S2-1 ウキウキ大学祭
夕方から雨になるらしい。
雲に隠れていた太陽が顔を出すと、一瞬にして体感温度が上がった気がする。午後一時の熱風は湿りを帯びていた。不快指数は九十パーセントを超えていそうだ。
ベンチに膝を抱えて座る雷宮光は、見るからに元気がなかった。
二歳上の彼女は、大学生になってもあまり化粧っけがなく、凝ったおしゃれもしないが、ノースリーブとショートパンツから露出した肌は白々として艶があり、鬱屈そうでも眩しい生命感にあふれている。
「暑いですね」
「……ん」
「公演は何時からでしたっけ?」
「三時からだけど」
浮かない表情で、光は、水無月日向に答える。
どうやら不機嫌の理由は暑さだけじゃなさそうだ。
黒志山大学祭。目の前を行き交う男女は、夏らしく身軽な服装で闊歩している。模擬店の宣伝だろうか、着ぐるみの怪獣やアニメキャラっぽいコスプレ姿の者もちらほら。そんなふざけた格好でも皆、高校二年生の日向より大人びて見えた。実際、年上なのだから当たり前といえば当たり前なのだが。
なんて表現したらいいか、大学生って、キラキラした自由なオーラに満ちている。
制服なんかで来なきゃよかった。日向はタータンチェック柄のネクタイをゆるめた。あのな、とうつむいたまま光。
「観に来なくていいぞ、公演」
「えっ」
そりゃないだろう、と日向は大きな瞳をさらに大きくする。
わざわざ地下鉄を乗り継いでここを訪れたのは、「光が舞台に特別出演するからおいでよ」と野巻アカネに誘われたからなのに。
それにしても意外だった。光が演劇サークルで活動していることである。
高校では剣道一筋で女子剣道部の部長を務めていたから、てっきり大学でも剣道部に入ると思っていたのに。なんでも新入生オリエンテーションで見学に行った際、光を気に入った男の先輩にしつこく追い回されたのが原因らしい。だったら、と演劇一筋のアカネにスカウトされたのだ。
「でも、光さん、大道具担当でしたよね。どうして今回は出演することに?」
「役者の人数が足りなくて……セリフもないし、舞台に立っているだけでいいから、って野巻に無理やり」
「へえ。どんな役なんですか」
真夏にふさわしい涼しげな演目よ、とアカネから聞いていたが、役名までは知らされていなかった。
手の甲にシャーベットが垂れて、日向は、三段重ねのアイスクリームを掬うように舐める。上からバニラ、チョコミント、マスクメロンのシャーベット。
実は、制服でも悪いことばかりじゃない。黒志山大学の学生のおよそ半数が黒志山高校の出身で、店番をしていたOBに「おぉ後輩よ」的なノリで、ダブルをトリプルにサービスしてもらったのだ。ラッキーである。
「光さん?」
光は膝を抱えたまま肩をぷるぷると震わせている。
「……れい」
「はい?」
「……うれい」
「えっ、なんですって?」
「ゆ……れい」
「ごめんなさい、よく聞こえない」
「ゆうれい」
「……ユーレイ?」
「っ、幽霊の役だよ! 番町皿屋敷のパロディ劇の。もうっ、ばかっ!」
「幽霊役。あ……ああ、なるほど。そうなんですか」
最後の『ばか』は明らかに八つ当たりだろう。
日向はようやく不機嫌の理由を悟る。鬼とまで呼ばれた元剣道部部長の光は、何を隠そう、怪談の類が大の苦手なのだ。演目だけでも不愉快だろうに(血なまぐさい小道具とか作ったのだろうか)、よりにもよって幽霊の役を押し付けられるなんて。
頑張ってください、と言葉をかけようとして、日向は絶句した。光の猫みたいな瞳が泣きそうに潤んでいたからだ。
マジで嫌なんだな。いつもは気丈な彼女がこんな風になるなんて……。
「観なくていいからな」
「いや、でも」
「ていうか、観に来るな!」
「……」
「わかったな?」
「了解です」
日向は爽やかな笑顔を返した。
――絶対に観なければならない。サディスティックな決意を胸の内に秘めて。
北国にふさわしくない、うだるような暑さが連日続いており、普段は温厚な美少年である彼も、少しだけやられているらしい。
