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壊れているなら、仕組みを見ればいい ~クラス転移でハズレスキル《構造視》を得た俺は、勇者になった幼なじみから離れることにした~

掲載日:2026/08/24


 猫が欠伸をした。


 手のひらに載るほどの、小さな木彫りの猫だった。


 オルゴールの旋律に合わせて背中を持ち上げ、右の前脚を口元へ運ぶ。舐める真似をしてから頬を撫で、もう一度。今度は耳の後ろまで。


 首が傾く。

 背筋を伸ばす。

 最後に、口を大きく開けた。


 もちろん、本物の猫ほど滑らかではない。よく見れば関節の動きには硬さがあるし、木で刻んだ毛並みが柔らかくなるわけでもない。


 それでも会場のどこかから、


「かわいい」


 と声が上がった。


 それにつられるように、何人かが展示台へ近づいてくる。


 東京都中学生創作技術コンテスト。


 真壁透真は人の反応より、猫の腹の下が気になっていた。


 三番目のカムが鳴いている。


 ごく小さな擦過音。会場のざわめきに紛れる程度なのに、一度耳につくと気になって仕方がない。


 軸受けをもう少し削るべきだった。


「真壁君」


 審査員に呼ばれ、顔を上げる。


「はい」


「これは全部、一人で作ったの?」


「はい」


「電子制御は?」


「使ってません」


「じゃあ、この動きは?」


「カムとリンクです。首だけ差動歯車を入れてます」


 男性審査員がケース越しに猫を覗き込んだ。


「どうして猫を?」


 透真は少し考えた。


「近所にいるので」


「飼ってる?」


「いえ。塀の上でよく寝てる猫です」


「なるほど」


「起きたあと、大体いつも顔を洗うんです。でも毎回ちょっとずつ違うんですよ」


 木の猫を指す。


「最初は前脚だけ動かしてたんですけど、それだと全然猫っぽくならなくて」


「へえ」


「脚を上げる前に肩が動くんです。そのあと首が少し逃げて、背中も動く。そこまで繋げないと、ただ棒を振ってるみたいになるんで」


 話し始めると止まらない。

 自覚はあった。


 審査員は嫌な顔をせず、最後まで聞いた。


「猫の動きを、一度ばらして考えたわけだ」


「ばらして……」


 そう言われれば、そうなのかもしれない。


「普通なら猫を見て『かわいいな』で終わるんだけどね」


「ああ」


「君は違う」


「かわいいとは思ってますよ」


 審査員が笑った。


 周囲からも笑いが漏れた。


 透真も少し笑った。


 その頃はまだ、笑い声を聞くたびに誰が笑われているのか確かめる必要はなかった。


◇


『東京都知事賞――真壁透真君』


 自分の名前だと分かるまで、一拍かかった。


 横から肩を叩かれる。


「お前、マジですげえじゃん!」


 神代晃だった。


「痛いって」


「都知事賞だぞ?」


「聞こえてた」


「もっと喜べよ」


「喜んでる」


「その顔で?」


 晃が笑う。


 昔から何でもできる男だった。


 成績は学年上位。足も速い。サッカーをやらせてもバスケをやらせても、すぐ人並み以上にこなした。顔も整っていて、教師にも同級生にも受けがいい。


 晃が中心に立とうとしなくても、気づけば人が集まっている。


 透真にとって、それは幼い頃から当たり前の光景だった。


「俺も優秀賞なんだけどな」


 晃が賞状を軽く振る。


「十分すごいだろ」


「でも今回は、お前の方が上」


「今回はな」


「今回は、ねえ」


 笑いながら、晃は猫のオルゴールを持ち上げた。


「これ、俺にも一個作って」


「嫌だ」


「即答かよ」


「同じの二個作るの面倒くさい」


「お前、そういうとこあるよな」


 二人で笑った。


 数か月後。


 廊下で初めて足を引っかけられた。


◇


 最初は悪ふざけだと思った。


 次は筆箱がなくなった。

 その次は体操服。


 一人が笑うと、二人目も笑った。やがて教室の中に、真壁透真なら多少何をしても構わない、という空気ができた。


 階段では、背中に当たった手の感触だけが残った。


 踊り場から振り返ったときには、誰が押したのか分からなかった。


 胴上げされた日は、四度目で誰も受け止めなかった。


 背中から床へ落ち、肺から空気が抜けた。声を出そうとしても、口だけが開いた。


 プールでは何人かに頭を押さえられた。


 実際に何秒だったのかは分からない。水の中では、三分にも十分にも感じた。


 肺が勝手に息を吸おうとする。

 鼻から水が入る。

 水面の向こうで人の顔が揺れていた。


 誰かが笑っていた。


 カッターの刃が腕を走ったとき、やった生徒は赤い筋を見て、


『うわ、切れちゃった』


 と笑った。


 晃は一度も手を出さなかった。


 むしろ火野たちを、


『さすがにやりすぎだろ』


 と注意することさえあった。


『俺は透真の味方だから』


 そう言われて安心した時期もある。


 教師も晃を信用した。


 透真自身が、一番長く信用していた。


 通っていたのが、中等部から高等部まで内部進学する生徒の多い中高一貫校だったのもよくなかった。


 学年が上がっても、顔ぶれの大半は変わらない。


 逃げ場も、ほとんど変わらなかった。


◇


 それから数年。


 高校二年になっても、教室の形は大して変わらなかった。


 五時間目の現代文が始まる直前。


 神代晃の席の周りには、いつものように男女が何人か集まっていた。


「晃、プリント後ろ」


「あ、ごめん」


 一ノ瀬玲奈が、晃の机に溜まっていたプリントを抜き取った。


「また止めてたでしょ」


「完全に忘れてた」


「知ってる」


 一ノ瀬が笑う。


 晃の隣でそうしているのが、ごく普通に見える。


 中等部の頃、一ノ瀬は透真にもよく話しかけてきた。


『それ、真壁が作ったの?』


 猫のオルゴールを覗き込まれたこともある。


 最近は、必要がなければ話さない。


 プリントは普通に回ってくる。

 班が同じなら会話もする。


 それ以上はない。


「真壁」


 後ろから火野大河の声がした。


 肩がわずかに強張った。


「何」


「これ捨てといて」


 丸めた紙が机へ放られる。


 透真は紙を見た。


「自分で捨てろよ」


「ゴミ箱そっちじゃん」


「お前もそっちから帰るだろ」


「細けえな」


 火野が笑った。


「大河、自分で捨てなよ」


 二列向こうから小宮千紗が言った。


 火野がそちらを見る。


「何、小宮。真壁の味方?」


「いや、そうじゃなくて」


 小宮の声が少しだけ速くなる。


「そのくらい自分でやればってだけ」


「同じじゃん」


「違うって」


 隣にいた女子が笑う。


 小宮もつられるように笑って、それ以上は言わなかった。


 以前にも、似たようなことがあった。


 火野たちが透真の鞄を投げていたとき、


『それ、ちょっと酷くない?』


 と小宮が言った。


『何、小宮。真壁の味方?』


