S2-3 スクエア【後編】
「ああ、それと。携帯電話は預からせてもらいます。電子機器のたぐいは相性が良くないもので」
そう言って、長月は自ら率先して教卓の上にスマホを置いた。如月アスミも彼にならう。おい、と赤井は不満げに、
「重要な電話がかかってきたらどうするんだよ」
日向も同意して、こくこくと頷いた。スマホを手放すのはさすがに抵抗がある。
「着信があれば電話に出てもらって結構です。アプリの通知はオフにしておいてくれるとありがたいな。儀式をスムーズに進行できるようお願いします。お互いのために、ね」
穏やかに諭され、しぶしぶといった様子ながらも赤井は従った。フランケン三郎のねめつけるような視線に耐えられなかったというのが本音だろう。
やれやれ……。演劇サークルは、公演に向けてリハーサルの真っ最中だから、光やアカネから連絡が入ることはなさそうだが。日向はスマホを手放す前にディスプレイを確認した。13:58。一時間後には、観客席で光の幽霊役を拝めているのだろうか。それはそれで後が怖い気がするけども。
一連のやり取りを見届けた三郎は、のっそりとした歩みで教室を出た。見張りの位置についたのだ。模擬店の決まりなのか、前方のドアだけ全開になっており、目隠し替わりに暗幕が下げられている。夜の闇より深い漆黒のそれは遮光率ゼロで、三郎の姿は全く見えなくなる。
さて、と長月が咳ばらいをした。
「今から、この四つの箱に一人ずつ入ってもらいます。本来、スクエアは、目隠しをして不可視性を高めるのが望ましいが、万が一事故が起こって、ケガをさせたら申し訳ないので。
ルールはいたって簡単。スタート地点から、反時計周りにリレーをひたすら続ける。ただし、注意してほしい点がいくつかあります。ひとつ目、背後を振り向かないこと。肩を叩かれたら、すみやかに次の箱へと進み、そこにいる者の肩を叩く。待機している間、箱の外を覗く行為も禁止。ふたつ目、儀式中は原則として言葉を発さないこと。いいですか、何があっても、です。例外として、スタート地点に戻り、“何物”も存在しなかった場合、『スタート』と宣言し、次の周を始めること。質問は?」
誰も挙手しなかった。面倒ごとが早く終わってほしい、そんな気分だった。日向も、たぶん赤井も。
長月の指示に従い、それぞれが位置につく。四角形を上から見下ろした右上、スタート地点に長月。反時計周りに、日向、赤井、如月。
日向はゆるめていたネクタイを、さらにゆるめる。息苦しい。
パネルと床のあいだに十センチほど隙間が空いていて完全な暗闇でないものの、成人男性がひとり入れるスペースしかなく、圧迫感がある。すべての面が展示パネルで囲まれている、と思いきや、うち二面は暗幕が下げられていた。
日向の場合、長月と赤井がいる方角に、進行方向のみカーテン仕様になっている。不可視性がどうのとか言っていたが、スクエアに素人が混じることを想定して、順路をわかりやすくしたのだろう。
空気の密度が増している。いつ始まるのか、じりじりしていると、窓の向こうからけたたましいクラクションの音が響いた。
「なに……なんだ?」
日向が箱から顔を出すと、如月アスミが窓辺に近づき、外を確認しているところだった。
長い髪を揺らして振り向き、「玉突き事故」と教えてくれる。弾かれたように駆け寄った赤井が、「うわあ」と外界の光景に顔をゆがめた。大学に面した環状通の交差点前で、四台の自動車が連なり絡んでいる。パトカーのサイレンが近づいてきた。
「先頭の車がちんたら走っていたせいだろ」
舌打ちして吐き捨てるように放ったのは、長月だ。
ずいぶんな言葉だ、と日向は驚く。これから儀式が始まるところを、邪魔をされたようで面白くなかったのかもしれない。
「そうだ、忘れるところだった」
気を取り直すように呟いて、長月は教卓の上にある自分のスマホを操作した。
すると、スピーカーから音楽が流れ始める。耳に馴染んだ独特のリズムとメロディ。道民のソウルソング・北海盆踊りだった。
