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名もなき社の脱け殻

掲載日:2026/08/23




「ふぅ……。暑いな」



 宮本は、借りてきた古いママチャリのペダルをこぐ。


 照りつける直射日光が、陽炎となって白く揺れていた。

 左右には、青々とした稲穂が広がっている。


 蝉の声だけが、遠くで響いていた。



「……もうちょっとだ」



 四十二歳。


 東京での仕事は、上手くいっていなかった。

 若い部下には追い抜かれ、上司からは期待されなくなった。


 何か大きな失敗をしたわけではない。

 ただ、気づけば自分の居場所だけが、少しずつ消えていた。


 現実の泥沼から逃げるように、宮本はお盆休みに合わせて、数年ぶりに地方の実家へ帰省した。


 だが、待っていたのは家族の温かい歓迎ではなかった。



『お前も、もう四十だろ?』

『そろそろ落ち着いたら?』

『東京にいるって聞いてたけど……。』



 親戚たちは、心配しているつもりなのだろう。

 悪意がないことくらい、宮本にも分かっていた。


 だからこそ、余計につらかった。

 同情されるほど落ちぶれたつもりはない。


 だが、反論できるほど順調な人生でもなかった。



『……ちょっと散歩してくる』



 それだけ言い残すと、逃げるように家を飛び出した。



「ははっ、変わってないなー……。」



 宮本は、自転車を止めて周囲を見渡した。


 見渡す限り、一面の田んぼが広がっている。

 その真ん中に、取り残されたように小さな木立があった。


 木々の奥には、赤い鳥居。

 その先には古びた小さなお堂がひっそりと佇んでいた。


 子どもの頃、宮本は地元の老人に、あの場所について尋ねたことがあった。



『さてな……。何が祀られているのかは、誰も知らん』



 老人は、田んぼの向こうにある小さな木立を見つめた。



『でもな……。』



 少し間を置いて、老人は続けた。



『わしの爺さんの、そのまた爺さんの頃から、あそこにあったらしい』

『そんな昔から?』



 宮本が尋ねると、老人は小さく頷いた。



『まあ、古いものには、相応の理由があるもんさ。大事にしろよ』



 そう言って、老人はそれ以上何も語らなかった。


 宮本は、逃げ場のない真夏の太陽から逃れるように、鳥居のわずかな影へと滑り込んだ。


 カンカン照りの空の下、激しい蝉しぐれが鼓膜を刺す。

 汗を拭い、途中の自動販売機で買ったスポーツドリンクに口をつける。



「ふぅーー……。うまい」



 ふと、宮本はお堂を見上げた。


 崩れかけた木の壁。

 色褪せた柱。


 子供の頃に見たものより、ずっと小さく感じた。


 そう思った瞬間。

 忘れていたはずの記憶が、ゆっくりと浮かび上がってきた。



「そうだった……。小学三年の夏休み、ここで『異世界転移』したんだっけ」



 あの夏。

 小学三年生だった宮本は、この社で遊んでいた。


 気づけば、鳥居の向こうへ迷い込んだ。

 そこには、知らないの空が広がっていた。


 見たこともない巨大な建造物。

 人ならざる者たち。


 宮本は、そこで勇者になった。

 仲間たちと旅をし、世界を脅かす魔王と戦った。

 長い冒険の果てに勝利し、英雄として元の世界へ帰ってきた。


 そう、記憶している。

 中学を卒業する頃には、それを子供特有の妄想だと思うようになっていた。



『厨二病は卒業だ』



 何度もそう言い聞かせ、記憶の奥深くへ封じ込めた。


 だが、四十二歳になった今。

 仕事も、人間関係も、人生そのものも行き詰まりを感じている。


 宮本は、その記憶に縋りたくなっていた。


 あの頃の自分は、確かに英雄だった。

 あの世界の人々は、自分を称えてくれた。

 誰もが、自分を必要としてくれた。



「もう一度……。あの世界へ戻れたらな」



 四十二歳の自分を嘲笑うように、宮本は呟いた。



「勇者だった頃に、戻れたら……」



 その瞬間だった。


 風が止まった。

 蝉の声が消えた。

 一面の稲穂の波が、まるで時間を止められたかのように静止した。


 逃げ場のない田んぼの真ん中。


 真夏の太陽の下だというのに、何もかもが止まった。

 まるで、世界から自分ひとりだけが切り離されたようだった。


 違和感を覚え、お堂の脇へ目をやった宮本は、息を呑んだ。



「本当の……。本当のことだったのか?」



 お堂の横の空間が裂けていた。

 現実そのものが破れてしまったかのように。


 その先には、見覚えのある古い町並みと城があった。


 三十年以上前。

 小学三年生の宮本が、確かに見た景色。


 二度と戻ることはないと思っていた世界だった。



「お、俺は……。」



 喉がカラカラに渇く。


 戻れば、また英雄になれる。

 誰かに必要とされる自分に戻れる。


 そんな思いが、宮本の足を動かした。

 抗う理由など、もう残っていなかった。


 宮本は、お堂の横に広がる裂け目へ、一歩足を踏み入れようとした。



「……えっ」



 カサッ。


 足元で、乾いた何かを踏み潰す音がした。

 宮本は、ゆっくりと視線を落とした。


 影の中に転がっていたのは、人間一人分ほどの大きさをした、干からびた皮だった。


 まるで巨大な蝉の抜け殻。

 中身だけが、綺麗に失われている。


 その胸元には、色褪せた名札が張り付いていた。


 そこに書かれていた文字を見た瞬間。

 宮本の背筋が凍った。



『みやもと』



 頭蓋を直接叩き割られるような激痛が、宮本を襲った。


 視界が真っ赤に染まる。

 封じ込めていた記憶が、濁流のように脳内へ流れ込んできた。


 違う。

 あれは、勇者の冒険なんかじゃなかった。


 あの夏。

 小学三年生の宮本が迷い込んだ場所は、魔王がいる異世界などではない。


 地元の人間ですら近づこうとしなかった、触れてはならない場所。


 正体不明の何かが潜む、忌まわしい神域だった。

 宮本少年は、そこで見た。


 人の理解を超えた存在を。


 恐怖の中で、ただ生きて帰りたいと願った。

 その代償として、取り返しのつかない約束を交わした。



『も、もう痛いのは嫌だ! た、食べないで!

 ぼ、僕の全部をあげるから!

 み、未来でも、名前でも、何でもあげるから!』



 少年は、自分がこれから歩むはずだった人生を差し出した。

 命からがら『自分自身の脱け殻』となって、現代へ逃げ帰ってきたのだった。


 『勇者になって世界を救った』という輝かしい思い出。

 それは、本当の記憶に耐えられなかった少年が、絶望を塗り替えるために生み出した幻想だった。


 だが、その代償として失ったものは、あまりにも大きかった。



「ああっ……。そうだったのか……。」



 宮本は、膝から崩れ落ちた。


 なぜ四十二歳になった自分が、これほど疲れ果てているのか。

 なぜ何をしても心が動かず、何かを望むことすらできなかったのか。


 人生が、すでに枯れ果てていた理由。

 それは、ずっと前に決まっていた。


 三十年以上前の夏休み。

 あの日、少年だった宮本は、すべて差し出していたのだ。



「ふふっ……。今度は、何を差し出す」



 お堂の暗がりの奥。

 そこに、ふたつの赤い目が浮かんでいた。


 遠くで、蝉が鳴いている。




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