 返された言葉まで、今と同じだった。


 あのときも小宮は言い直して、最後には周りと一緒に少し笑った。


 透真は机の上の紙を掴んだ。


 立ち上がろうとして、肘が消しゴムに当たる。


 床へ落ちた。


 転がった先で、靴が止まる。


 雨宮澪が拾った。


「落ちた」


「ありがと、雨宮さん」


「うん」


 それだけ言って、雨宮は自分の席へ戻った。


 昔から、だいたいそんな感じだった。


 親しかったわけではない。

 二人で遊んだこともない。

 いじめを止めてもらったこともなかった。


 ただ、机から筆記具が全部消えた日には、シャープペンを一本置いていった。


『これ』


『いいの?』


『二本あるから』


『返す』


『どっちでもいい』


 あの日も、それだけだった。


 周囲の態度が少しずつ変わっていく中で、雨宮はあまり変わらなかった。


 だから覚えている。


「席つけー」


 教師が入ってきた。


 晃の周りから人が散る。


 一ノ瀬も席へ戻り、小宮は慌ててスマートフォンを机の中へ押し込んだ。


 火野が放った紙は、結局透真がゴミ箱へ入れた。


 教師が黒板に白い文字を書く。


『羅生門』


 最後の一画を書き終えたところで、教室の床が光った。


 誰かが悲鳴を上げた。


 机も椅子も白い光へ沈む。


 そして――生徒三十一人が、教室から消えた。


◇


「――《構造視》?」


 白い法衣を着た老人の声で、透真は我に返った。


 頭上に青白い文字が浮かんでいる。


《構造視》

 物質および魔力構造を視認する。


 説明はそれだけだった。


 一時間ほど前まで東京の教室にいた。


 今いるのは、巨大な石柱が並ぶ神殿だった。


 甲冑姿の兵士。

 法衣の神官。

 そして、見るからに高価そうな服を着た王族。


『皆様は我が国を救うため、異界より召喚された勇者です』


 第一王子ルーカス・アルベルトはそう説明した。


 魔王。

 侵攻。

 崩壊寸前の国境地域。

 勇者召喚。


 ゲームなら聞き流せる単語が、ひとつずつ現実として並べられていった。


「記録にはございます」


 神官が古い本をめくる。


「過去にも数例、《構造視》の保持者は確認されております」


 少しだけ期待する。


「主として建築、工芸、魔導具修理などに従事した者ですね」


 期待した分だけ肩透かしだった。


 ルーカスが尋ねる。


「戦闘への転用は?」


「ほぼ期待できないかと」


「そうか」


 第一王子は透真を侮辱しなかった。


 落胆した顔すらしない。


 ただ隣の文官へ何かを告げ、文官が名簿に印をつけた。


 後で知った。


 戦闘要員と支援要員を分ける記号だった。


「ぷっ」


 背後から漏れた笑い声に、身体が先に反応した。


 肩が強張る。


 舌の付け根が乾いた。


「真壁、お前さあ」


 火野大河。


「異世界まで来て工作係かよ」


 数人が笑う。


 ほんの数人だった。


 だから余計に嫌だった。


 最初も、そのくらいから始まった。


 透真の視線は無意識に火野の手へ落ちた。


 距離は四メートルほど。

 背後に壁。

 右側は開いている。

 左には雨宮。


 逃げ道を探している自分に気づき、奥歯を噛んだ。


 世界が変わっても、身体は勝手に昔を思い出す。


「やめろよ、大河」


 晃の声がした。


 今度は別の意味で背中が冷えた。


「別に悪い能力じゃないだろ」


「いや、でも戦えねえんだぞ?」


「使い方次第だろ。な、透真」


 人のいい笑顔。


「……そうだな」


 それだけ返した。


 横から雨宮が小声で言う。


「顔色悪い」


「平気」


「そう」


「それ以上聞かないんだ」


「平気って言ってる人に、それ以上聞いても面倒だから」


「正しい」


 神官が次の名前を呼んだ。


「神代晃様」


 晃が水晶へ手を置く。


 白い光が神殿いっぱいに広がった。


《天命》

 望む結果へ至る因果を引き寄せる。


 神官たちが息を呑む。


「神級……!」


「三百年前の聖王と同系統だ」


 晃自身が一番困惑しているようだった。


「そんなにすごいんですか?」


 そこまで昔のままだった。


 晃は自分の優秀さを誇らない。


 何でもできることが普通だから、特別だという感覚が薄い。


「すげえじゃん、晃!」


 火野が真っ先に駆け寄った。


 それをきっかけに、次々とクラスメイトが集まっていく。


「神級って、どのくらいすごいの?」


 一ノ瀬もその輪の中にいた。


「俺に聞かれても分かんないって」


「でも絶対一番すごいやつじゃん」


「そうなのかな」


「その反応がもう腹立つ」


 一ノ瀬が笑い、周囲も笑った。


 見慣れた光景だった。


 晃のところに人が集まる。


 一ノ瀬も、自然にそこにいる。


 少し離れたところにいた小宮と目が合った。


 小宮の視線が透真から、その隣の雨宮へ移る。


「千紗、こっち!」


 友人が呼んだ。


「あ、うん」


 一瞬だけ足を止め、それから小宮はそちらへ行った。


 透真は目を戻した。


 驚くようなことではない。


「雨宮澪様」


 神官に呼ばれ、雨宮が前へ出る。


 水晶に手を置いた。


《記憶宮》

 一度見聞きした情報を、高い精度で保持し、必要に応じて再現する。


「戦闘能力は?」


 ルーカスが尋ねた。


「ございません。ですが記録、資料整理、地図や術式の記憶などには有用かと」


「なるほど」


 文官が名簿へ印をつける。


「そっちも地味だな」


 火野が言った。


「そうだね」


 雨宮はそれだけ返した。


 鑑定を終えると、晃たちの輪へは行かなかった。


 元いた場所へ戻ってくる。


 透真の隣だった。


「行かないの?」


「どこに?」


「あっち」


 晃の周囲を目で示す。


「別に話すことないし」


「そう」


「真壁は?」


「もっとない」


「じゃあ、ここでいいね」


「何が?」


「場所」


 雨宮はそれ以上説明しなかった。


 透真も聞かなかった。


◇


 《構造視》は、本当に弱かった。


 少なくとも最初は。


「見えるか?」


 王立魔導工房の技師長、ガルド・エルメロが机に金属球を置いた。


「線が」


「何の線だ」


「分かりません」


「なら、見えておらんのと同じじゃ」


「まあ、そうなりますよね」


 ガルドが白い眉を寄せた。


「少しくらい落ち込め」


「知らないもの見ても、分からないのは普通かなと」


「妙なところで冷静な小僧じゃな」


 金属球は簡単な魔導灯だった。


 ガルドが外殻を開き、内部を示す。


「これが魔力導線。こちらが保持層。ここが変換部」


 説明を聞くたび、それまでただの光だったものが別の形に見えてくる。


「ここ」


 透真は一点を指した。


「何じゃ」


「途中で切れてます」


 ガルドが工具を差し込んだ。


 数分後。


「……断線しとる」