日向と赤井が、きょとん、としていると、如月アスミが腰に手を当てて解説してくれる。
「盆踊りの由来は、盆に還ってきた死者を慰め霊界に送り出すため、という説があります」
それはさっき長月から聞いた。
「つまり、盆踊りには霊を引き寄せる魔力があるの。その盆踊りとスクエアを融合させたら最強の降霊術になると思わない? というわけで、スクエア中の移動は盆踊りをしながらお願いね」
盆踊りしながらスクエア。冗談だろ。
吹き出しそうになった日向は、如月と長月が大真面目な顔をしているのを見て、すんでのところでこらえた。本気なのだ。赤井は丸い肩をがっくり落としている。もうどうにでもしてくれ、といわんばかりの投げやりな態度だった。
一時間の辛抱だ。日向は自分にそう言い聞かせて、ふたたび決められた位置につく。
「スタート!」
オカルト研会長が声高に告げて、降霊術がはじまった。
箱と箱の間の距離は二メートルほど。祭りばやしにのって足音が近づいてくる。十秒もたたずに暗幕をめくる気配がして、左肩を叩かれた。
日向、スタート。ああ盆踊りしなきゃ……。歩き始めてから焦るものの肝心の振付けが思い出せず、愕然とする。無理もない。最後に踊ったのは、小学五年生のとき、景品目当てで町内の盆踊り大会に参加して以来だ。フィーリングでえっちらおっちら左右に手を上げているうちに、赤井の箱に着いてしまう。
肉厚な肩に触れると、深いため息とともに赤井が出発した。ちらりと後ろ姿を観察したところ、赤井はだるそうに歩いているだけだ。
盆踊りしないのか? ずるい、と頬を膨らませてから、気づく。
別に監視されているわけじゃないのだ。三郎は廊下で見張り番だし、箱の外を覗く行為は長月自身が禁じていたではないか。
赤井はすでに如月にバトンタッチした模様。興味を引かれて暗幕をめくると、如月は艶やかな髪を振り乱しながら、パーフェクトな振付けで盆踊りを踊っていた。その光景に日向は狂気じみたものを感じる。
今年がスクエアを成功させる最後のチャンス、と言っていたから必死なのだろう。が、大学祭に似つかわしくない、異様な光景であることは間違いない。
如月の悲願の舞も報われず、霊は降りてこなかったらしい。彼女による「スタート」のかけ声で、二周目がスタートした。
順番はひとつズレて、如月→長月→日向→赤井。あれよという間に、長月に再び肩を叩かれ、赤井にバトンタッチした。日向は急に虚しくなった。なんというバカバカしいことになってしまったのだろう。
宇宙好きが高じて、高校では宇宙科学研究会に属している彼だが、オカルトを全く信じていないわけじゃない。でも、この場に霊が降りてくるなんて到底信じられなかった。
もし自分が幽霊だったら、と想像したとき、一方的に呼び出される興味本位な場を設けられるのは不快だろう、と思うからだ。もし自分が幽霊になったら――会いたい人にだけ会えればいい。
「スタート」
赤井の覇気のない声音で、三周目がスタートした。
修士課程の二年生、と如月が彼を紹介していたっけ。いつもは大学院棟で研究にふけっている彼が、こんな目に遭うとは。日向はだんだんと、赤井が哀れに思えてきた。
ここに連れて来られるまで日向と彼は試されていたのだ。お人好しのテストである。オカルト研究会は大学祭が始まってから、スクエアを成立させるため最適な人材を探していたのだろう。そして最終日、いかにも気弱そうで頼みを断るのが苦手そうな、恰好なお人好しを見つけてきたのだ。
長月と如月。並ぶとお似合いの美男美女なのに。
強い絆で結ばれているのは感じられるが、付き合っている風ではない。彼らが妄信しているのは、もっと別の高次元の存在なのだから。神様、意地悪だ。いや、ある意味公平なのか。
日向はスタート地点に戻ってきた。もちろん霊なる者がいるはずもない。四周目がスタートする。
薄暗い教室を通り過ぎる。三郎は用心棒のように見張りを続けているのだろうか。にしても、貴重な部員のひとりを〈見張り役〉に当てるとは勿体ない気もするが。
うん……?
