介されている。
「この『番町皿屋敷』、僕が知っているのとは違う」
日向が馴染みがあるのは、他の腰元に妬まれ無実の罪を着せられたり、誤って割ってしまったりで、お菊がわざと皿を割るパターンは初めて知った。
「岡本綺堂の戯曲を参考にしたって野巻が言ってたけど。何か?」
「いえ。なんていうか……」
言葉に詰まる。結局、感じたことを上手く表現できず、別の話題を口に出した。
「野巻先輩、脚本も描いているんですね。女神を演じるだけでなく」
「青山播磨も野巻が演じたぞ」
「ひとりで何役こなしているんですか」
「だから役者不足なんだよ。野巻の演技力に圧倒されて、皆なかなか相手役になろうとしないし。――最初から観ていなかったのか」
「オカルト研究会に寄っていたら、遅刻しちゃって」
「オカルト研?」
光の語尾が跳ね上がる。裾がふんわりした膝丈のスカートに着替えた彼女は、グランドピアノの屋根の上で着物をたたんでいる。
「まさか、如月アスミって女に誘われたんじゃないだろうな」
「如月さんを知っているんですか」
光は忌々しそうに眉をひそめて、「春、私にしつこくつきまとった剣道部の主将の元カノなんだよ。タイプ的に似てる、って周りにからかわれて不快だった」
「たしかに、ぱっと見た感じは似てますけど、全然違いますよ。光さんのほうが、えっと……わかりやすくて可愛いっていうか」
「なんだよそれは」
頬をふくらませたものの、光は満更でもない表情をした。
日向はごまかすように、にへらと笑う。出逢ってから約一年。けっして一筋縄ではいかない相手ではあるけど、妙に扱いやすいところもある。
着物をたたみ終えた光は、「で?」と上目遣いにたずねてくる。
「何をしていたんだよ。オカルト研で」
「う~ん。どう説明したらいいか」
「私には言えないことをしていたのか」
「そういうわけじゃ……わかりましたよ、ちゃんと話しますから」
こうして、日向はオカルト研究会での不可思議な体験を、光に説明することになったのである。