「ですよね」


「その言い方が腹立つのう」


 こつん、と頭を小突かれた。


 痛い。


 けれど、身体は強張らなかった。


 それに気づいて、透真自身が少し驚いた。


 最近は誰かが背後に立つと、まず手を確認する。


 肩に触れられる前に身構える。


 ガルド相手には、いつの間にかそれをしなくなっていた。


 全部の人間が同じではない。


 そんな当たり前のことを、異世界で一から覚え直している気がした。


 戦闘適性の低かった雨宮も、別の部署へ回された。


 《記憶宮》の性質を知った文官が、彼女を王立魔導工房の記録補助として借り受けたのだ。


 古い設計図。

 修繕記録。

 魔導具の仕様書。


 一度見ればほぼ正確に再現できる雨宮は、本人の地味な自己評価とは裏腹に、工房では早々に重宝され始めた。


「覚えてるか?」


 ガルドが古い図面を一度見せてから隠す。


「右上の第三補助導管だけ、最新版で二セル幅が広がってます」


「……便利じゃのう」


「記録係ですから」


「胸を張れ。わしは昨日、自分で置いた工具の場所を忘れた」


「それは別の問題だと思います」


 透真は作業台の向こうで笑った。


◇


 ガルドの工房へ通い始めて十日。


 火野の《剛鬼》は早くも戦闘訓練で頭角を現した。


 筋力と耐久力を大幅に引き上げる、分かりやすく強力な能力。


 訓練用の大剣を片手で振り回し、正規騎士を吹き飛ばす。


 晃はさらに上だった。


 剣を握れば数日で型を覚え、魔法を習えば誰より早く成功する。


 森で訓練をすれば希少薬草を見つけ、帰り道には古代硬貨まで拾ったという。


「完全に主人公じゃん」


 誰かが笑いながら言っていた。


 たぶん、その通りなのだろう。


 物語なら、主人公は神代晃だ。


 なら火野は、その隣で剣を振るう戦士だろう。


 強くて、単純で、主人公の前に立つ敵を真正面から叩き潰す。


 一ノ瀬さんなら、傷ついた仲間を支える役にでもなるのかもしれない。


 そう考えると、妙に収まりがよかった。


 透真は手元へ目を落とした。


 作業台の上には、分解途中の湯沸かし器。


 自分はたぶん、勇者の物語の外側で、壊れたものを直している。


 それでよかった。


 魔導具は陰口を言わない。


 壊れるなら、何かが壊れている。


 部品が摩耗した。

 導線が焼けた。

 術式の接続が間違っている。


 原因を探せばいい。


 人間より、ずっと話が早い。


◇


 王城西棟の魔力供給炉に異常を見つけたのは偶然だった。


「ガルドさん」


「なんじゃ」


「これ、変じゃないですか」


 壁の中を走る導線を《構造視》で追う。


 淡い光の流れ。


 一本だけ、脈動の周期がずれている。


「どれじゃ」


「西から入ってる主線です」


 ガルドの表情が変わった。


 二人で地下へ降りる。


 巨大な円筒型の魔導機関。


 王都全体を守る大結界にも魔力を供給している設備だった。


 調べても、透真に分かったのは正常ではないということだけ。


「この供給炉を使う明日の転移門、止めた方がよくないですか?」


「わしもそう思う」


 報告は王宮へ上がった。


 会議には第一王子、騎士団、神官、ガルド。


 そして勇者代表として扱われ始めていた晃も呼ばれた。


「僕は問題ないと思います」


 晃が言った。


 ガルドが鼻を鳴らす。


「根拠は?」


「《天命》を得てから、危ないときは何となく分かるんです。今回は嫌な感じはしません」


 第一王子が腕を組む。


「遠征を延期すれば、第七国境砦への援軍が最低三日は遅れる」


「じゃが供給炉が落ちれば――」


「透真」


 晃がこちらを見る。


「どれくらい危ない?」


「分からない」


「分からない?」


「異常なのは分かる。でも俺、この世界の魔導炉を十日しか勉強してない」


 明日壊れるのか、一か月持つのか。


 そこまでは判断できない。


「そっか」


 晃が困ったように笑う。


「透真は昔から慎重なんです。何か作るときも何度も確認するタイプで。そこは長所だと思うんですけど」


 透真は口を開きかけた。


 言葉が出なかった。


 一つも嘘を言われていない。


「今回は、少し心配しすぎてるのかもしれません」


 否定しようとすれば、自分が神経質ではないことから証明しなければならなくなる。


 供給炉の話をしていたはずなのに、いつの間にか真壁透真が信用できる人間かどうかという話にすり替わっていた。


「供給炉の監視を増員する」


 第一王子が決定した。


「遠征は予定通り行う」


 会議のあと、晃は廊下で透真の肩を軽く叩いた。


 身体が跳ねそうになるのを、ぎりぎりで抑えた。


「大丈夫だって」


 透真は返事をしなかった。


◇


 翌日、供給炉は破裂した。


 地下から王城全体を突き上げるような衝撃が走り、魔導灯が一斉に消えた。


「透真!」


 ガルドと一緒に地下へ走る。


 供給炉の外殻には亀裂が走り、白い魔力が蒸気のように噴き出していた。


「止められますか?」


「止めたら大結界まで落ちるわ!」


「じゃあ逃がします!」


「どこへじゃ?!」


 《構造視》。


 視界を光が埋める。


 供給。

 変換。

 分配。


 知らない構造が多すぎて頭の奥が焼けるように痛んだ。


 全部を一度に理解しようとしても無理だ。


 透真は流れを一つずつ追った。


「第三分配管!」


「ほとんど使っておらんぞ!」


「だから空いてるんです。第二から逃がせますか?」


「先は旧廃棄塔じゃ!」


「雨宮さん!」


 避難誘導と工房資料の搬出を手伝っていた雨宮が振り返った。


「昨日見た配管図、覚えてる?」


「覚えてる」


「第三分配管の先」


 雨宮は一度だけ目を閉じた。


「西二番分岐から旧貯蔵庫。そこから廃棄塔」


「許容量」


「毎分二百四十」


 ガルドが弁へ飛びつく。


 三人で魔力を迂回させた。


 供給炉の鳴動が少しずつ弱まり、大結界は辛うじて維持された。


 死者は出なかった。


 負傷者十七名。


 王城西棟は半壊した。


 その日の夜。


 透真は事情聴取を受けた。


「事前に異常を把握していたのか?」


「はい」


「供給炉にも接触しているな」


「ガルドさんと点検しました」


「事故後、規定にない経路へ魔力を流したそうだが?」


「そうしないと被害が広がったので」


 質問自体は正当だった。


 それでも掌には汗が滲んだ。


 部屋を出たところで、廊下の向こうから声が聞こえた。


「いや、俺は透真が何かしたとは思ってません」


 足が止まった。


 晃だ。


「ただ、前の日から壊れるって言ってたのは事実ですし、設備に触っていたのも事実なんですよね?」


「神代殿は、真壁殿に故意があった可能性を?」


「そんなこと言ってませんよ」


 苦笑まじりの声だった。


「ただ、きちんと調べた方が透真のためにもなると思います」


 階段から落ちた日の保健室。


 教師の前。


