名もなき社の脱け殻
「ふぅ……。暑いな」
宮本は、借りてきた古いママチャリのペダルをこぐ。
照りつける直射日光が、陽炎となって白く揺れていた。
左右には、青々とした稲穂が広がっている。
蝉の声だけが、遠くで響いていた。
「……もうちょっとだ」
四十二歳。
東京での仕事は、上手くいっていなかった。
若い部下には追い抜かれ、上司からは期待されなくなった。
何か大きな失敗をしたわけではない。
ただ、気づけば自分の居場所だけが、少しずつ消えていた。
現実の泥沼から逃げるように、宮本はお盆休みに合わせて、数年ぶりに地方の実家へ帰省した。
だが、待っていたのは家族の温かい歓迎ではなかった。
『お前も、もう四十だろ?』
『そろそろ落ち着いたら?』
『東京にいるって聞いてたけど……。』
親戚たちは、心配しているつもりなのだろう。
悪意がないことくらい、宮本にも分かっていた。
だからこそ、余計につらかった。
同情されるほど落ちぶれたつもりはない。
だが、反論できるほど順調な人生でもなかった。
『……ちょっと散歩してくる』
それだけ言い残すと、逃げるように家を飛び出した。
「ははっ、変わってないなー……。」
宮本は、自転車を止めて周囲を見渡した。
見渡す限り、一面の田んぼが広がっている。
その真ん中に、取り残されたように小さな木立があった。
木々の奥には、赤い鳥居。
その先には古びた小さなお堂がひっそりと佇んでいた。
子どもの頃、宮本は地元の老人に、あの場所について尋ねたことがあった。
『さてな……。何が祀られているのかは、誰も知らん』
老人は、田んぼの向こうにある小さな木立を見つめた。
『でもな……。』
少し間を置いて、老人は続けた。
『わしの爺さんの、そのまた爺さんの頃から、あそこにあったらしい』
『そんな昔から?』
宮本が尋ねると、老人は小さく頷いた。
『まあ、古いものには、相応の理由があるもんさ。大事にしろよ』
そう言って、老人はそれ以上何も語らなかった。
宮本は、逃げ場のない真夏の太陽から逃れるように、鳥居のわずかな影へと滑り込んだ。
カンカン照りの空の下、激しい蝉しぐれが鼓膜を刺す。
汗を拭い、途中の自動販売機で買ったスポーツドリンクに口をつける。
「ふぅーー……。うまい」
ふと、宮本はお堂を見上げた。
崩れかけた木の壁。
色褪せた柱。
子供の頃に見たものより、ずっと小さく感じた。
そう思った瞬間。
忘れていたはずの記憶が、ゆっくりと浮かび上がってきた。
「そうだった……。小学三年の夏休み、ここで『異世界転移』したんだっけ」
あの夏。
小学三年生だった宮本は、この社で遊んでいた。
気づけば、鳥居の向こうへ迷い込んだ。
そこには、知らないの空が広がっていた。
見たこともない巨大な建造物。
人ならざる者たち。
宮本は、そこで勇者になった。
仲間たちと旅をし、世界を脅かす魔王と戦った。
長い冒険の果てに勝利し、英雄として元の世界へ帰ってきた。
そう、記憶している。
中学を卒業する頃には、それを子供特有の妄想だと思うようになっていた。
『厨二病は卒業だ』
何度もそう言い聞かせ、記憶の奥深くへ封じ込めた。
だが、四十二歳になった今。
仕事も、人間関係も、人生そのものも行き詰まりを感じている。
宮本は、その記憶に縋りたくなっていた。
あの頃の自分は、確かに英雄だった。
あの世界の人々は、自分を称えてくれた。
誰もが、自分を必要としてくれた。
「もう一度……。あの世界へ戻れたらな」
四十二歳の自分を嘲笑うように、宮本は呟いた。
「勇者だった頃に、戻れたら……」
その瞬間だった。
風が止まった。
蝉の声が消えた。
一面の稲穂の波が、まるで時間を止められたかのように静止した。
逃げ場のない田んぼの真ん中。
真夏の太陽の下だというのに、何もかもが止まった。
まるで、世界から自分ひとりだけが切り離されたようだった。
違和感を覚え、お堂の脇へ目をやった宮本は、息を呑んだ。
「本当の……。本当のことだったのか?」
お堂の横の空間が裂けていた。
現実そのものが破れてしまったかのように。
その先には、見覚えのある古い町並みと城があった。
三十年以上前。
小学三年生の宮本が、確かに見た景色。
二度と戻ることはないと思っていた世界だった。
「お、俺は……。」
喉がカラカラに渇く。
戻れば、また英雄になれる。
誰かに必要とされる自分に戻れる。
そんな思いが、宮本の足を動かした。
抗う理由など、もう残っていなかった。
宮本は、お堂の横に広がる裂け目へ、一歩足を踏み入れようとした。
「……えっ」
カサッ。
足元で、乾いた何かを踏み潰す音がした。
宮本は、ゆっくりと視線を落とした。
影の中に転がっていたのは、人間一人分ほどの大きさをした、干からびた皮だった。
まるで巨大な蝉の抜け殻。
中身だけが、綺麗に失われている。
その胸元には、色褪せた名札が張り付いていた。
そこに書かれていた文字を見た瞬間。
宮本の背筋が凍った。
『みやもと』
頭蓋を直接叩き割られるような激痛が、宮本を襲った。
視界が真っ赤に染まる。
封じ込めていた記憶が、濁流のように脳内へ流れ込んできた。
違う。
あれは、勇者の冒険なんかじゃなかった。
あの夏。
小学三年生の宮本が迷い込んだ場所は、魔王がいる異世界などではない。
地元の人間ですら近づこうとしなかった、触れてはならない場所。
正体不明の何かが潜む、忌まわしい神域だった。
宮本少年は、そこで見た。
人の理解を超えた存在を。
恐怖の中で、ただ生きて帰りたいと願った。
その代償として、取り返しのつかない約束を交わした。
『も、もう痛いのは嫌だ! た、食べないで!
ぼ、僕の全部をあげるから!
み、未来でも、名前でも、何でもあげるから!』
少年は、自分がこれから歩むはずだった人生を差し出した。
命からがら『自分自身の脱け殻』となって、現代へ逃げ帰ってきたのだった。
『勇者になって世界を救った』という輝かしい思い出。
それは、本当の記憶に耐えられなかった少年が、絶望を塗り替えるために生み出した幻想だった。
だが、その代償として失ったものは、あまりにも大きかった。
「ああっ……。そうだったのか……。」
宮本は、膝から崩れ落ちた。
なぜ四十二歳になった自分が、これほど疲れ果てているのか。
なぜ何をしても心が動かず、何かを望むことすらできなかったのか。
人生が、すでに枯れ果てていた理由。
それは、ずっと前に決まっていた。
三十年以上前の夏休み。
あの日、少年だった宮本は、すべて差し出していたのだ。
「ふふっ……。今度は、何を差し出す」
お堂の暗がりの奥。
そこに、ふたつの赤い目が浮かんでいた。
遠くで、蝉が鳴いている。