*
渋りながらもリハーサルに戻る光を見送ると、ひとりになる。
舞台が開演する三時までにはまだ時間がある。かといって、街に出て時間をつぶすほどの余裕はなく、中途半端だ。
一足早いオープンキャンパスに来たと思って、施設を見学しながらぷらぷら歩こうか。
まだ小腹が空いているが、大学祭の後、豊平川沿いの花火大会に行く約束を光としているので無駄遣いはできない。日向はアイスクリームのコーンに巻かれた紙をくしゃりと丸めて、〈一般ごみ〉とマジック書きされたダンボール箱に放った。ナイスイン。
黒志山大学は地下鉄駅と直結した利便性の良さが売りだ。
反面、住宅街に立地しているので敷地が狭い。校舎の目と鼻の先に、交通量の激しい環状通が走っており、北海道大学のような広大な敷地は望むべくもない。
限られたスペースを有効活用するため、駐車場を間引いて、特設ステージが作られている。ちょうど、『ミスター黒志山大学』の結果発表がされているところだ。順位と氏名がアナウンスされるたびに、熱狂的な歓声が起こる。
「ねえ、そこの黒志山高校の君」
人口密度が高い観客席から離れて、ステージをぼんやり眺めていると、横から話しかけられた。
振り向くと、“戦隊モノのヒーロー”がいた。
しかもリーダー格のレッド。170センチの日向よりも、頭ひとつ分背が高い。
お面の下は、すっと伸びた首に、黒Tシャツ、黒ジーンズと黒づくめ。ゴツくもなく、ひょろくもなく、均整のとれた肉体がある。シンプルな服装が素材の良さを引き立たてているようだ。
「よかったら一緒にクレープ食べない? おごるから」
ローバリトンの声も良い。
人差し指と親指でつまんだ封筒を、ひらひらと見せつけられる。表に『ミスター・黒志山大学賞 第三位』とある。ええ? コンテストの真っ最中に、ミスター黒志山大第三位がこんなところに居ていいのか。
日向が首をかしげると同時に、ステージの方から、「長月待てーっ!」とSTAFFのロゴ付Tシャツを着た数人がこちらに走ってきた。
「ちっ、見つかったか。とりあえず逃げよう」
「あの、ちょっと……!」
強引に背中を押されて、校舎内へと流れる人の波に二人で紛れ込んだ。一号棟のエントランスホールでは、軽音楽サークルが軽快なリズムのジャズを奏でている。
「賞品がいいからって、ミスターコンテストに無理やり出場させられたんだ。なのに、模擬店で使えるチケット三千円分って。しけてるよなぁ」
封筒の中身を確認しながらぼやき、戦隊ヒーローのお面を取った。
目が優しくて口角が上がっている。日向とは系統が違うものの、上品で清潔感があり、いかにも女子が好みそうな顔立ちだ。俺は長月、と自己紹介して、
「懐かしいな。その制服。俺も二年前まで着てたよ」
二年前まで、ということは三個上か。光のひとつ上。
長月は、クレープを食べに行こう、と日向の腕を引いてくる。いくらOBとはいえ、ここまで馴れ馴れしくされると引いてしまう。ためらっていると、頼むよ、と手のひらを合わせて懇願される。
「このチケット、俺ひとりじゃ今日中に使い切れないし。君、さっきトリプルのアイスクリームを余裕そうに食べていたから。ええと――」
「水無月です」
「水無月くん。旧暦仲間だ」
水無月は旧暦の六月。長月は九月だったか。長月は日向の顔色を伺うようにして、
「もしかして、誰かと約束してる?」
「はい。三時までは暇ですけど」
ついバカ正直に答えてしまった。
すると、長月は、とても嬉しそうに笑った。目尻にしわができる。念願が叶ったかのような、満足げな笑みだった。
「じゃあ、三時まで付き合ってよ」
このまま付いていってもいいのだろうか。
迷う一方で、悪い人ではなさそうだし、劇の開幕まで時間がつぶせるのは都合がいいな、と考えたりもする。長月は、ESS(英会話研究会)のクレープ屋にチケットを出して、「夕張メロンホイップクリーム二つ」とさっそく注文していた。同じメニューを二つ? ますます断りにくい。