『俺は透真が嘘ついてるなんて思ってません。でも、誰が押したか本人も見てないんですよね?』


 プールのあとも。


『ふざけてただけらしいですけど、やりすぎですよね?』


 晃はいつも透真を否定しなかった。


 ただ、誰も透真を信じ切れない形だけを残した。


 握っていた拳を、透真はゆっくり開いた。


 もう最後まで付き合う必要はない。


◇


「王都を離れたい?」


 翌朝、ガルドは露骨に嫌な顔をした。


「はい」


「勇者は一応、国家管理じゃぞ。黙って門から出て『旅に出ます』とはいかん」


「ですよね」


「それと、事故の一次調査が今朝出た」


 透真は顔を上げた。


「供給炉の破損は、お前が触る以前から進行していた。事故後の操作も、結果だけ見れば被害を抑えとる」


「じゃあ」


「現時点で、お前が事故を起こしたとする証拠はない。正式調査は続くがな」


 ガルドはそこで一本指を立てた。


「国外へ出るのは禁止。呼び出しがあれば戻れ。それが条件じゃ」


「十分です」


「ただ、お前は既に戦闘要員から外されとる」


 机の引き出しから別の書類を引っ張り出す。


「そして、生産・技術系勇者には王立魔導工房の現地調査資格を出せる。わしの助手という扱いなら、王国内の地方へ出せる」


「そんな制度あるんですか」


「異界から三十一人も呼びつけて、全員に剣を持たせるほどこの国も馬鹿ではない」


 ガルドは申請書を投げて寄越した。


「第二王女殿下も今回の事故で技術系勇者の運用を見直すと言っとった。今なら話は通る」


「ありがとうございます」


「礼は戻ってきてから言え」


「戻る前提なんですね」


「勉強を途中で放り出す奴は嫌いじゃ」


 正式な王都外活動許可は、その日の夕方には下りた。


 城門へ行くと、雨宮が荷物を持って待っていた。


「何してるの、雨宮さん」


「現地調査」


「誰の」


「王立魔導工房の」


「いつ申請した?」


「ガルドさんに頼んだ」


「俺、誘ってないけど」


「知ってる」


 二人で門を抜ける。


 しばらく歩いたところで、雨宮が言った。


「学校で」


「うん」


「私、助けなかったから」


 透真は足を止めた。


「何を?」


「分かってるでしょ」


 雨宮は前を向いたままだった。


「火野たちのこと。全部は知らなかった。プールのことも後から聞いた」


「そう」


「でも、孤立してたのは知ってた」


 少しだけ声が低くなる。


「あなたが狙われてる間、自分じゃなくてよかったって思ったこともある」


 透真は何も言わなかった。


「最低だと思う?」


「それを俺に決めさせるの?」


 雨宮がこちらを見る。


「……そういう返しするんだ」


「助けてくれなかったのは知ってる」


「うん」


「でも、一緒になって笑わなかったのも知ってる」


「それで?」


「同じとは思ってない」


「許したってこと?」


「許すとか許さないとか、俺が決める話なのかなら」


 雨宮はしばらく黙っていた。


「面倒くさい」


「そっちから話したんだろ」


「そうだった」


 また歩き出す。


 しばらくして、


「でも、今の答えでいい」


 と雨宮が言った。


◇


 ガルドから最初の調査先として指定されたのが、水車都市リベルタだった。


 王都から二日。


 国内でも有数の水利都市で、三基ある巨大魔導水車の停止によって生活基盤そのものが麻痺しかけているという。


「いきなり大物じゃない?」


 馬車の中で雨宮が言った。


「俺も思った」


「ガルドさん、期待してるのかな」


「人手が足りないだけじゃない?」


「真壁らしい」


「何が?」


「そういうところ」


 意味を聞く前に、遠くに巨大な水車が見えた。


 どれも止まっている。


 水車都市リベルタは、死にかけていた。


 町の中心を流れる水路は細り、三基の巨大水車は全て停止している。


 水車は粉を挽くだけのものではない。


 水流を魔力へ変換し、市内へ供給する都市設備だった。


 それが止まり、揚水機も工房も街灯も半分が機能していない。


「あんたが勇者?」


 宿屋の主人が透真を見た。


「一応」


「剣は?」


「使えません」


「魔法は?」


「生活魔法を少し」


「何ができる?」


「壊れてるものを見れます」


 主人の顔から期待が消えた。


「……そうか」


「はい」


 分かりやすくて助かった。


◇


 三日後。


 透真は巨大水車の内部にいた。


「そこ滑る」


 下から雨宮が言う。


「分かってる」


「昨日落ちた」


「今日は落ちない」


「昨日も聞いた」


「覚えなくていいところまで覚えるな」


 地元の技師たちは、最初は十七歳の異邦人を相手にしなかった。


 副水路の亀裂を見つけ、壊れた揚水機を一台修理したあたりから、ようやく工具を触らせてもらえるようになった。


 水車本体には目立った故障がない。


 軸も歯車も生きている。


 術式にも断線はなかった。


 それでも動かない。


「雨宮さん。七年前からの整備記録」


「また全部?」


「主軸関係だけ」


「三年前の第四月から変換効率が毎月〇・二から〇・四パーセントずつ低下。去年の第五月に一度大幅回復。その後また低下」


「回復したときは?」


「主軸交換。地下水門清掃」


「地下水門か」


 透真は歯車へ目をやった。


 猫の最初の試作品を思い出す。


 前脚は正しく動いた。

 首も。

 背中も。


 それなのに一続きにすると、生き物に見えなかった。


 直したのは部品ではなく、動き出す順番だった。


「地下行こう」


「見つかった?」


「たぶん」


◇


 地下水門には三本の流路があった。


 《構造視》を使う。


 水の流れ。

 魔力の流れ。


 二つが噛み合っていない。


「周期がずれてる」


「何と何が?」


「水車が力を受ける瞬間と、魔力変換が始まる瞬間」


「それで止まる?」


「たぶん」


「たぶん?」


「現物で試すしかない」


 調整弁を半回転。


 補助導管を閉じる。


 雨宮に昔の設定値を読み上げてもらう。


 地上から、ぎし、と音がした。


 水車が一度だけ回り――止まった。


「……駄目?」


「待って」


 魔力の戻りが予想より速い。


「去年交換した主軸の型番」


「第二種重軸。旧型より七パーセント重い」


「それだ」


 透真は舌打ちした。


 周期しか見ていなかった。


 主軸が重くなれば、回転の立ち上がりも遅れる。


 水門の開度から調整し直す。


 二度目。


 ぎし。


 一回。

 二回。


 巨大な羽根が水を掴んだ。


 歯車が噛み合い、低い振動が地下まで伝わってくる。


 上から歓声が降ってきた。


「動いた」


「今度は」


「最初、外したね」


「言わなくていい」


「《構造視》でも間違えるんだ」


「見えるだけだからな」


 透真は回転する軸を見上げた。