出入口から教室の前方に視線を移した日向は、奇妙なひっかかりを覚えた。――どこかがおかしい。
これまで決して数は多くはないものの、おかしな謎に直面することがあった。そのたびに持って生まれた好奇心を抑えきれず、謎を解明するために発揮してきたわけだが、そんな彼の琴線に何かが触れた。
だが、すぐには違和感の正体は分からない。
薄暗いなか同じ動作を何度も続けていると、感覚がおかしくなってくる。視界が靄がかっているように不鮮明で、足元がふわふわとするような浮遊感に蝕れる。
さらに、日向は別の重要な事柄に気づいた。
スマホを没収されたせいで、時間がわからない。
ふだん身に着けているクロノグラフの腕時計も、この暑さで肌がかぶれてしまい一昨日から外していた。赤井も腕時計はしていなかったはず。
やられたな、と唸る。これじゃあ三時近くになっても、催促のしようがないじゃないか。
「――スタート」
もう何度目かわからないスタートが告げられ、スクエアは続く。もはや盆踊りをする気力は残っていない。
そういえば、教室に掛け時計はなかったか。箱から箱への移動途中で教室をざっと見回し、絶望した。壁もご丁寧に暗幕で覆われていたからだ。
下ろした視界に飛び込んできたのは、教卓に脇に放置されたゴミ袋。
そこで、日向は目をこらす。ぱんぱんに膨らんでいたはずのゴミ袋のかさが半分になっていた。十字に縛られていた紐も解かれている。大きな瞳で何度か瞬きをして、もう一度確かめるが、変化はない。
なぜ……?
薄暗い箱のなかで、胸ポケットを探ると硬い感触に触れる。射的屋で長月が命中させて見事ゲットした皮手帳が、そこにあった。
*
もう何周目かわからないリレーが続いている。
如月アスミは多少の疲れを感じつつあった。張りつめていた緊張が緩んできている。いけない、とみずからを鼓舞して、次の箱へ進む。
その後一周りして、肩を叩かれた如月は、今までと同じく歩を進めようとして、はたと気づいた。
スタートの宣言がされていない。
宣言がないまま、次に自分の番が回ってきたということは――スクエアは成功した……?
驚きと歓喜がじんわりと心に浸透していく。望んでいた瞬間がついに訪れたのだ。
感動にうち震えながらも、彼女は、背後を確認するような愚かな真似はしない。〈降りてきた者〉に敬意を払いつつ、スクエアを続ける。
そして、次の箱にいる、長月雅史の背中を、若干緊張しながら触れた。
ねえ、気づいている――? 私たちのスクエアは成功したのよ。
長月は一瞬硬直したものの、すみやかに箱を出ていった。
もちろん彼も、うかつに振り返るような過ちは犯さない。さらにいくつかの足音が響いて、如月は、また肩をたたかれた。二週目、そして三周目。もはやこの場に異質の存在があることは疑いようもない。
今、私の背後にいるのは何物だろう。赤井ではない気がする。彼に触れられた感触が変わっていた。赤井の手はもっとこう肉厚で温かかった。
スタート地点へと進む。本来は存在しないはずの“五人目”が出現した箱へ。暗幕のカーテンを開いた彼女は、高らかな悲鳴をあげた。
「どうした……!?」
長月が声をかけながら、如月の箱をのぞいて表情を強張らせた。水無月も彼の背後から、うっ、と呻く。
口元を手で覆って固まっている如月アスミの前に――“怪物”がいた。
全身毛むくじゃらで、生気のない両眼でこちらを見上げている。それは真夏のスクエアに突如現れた、“雪男”だった。