「水無月君は、再来年ここを受験するの?」
「その予定です」
クレープを頬張りながら歩く。
冷房が効いた構内では、フライドポテトやたこ焼きなどホットメニューも販売されている。日向の物欲しげな視線を見逃さず、長月は、二枚目のチケットでフランクフルトを二つ購入した。
「志望学科は経済学部? 俺と一緒だ。丸尾先生のマクロ経済学がおすすめだよ。テスト、ノート持込みOKだし。あと、そこの売店で文房具は買わない方がいい。隣のホームセンターの方が品数も多いし安いから」
構内を案内がてら、軽やかな弁舌で大学生活について教えてくれる。
ちょっと待って、とボクシング同好会の射的屋で立ち止まると、鮮やかな腕前でいくつかの景品を打ち落とした。
「これあげるよ」
景品のひとつ、革張りの手帳を差し出される。台紙がしっかりしていて、ホルダーには携帯用のペンが挿してある。
「もらえないです。高価そうだし」
「俺、スケジュールはアプリで管理してるんだ」
マジシャンのような手さばきで、シャツの胸ポケットに手帳を挿し込まれた。生まれながらに遠慮をさせない技術を身につけているようである。
格好いい。大人だ。大人の男だ。
見た目だけでなく中身もイケメンとは――。いつの間にやら、日向は長月に憧れに近い好感を抱いていた。
振りかえれば今まで、同性の先輩に恵まれなかった。高校まで所属していたバスケ部では下手に女子にモテるせいで妬まれていたし、数少ない交流がある先輩もエキセントリックなキャラクターばかり。
尊敬できる年上の男性に出逢った記憶がない。遅まきながら日向は、同性の先輩もいいな、と感じ始めていた。
「せっかくだから、三階も覗いていこうか」
「はい」
自然な流れで、上のフロアへ。飲食店がメインだった二階までとは雰囲気が違って、静かだ。
華道部や写生サークルの作品展示コーナー。陰陽五行研究会の占いの館、なんてものもある。
あれ……?
日向は違和感を抱く。こころなしか長月の歩みが早くなっているような。
あやしい筝曲が流れ、香の匂いが漂う、占いの館を無言のまま通り過ぎる。口数まで減っている。柔らかな笑みをたたえていた口元は、一文字に結ばれている。
長い廊下を進むと、『33番教室』の前で長月は立ち止まった。看板も掲げられておらず、入口に暗幕がかかっている。ここも何かの模擬店なのだろうか。
「入ろうか」
「……ここって」
迷いのない動作で、長月は暗幕をめくった。
室内の異様な状況に、日向は表情をこわばらせた。
暗い。窓にも暗幕が張ってあるのだ。漆黒の幕のわずかな隙間から午後の陽が射している。長月は日向の後ろに回って、そっと背中を押した。
「大丈夫だから、ね?」
息がかかるほどの近さで囁かれて、うなじがぞくっと粟立つ。
長月はにこやかに微笑んでいる。しかし、その笑顔は外で観たものとまるで違っているように見えた。
暗い室内で、日向は目をこらす。
机と椅子が片付けられすっきりとしたスペースに、電話ボックス大の直方体が四つ、等間隔で置かれている。上から見ると、ちょうど正方形の四つの頂点の位置だ。
「〈オカルト研究会〉にようこそ」
長月が言った。
「俺、会長ね。これから“儀式”を行うのに、水無月君に協力して欲しいんだ。空前絶後な神秘体験を約束するよ」
儀式? 神秘? なんだか怪しい匂いがプンプンしてきたぞ。
額の汗をぬぐって、日向は出入り口をチラ見する。断って逃げてしまおうか。でも、さんざん親切にしてもらった直後で、それができない。後から思い出せば、すべて長月の巧妙な作戦だったに違いなかった。
「儀式って、どんなものですか」
「このセットを目にしても、わからない?」
シンプルで良い、と感心した黒一色の服装は、いまや魔術師のようにしか見えなかった。
長月はかたちの良い唇を開く。
「伝統的な降霊術――“スクエア”だよ」
今回のエピソードは、光が大学入学後の夏(日向は高校二年生)に遡っています。