 得た情報から何を考えるかまでは、能力がやってくれない。


 それでいい。


◇


 地上へ戻ると、町の人間が集まってきた。


「ありがとう!」


 老人に両手を握られる。


「いや……直ったんで」


「見りゃ分かる!」


 周囲に笑いが起こる。


 透真もつられて笑った。


 肩は固まらなかった。


 帰り道、雨宮が言った。


「賞取ったときと同じ顔」


「何が?」


「今の顔」


「覚えてるの?」


「校内に写真貼ってあったから」


「ああ」


「猫、かわいかった」


「技術面の感想は?」


「ない」


「即答だな」


◇


 翌日、勇者隊がリベルタへ入った。


 北の森に大型魔獣が現れ、討伐に派遣されたらしい。


 広場で火野大河と目が合った。


「……真壁?」


 名前を呼ばれた瞬間、背中が張った。


 右手。

 左手。

 腰の剣。

 火野との距離。

 周囲の人数。


 一通り確認してから、自分がやっていることに気づいた。


「久しぶり」


「お前、こんなとこで何してんの?」


「水車直してた」


「水車?」


「うん」


 火野が吹き出した。


「マジかよ。異世界まで来て修理屋かよ」


 後ろで数人が笑う。


 喉が少し狭くなる。


「トーマ!」


 鍛冶屋が駆けてきた。


「西区画の揚水機、また止まった!」


「昨日の?」


「二号だ!」


「あとで見る」


「頼む!」


 そこで勇者隊に気づく。


「おお、勇者様方か」


「北の化け物なら俺たちが片づけるよ」


 火野が胸を張った。


「そいつはありがたい。こっちはトーマのおかげで水が戻ったところでな」


「……こいつが?」


「三基全部だ」


 火野の笑顔が一瞬だけ消えた。


「へえ」


「じゃあ、俺は揚水機見てくる」


「おい」


「何?」


「久しぶりに会ったんだぞ」


「そうだな」


「それだけ?」


 透真は一瞬考え、


「じゃあ、また」


 とだけ答えた。


 火野の眉間に皺が寄った。


◇


 大型魔獣が町へ逃げ込んできたのは夕方だった。


 勇者隊は森で仕留めきれなかったらしい。


 熊に似た四足獣。


 肩まで三メートルを超え、背中を灰色の甲殻が覆っている。


「避難しろ!」


 騎士が叫ぶ。


 火野が前へ出た。


「今度こそ俺がやる!」


《剛鬼》。


 踏み込んだ石畳が砕ける。


 訓練ではなく、今度は刃のついた大剣だった。


 一撃。


 魔獣の頭が横へ弾ける。


 二撃。

 三撃。


 甲殻に亀裂が走った。


 強い。


 透真には到底できない。


 魔獣が突進する。


 火野は真正面から受け止めた。


 人間一人が三メートルの怪物を押し返す。


 透真は別のものを見た。


 骨格。

 筋肉。

 甲殻。


 右前脚に負荷が集中している。


「火野!」


「あ?」


「左から押せ! 右前脚に負担が寄ってる!」


「命令すんな!」


「そこ崩せる!」


 魔獣が吠えた。


「ち!分かったよ!」


 火野が左側から大剣を叩き込む。


 魔獣が右へ体重を逃がした。


「雨宮さん! 南水門!」


「開ける!」


 水が排水路から溢れ、石畳を濡らす。


 魔獣の右前脚が滑る。


「今!」


 火野が大剣を振り下ろした。


 透真は倒れると思った。


 だが、倒れない。


 魔獣は前脚を大きく捻り、火野を弾き飛ばした。


「大河!」


 騎士が叫ぶ。


 読み違えた。


 右脚が弱いのではない。


 巨大な甲殻を支えるため、そこへ意図的に負荷を集めている。


 脚が滑った瞬間、体内の別の筋肉が噛み合った。


「透真!」


「分かってる!」


 前脚だけを見ていた。


 肩。

 背中。

 反対側の脚。


 そこまで繋げる。


「火野!」


「あぁ!?今度は何だよ!」


「右を壊すんじゃない! 右に体重を寄せろ!」


「意味分かんねえ!」


「倒れるのは左だ!」


 火野が大剣を構え直した。


「また外したらぶっ殺す!」


「もう一回外してる!」


「知ってるわ!」


 火野が笑った。


 ほんの数秒だけ、昔のことが頭から消えた。


 透真が指示し、雨宮が水門を調整する。


 魔獣を右へ誘導。


 補助筋が働き、右側で巨体を支える。


 その瞬間だけ、左肩の支持が薄くなる。


「今!」


 火野の大剣が左肩へ叩き込まれた。


 巨体が崩れる。


 甲殻の隙間が開いた。


「首の下!」


「おらぁっ!」


 刃が喉元へ入る。


 魔獣が大きくのけぞった。


 一歩。

 二歩。


 巨体が石畳を抉りながら倒れ込む。


 地面が揺れた。


 それきり、動かなかった。


 一拍遅れて、町から歓声が上がった。


「やった!」


「勇者様が倒したぞ!」


 火野が荒い息を吐きながら、大剣を肩へ担ぐ。


「っしゃあ!」


 その声にも歓声が返った。


 強い。


 実際、強かった。


 透真が崩せる場所を見つけても、最後にあの甲殻を割り、喉へ刃を通せる力がなければ意味がない。


 ただ、透真が最初に見たのは火野ではなかった。


 横を流れる水路へ目を向ける。


 南水門を開いたことで流量が増えている。


 石橋。

 橋脚。

 水路壁。


 《構造視》を通す。


 目立った亀裂はない。


「雨宮さん、南水門戻せる?」


「もう戻してる」


「ありがとう」


 そこでようやく息を吐いた。


「おい、真壁」


 呼ばれて振り向く。


 火野が立っていた。


「何」


「倒したぞ」


「うん。見てた」


「……」


 なぜか火野はそのまま黙った。


 透真は少し考える。


「すごかったと思う」


「思うって何だよ」


「俺じゃあれは斬れないし」


 本心だった。


 火野でなければ、最後の一撃は成立しなかった。


「そ、そうだろ」


「うん」


「トーマ!」


 町の技師が駆けてきた。


「さっきの何だったんだ? 右へ寄せろとか左だとか!」


「最初の読みは外しました」


「でも最後はお前が見つけたんだろ?」


「見つけただけです」


 透真は火野を見る。


「倒したのは火野です」


「おう」


 火野が胸を張った。


 技師は大きく笑う。


「じゃあ二人で倒したんじゃねえか!」


「いや――」


「勇者様の馬鹿力と、トーマの目が揃ったから勝てたんだろ!」


「誰が馬鹿力だ!」


 周囲から笑いが起きる。


 火野も笑った。


 けれど、すぐに口を閉じる。


 透真を見る。


 何か言いかけて、やめた。


「……何?」


「別に」


 目を逸らされる。


 透真には、その反応の意味がよく分からなかった。


 魔獣との戦いでは、何度も火野へ声を飛ばした。


 火野は文句を言いながらも、その通りに動いた。


 昔なら、そんなやり取りはなかった。


 むしろ透真の方が、火野の声や顔色を気にしていた。


 何が引っかかっているのかまでは分からない。


 わざわざ聞く気にもならなかった。


「火野」


「あ?」


「肩」


「肩?」


「甲殻の破片、刺さってる」


 防具の隙間に、灰色の小さな欠片が引っかかっていた。


「ああ、これか」


「浅そうだから平気だと思う」


「……おう」


「じゃあ俺、石橋もう一回見てくる」


「は?」


 透真は歩き出した。


「おい」


 背後から呼ばれる。


 聞こえてはいた。


 ただ、用があるなら向こうから言うだろうと思って、そのまま歩いた。


「……何なんだよ」


 火野の声が、歓声の向こうで小さく聞こえた。


◇


 夜には広場に長机が並べられた。


 魔獣討伐と水車復旧をまとめて祝う宴になったらしい。


「結局、俺が倒したんだけどな」


 向かいの席で火野が言った。


「そうだな」


 透真は皿の煮込みを食べながら答えた。


 しばらくすると、


「最後、首斬ったの俺だからな」


「見てたよ」


 また少しして、


「お前の作戦、俺いなかったら無理だったろ」


「そうだな」


 三度目だった。


 さすがに顔を上げる。


「何?」


「……何が」


「さっきから同じこと言ってるから」


 火野の眉が動いた。


「別に」


「実際、お前いなかったら無理だったよ。最後に斬ったのも火野だし」


「お前さ」


「うん」


 火野はしばらく透真を見た。


「なんでそんな普通なんだよ」


「何が?」


「だから……」


 火野が口を閉じる。


「トーマ!」


 横から昼間の技師が声を飛ばした。


「南の水路も問題なかったぞ!」


「橋脚は?」


「お前に言われたとこ全部見た! 異常なし!」


「よかった」


「明日、二号揚水機も頼めるか?」


「出発前なら」


「助かる!」


 別の男も寄ってくる。


「トーマ、あの水門の作戦もお前が考えたんだろ?」


「途中で一回外しましたけど」


「最後に当てりゃいいんだよ」


「いや、そういうものでも――」


 話している途中で、視線を感じた。


 火野だった。


 黙ってこちらを見ている。


「何?」


「……別に」


 また目を逸らされた。


 透真は首を傾げた。


 王都にいた頃から、火野が自分を気にすることはあった。


 ただ、大抵は笑うか、からかうか、何かをさせるためだった。


 今の視線は、そのどれとも少し違う。


「火野もすげえよな」


 技師の一人が言った。


「お前ら、いい組み合わせだよ」


「……一緒にすんな」


 火野の返事は思ったより低かった。


「大河?」


 同行していたクラスメイトが声をかける。


「なんでもねえ」


 火野が立ち上がった。


「真壁」


「何」


「ちょっと来い」


「嫌だけど」


 即答すると、眉間に皺が寄った。


「いいから来いよ」


「何の用?」


「話だよ」


「ここじゃ駄目なの?」


「いいから!」


 声が大きくなった。


 周囲の会話が一瞬だけ止まる。


 透真の胃の底が重くなった。


 昔なら、もう立っていた。


 これ以上怒らせないように。


 後で何をされるか分からないから。


 言われた通りについていく方が、まだ楽だった。


 今も、その感覚は残っている。


 火野の声が大きくなると、身体のどこかが先に従おうとする。


 透真はそれに気づいた。


 だから、一度考えた。


「10分だけ」


「あ?」


「10分。それ以上なら帰る」


 火野が妙な顔をした。


「……何だよ、それ」


「行くんだろ」


 透真が立ち上がる。


 火野より先に歩き出した。


 背後から足音が追ってくる。


 それも昔とは逆だった。


◇


 町外れには、騎士たちが臨時訓練に使っていた空き地があった。


 端には木剣や訓練棒がまとめて置かれている。


 火野が足を止めた。


「お前さ」


「何」


「調子乗ってる?」


「何が?」


「それだよ! その感じ!」


「分からない」


「お前、前はもっと……」


 火野が言葉を止めた。


「何が言いたいの?」


「知らねえよ!」


 空き地に怒鳴り声が響いた。


 透真には、本当に分からなかった。


 魔獣を倒したのは火野だ。


 そのことは認めた。


 強いとも思っている。


 それなのに、火野はさっきから何度も同じことを確かめてくる。


「一体何が気に入らないんだよ」


「は?」


「俺、お前が倒したって言ってるだろ?」


「そういうことじゃねえんだよ!」


「じゃあ何」


「だから――」


 火野の口が止まった。


 数秒、睨み合う。


「……昔みたいにしろよ」


「昔みたいにって?」


「だから、お前は……」


「俺が何」


「もういい!」


 火野が地面を蹴った。


 透真にも、そこで少しだけ分かった。


 火野が気にしているのは、魔獣を誰が倒したかではないらしい。


 だが、それ以上はまだ分からない。


「だいたいお前、昔のことずっと根に持ってるだろ」


「どれのこと?」


「学校のことだよ」


「階段?」


「俺がやったって決まったわけじゃねえだろ」


「そうだな」


「プールだって、あいつら本気で殺そうとしたわけじゃねえし」


 透真は火野を見た。


「あのさ、何秒だったと思う?」


「あ?」


「俺は分からない。水の中じゃ時間なんか分からなかった」


「だったら――」


「ただ息ができなくなったのは覚えてる」


 火野が顔をしかめる。


「でも死んでねえだろ」


 その一言で、ようやく分かった。


 火野にとって、本当にそこが境界なのだ。


「じゃあ、何なら駄目だった?」


「何が」


「俺が死んだら?」


「そういう話じゃねえ」


「骨が折れたら?」


「だからさ」


「カッターで腱まで切れてたら?」


「お前、いちいち大げさなんだよ!」


 火野が怒鳴った。


「ノリだったろ!」


「……そっか」


「あ?」


「お前にはそうだったんだな」


 それ以上話しても、同じところを回るだけだった。


「もういい」


「その態度がムカつくんだよ!」


 火野が空き地の端へ歩く。


 置かれていた訓練用の大剣を一本掴んだ。


 刃は完全に潰されている。


 切れはしない。


 ただし《剛鬼》でまともに打たれれば、骨くらい簡単に折れる。


「模擬戦しようぜ」


「嫌だ」


「なんで」


「負けるから」


 火野が笑った。


「は!分かってんじゃん」


「分かってるよ」


「だったら、その態度やめろよ」


「何で?」


 また火野の顔が歪んだ。


「……やっぱムカつくわ」


 大剣を構える。


「来いよ」


「俺、やるって言ってないけど」


「怖いのか?」


 透真は否定しなかった。


「それで?」


「は?」


「怖かったら、昔みたいに言うこと聞かなきゃいけないの?」


 火野の眉が寄った。


「なら――」


 火野が踏み込んだ。


《剛鬼》。


 右足が地面を噛む。


 土が弾けた。


 刃を潰した大剣が、右から横薙ぎに飛んでくる。


 透真は反射的に後ろへ跳んだ。


 鈍い風切り音。


 剣先が胸の前を通り過ぎる。


 かわした。


 そう思った瞬間、火野の腰が止まっていないことに気づいた。


「――っ」


 振り抜いた勢いのまま軸足を踏み替え、大剣を逆方向へ返してくる。


 速い。


 着地したばかりの透真には、もう逃げる足がなかった。


 大剣の腹が左肩を打った。


 息が潰れた。


 身体が横へ弾かれる。


 肩。

 背中。

 腰。


 順番に地面へ叩きつけられ、一度転がって止まった。


「っ……」


 左肩が熱い。


 指先までじんと痺れている。


 まともに入っていたら、骨が折れていた。


「ほら見ろ!」


 火野の声がする。


「何も変わってねえじゃん!」


 透真は右手を地面についた。


 立とうとした。


 脚に力を入れる。


 動かなかった。


 もう一度。


 駄目だった。


 肩は痛い。


 けれど、そのせいではない。


 分かっている。


 目の前にあるのは乾いた土だ。


 水なんてどこにもない。


 なのに、喉が閉じた。


 耳の奥で水が鳴る。


 鼻の奥がつんと痛んだ。


 水面の向こうで、誰かの顔が揺れている。


 頭を押さえる手。


 肺が勝手に息を吸おうとする。


 吸えば水が入る。


 それでも身体は空気を求める。


 乾いた地面に、あの日の水面が一瞬だけ重なった。


「立てよ、真壁!」


 火野の声が、水音を切った。


 透真は息を吸った。


 一度。

 もう一度。


 目の前を見る。


 土だ。

 空き地だ。

 火野がいる。


 右手で地面を押した。


 今度は脚が動いた。


 ゆっくり立ち上がる。


「そうかもな」


「あ?」


「今でも怖いし」


 口に出してみると、思ったより声は普通だった。


 恐怖が消えたわけではない。


 肩も痛い。


 火野が剣を構えるだけで、身体の奥はまだ逃げろと言っている。


「俺、お前より強くなってないよ」


「だったら――」


「でも、見えるものは増えた」


 《構造視》。


 火野を見る。


 筋肉。

 骨。

 関節。


 そこを走る魔力。


《剛鬼》によって、人間のものとは思えないほど引き上げられた出力。


 最初なら、それだけしか分からなかった。


 今は違う。


 踏み込みから剣先まで、力がどう伝わっていくのかが見える。


 火野は右脚で強く踏み込み、その力を腰へ伝え、上半身を回して大剣へ乗せる。


 強い。


 正面から受ければ、透真ではどうにもならない。


 けれど、火野の右膝を走る光だけが、わずかに乱れていた。


 さっきの魔獣戦。


 巨大な身体を正面から受け止めた。


 何度も地面を蹴った。


 弾き飛ばされても、また立った。


 そこへ《剛鬼》の出力を重ね続けている。


 右膝に負担が溜まっている。


 ――だから、そこを狙う。


 そう考えかけて、やめた。


 魔獣のときと同じだ。


 右脚だけを見てはいけない。


 猫の最初の試作品を思い出した。


 前脚だけでは猫にならなかった。


 肩が動く。

 首が逃げる。

 背中が続く。


 身体は、一つずつ動いているわけではない。


 火野も同じだ。


 右膝が悪いから崩れるのではない。


 踏み込む。

 腰を回す。

 大剣を振る。

 外した剣を止める。


 その全部を、最後に右脚で受けている。


「来いよ」


「舐めんな!」


 火野が踏み込んだ。


 透真は左斜め後ろへ動く。


 大剣が横を抜けた。


「逃げんな!」


「逃げるよ!」


 火野が追ってくる。


 また右足から。


 透真は距離を取った。


 遠すぎない。


 火野が一歩踏み込めば届きそうなところ。


 そこだけを保つ。


「戦え!」


「やってる!」


 大剣が振り下ろされる。


 透真は半歩だけ外へ出た。


 空振り。


「チッ!」


 火野がすぐに追う。


 また右脚。


 透真は避ける。


 火野が踏み込む。


 また避ける。


 三度。

 四度。


 透真は逃げているだけではなかった。


 火野がどこまでなら踏み込めるのか。


 どの距離なら追ってくるのか。


 怒ったとき、どれだけ大振りになるのか。


 一つずつ確かめる。


 少しずつ、届きそうで、届かない距離へ。


「正面から来い!」


「嫌だよ!」


「卑怯だろうが!」


 その言葉には、さすがに笑った。


「何笑ってんだ!」


「いや」


 息を整える。


「お前が言うんだなと思って」


「何だよ!」


 火野の顔が歪んだ。


 来る。


 さっきまでより深く。


 強く。


 透真はわざと一歩だけ近づいた。


 火野の目が変わった。


 届く。


 そう判断したのが分かった。


「――っらぁ!」


 火野が右脚を踏み込んだ。


《剛鬼》の魔力が一気に膨れ上がる。


 右脚。

 膝。

 腰。

 背中。

 肩。

 腕。

 大剣。


 全部が一本に繋がった。


 これまでで一番大きな一撃。


 透真は、ぎりぎりまで動かなかった。


 大剣が届く寸前。


 身体を半身にして、火野の左側へ抜ける。


 刃を潰した大剣が空を切った。


「な――」


 火野の身体が前へ流れる。


 振り抜いた大剣は重い。


《剛鬼》で強化された腕は、その勢いまで大きくしている。


 止めなければ倒れる。


 火野は反射的に、右脚を地面へ突き立てた。


 大剣の重さ。

 上半身の回転。

《剛鬼》で増幅された踏み込み。

 魔獣戦から蓄積していた疲労。


 全部が、一本の右脚へ戻ってくる。


 透真には、それが見えた。


 膝の中を走る光が、一瞬大きく乱れる。


「――っ!」


 火野の右膝が耐え切れなかった。


 がくん、と身体が落ちる。


「な、に……」


 火野が片膝をついた。


 大剣の先端が地面へ落ちる。


 先ほどの踏み込みで、空き地の端に積まれていた訓練棒が一本、こちらまで転がってきていた。


 透真はそれを拾う。


 火野の横へ回り、首筋へ先端を軽く添えた。


「終わり」


 火野は膝を押さえたまま睨んだ。


「……卑怯だろ」


「何が」


「怪我してるところ狙っただろ」


「最初は知らなかった」


「嘘つけ」


「見て分かった」


 訓練棒を下ろす。


「《剛鬼》で筋力は上がってる。でも、お前の身体の使い方まで勝手に上手くなるわけじゃない」


「だから何だよ!」


「俺が膝を壊したんじゃない」


 透真は火野の右脚を見る。


「お前がずっと無理させてた」


「正面から戦えよ!」


「なんで?」


「は?」


「正面からやったら俺が負けるのに」


 火野の口が止まった。


「俺、お前より強くなったわけじゃないよ。殴り合いなら今でも負ける」


「だったら……」


「でも、お前がどう動くかは前より分かる」


 昔は、廊下の向こうに火野がいるだけで道を変えた。


 今だって名前を呼ばれただけで身体が強張る。


 さっきは立つことさえできなかった。


 それでも、目の前の火野は昔ほど大きく見えなかった。


「火野」


「……何だよ」


「もう俺に関わるな」


 火野が顔を上げた。


「は?」


「俺もお前に関わらない」


「それで終わりかよ」


「何が」


「俺に何か……」


 火野はそこで口を閉じた。


 続きを待ったが、何も言わなかった。


「別にいいよ」


「何がだよ!」


「お前が俺をどう思ってても」


 火野の顔に浮かんだのは、怒りより戸惑いに近かった。


 透真は訓練棒を元の場所へ戻した。


 それ以上、話すことはなかった。


◇


「遅い」


 宿の前で雨宮が待っていた。


「肉は?」


「ない」


「取っといてくれてもよかったのに」


「頼まれてない」


「頼もうと思ってた」


「知らない」


 透真は少し笑った。


「見てた?」


「途中から」


「趣味悪いな」


「心配だったから」


 平坦な声だった。


 今は、その言い方にも慣れた。


 二人で夜の町を歩く。


 巨大水車が回っている。


 水が落ちる。

 軸が回る。

 歯車が噛み合う。


 魔力が流れ、街灯が灯る。


「ねえ」


「何?」


「嬉しくないの?」


「何が?」


「火野に勝ったこと」


 透真は少し考えた。


 階段から落ちた夜。


 背中が痛くて眠れなかった。


 プールから引き上げられた日。


 誰かが同じ目に遭えばいいと思った。


 いつか見返したいと何度も考えた。


 それくらいしか考えられない時期もあった。


「……思ってたより」


「うん」


「どうでもよかった」


「そう。それだけ?」


「他に何を言えばいいの」


「ないけど」


 宿の前に露店が出ていた。


 古い魔導具。

 錆びた工具。

 欠けた食器。


 その隅に、小さな木製の鳥が転がっていた。


 片方の羽根が上がらない。


 透真は手に取る。


「買うの?」


「安いし」


「壊れてるよ」


「だから」


 《構造視》。


 木の内部に、小さな歯車と軸が見える。


 軸が一本、折れていた。


「直せそう?」


「これなら」


「猫みたいにする?」


「鳥だぞ」


「欠伸」


「させない」


「顔洗う?」


「させないって」


 雨宮が笑う。


 透真は木の鳥を買った。


 明日には、この町を出る。


 次の調査先については、まだガルドから連絡がない。


 少なくとも、自分からすぐ王都へ戻るつもりはなかった。


 神代晃が何を考えているのかも、まだ分からない。


 火野一人に勝ったところで、昔のことが消えたわけでもなかった。


 宿へ戻り、卓上に鳥を置く。


 折れた軸を工具の先で押すと、動かなかった羽根がほんの少し持ち上がった。


 雨宮が横から覗き込む。


「飛べそう?」


「無理」


「即答」


「まず直してから」


 透真は工具箱を開いた。


 何が壊れているのかは、もう分かっている。


 なら、次にやることも決まっていた。



幕間 勇者



 リベルタから王都へ戻った日の夜。


 火野大河は、勇者用にあてがわれた宿舎の談話室で神代晃を見つけた。


「なあ、晃」


「ん?」


 晃は読んでいた書類から顔を上げた。


「俺らってさ。真壁に、そんなヤバいことしてたか?」


「急にどうした?」


「別に」


 火野は近くの椅子を引き、乱暴に腰を下ろした。


「あいつと模擬戦したんだよ」


「透真と?」


「俺が剣当てたら、あいつ動けなくなってさ。昔のこと思い出したみたいで」


 晃の表情が少しだけ曇る。


「……そっか」


「プールのこと、まだ覚えてた」


「そりゃ、覚えてはいるだろ」


「何秒だったと思うって聞かれた」


「何秒?」


「そんなの知らねえよ。俺が押さえてたわけじゃねえし」


 火野は自分で言ってから、なぜか続きを口にした。


「あいつも分かんねえって言ってた。でも、息できなくなったのは覚えてるって」


 晃はしばらく黙っていた。


「大河たちも、透真を本気で傷つけようとしてたわけじゃないだろ?」


「まあ、な」


「やりすぎたことはあったと思うよ」


「……」


「でも透真も昔から、一度気にするとずっと考えるところあったし」


「そうだったっけ?」


「そうだったよ」


「今さら昔のこと全部、大河が背負う必要はないと思う」


「……そっか」


 火野はそう答えた。


 前なら、それで話は終わっていた気がする。


 部屋へ戻る途中、火野は自分の右手を見た。


『息ができなくなったのは覚えてる』


 何秒だったのか。


 透真は分からないと言った。


 火野も知らなかった。


 知ろうとしたこともなかった。


◇


 三日後。


 王城の軍議室へ、国境からの急使が駆け込んだ。


「第七国境砦より、再度の増援要請です」


 卓上へ地図が広げられる。


「東側の防衛線が押し込まれています。このままでは砦そのものが持ちません」


 第一王子ルーカスが地図へ目を落とした。


「通常兵の増援は?」


「間に合いません。騎兵を急行させても到着まで六日。転移門を使える勇者を先行させるべきかと」


「必要な戦力は」


「正面から魔物の群れを押し返せる者です」


 軍務官が候補者の一覧を差し出した。


 戦闘訓練の成績、能力特性、これまでの実戦記録。


 その中に《剛鬼》の名があった。


「火野大河か」


 ルーカスが呟く。


「負傷は?」


「治癒済みです。訓練にも復帰しています」


「神代殿はどう見る?」


 同席していた晃が一覧へ目を落とした。


「前に出る戦いなら、大河は強いです」


「派遣に問題はないと?」


「戦力としてなら」


 晃は少し考えてから付け足した。


「ただ、無茶するところがあるんで。指揮官には止めてもらった方がいいかもしれません」


 ルーカスは小さく頷いた。


「分かった」


 軍務官が名簿へ印を入れる。


「火野大河を含む勇者三名を先行増援とする」


◇


 数日後。


 王都へ届いた報告は、予定より早かった。


「第七国境砦が陥落しました」


 軍議室の空気が止まる。


 ルーカスが立ち上がった。


「守備隊は?」


「壊滅しています」


「生存者は」


 報告官が一瞬だけ言葉を詰まらせた。


「……現在のところ、確認できておりません」


「増援隊は?」


「砦から最後の通信が入った直後より、連絡が途絶えています」


 別の文官が紙を差し出した。


「先行派遣した勇者三名についても、全員消息不明です」


 名簿の末尾に、見慣れた名前があった。


 火野大河。


「……大河が?」


 晃が呟いた。


 その顔には、驚きしか浮かんでいなかった。

長いのを読んで頂き有難う御座います

一旦、ここまで。

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