第八話 懐かしい前世の夢
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王宮の庭園にあるガゼボには、柔らかな春の光が差し込んでいた。
白い石柱に絡む蔦の隙間から、花の香りを含んだ風がゆっくりと吹き抜ける。
カトリーナは、テーブルに並べられた茶器にそっと手を伸ばした。
ポットを持ち上げると、ほのかに立ちのぼる湯気が春の空気に溶けていく。
静かにお茶を注ぎながら、彼女は視線を庭園へと向けた。
ルミナリア王宮の庭は、どの季節も美しい。
整えられた花壇、穏やかな色合いの花々、静かに揺れる木々。
この場所にいると、心が不思議と落ち着くのだった。
やがてカップを満たすと、カトリーナはそれを静かに持ち上げる。
「……どうぞ、アレクサンダー様」
差し出したカップから、ルミナリア王国の伝統的な茶葉で淹れたお茶が、柔らかく香る。
「……ここは、本当に綺麗ですね」
ぽつりと呟くと、向かいに座っていたアレクサンダーが顔を上げた。
銀髪の下で、紫の瞳が静かにカトリーナを見据える。
その表情は、揺るがぬ落ち着きを湛えていた。
「庭師たちが誇りを持って手入れしているからな」
短い言葉だったが、その声音は穏やかだった。
「そうなのですね」
カトリーナは微笑む。
「王城の外でも、この国の花はとても美しいと感じました」
「……外で?」
「はい。こちらへ向かう途中に、いくつかの村を通りましたから」
そのときの光景を思い出しながら、カトリーナはゆっくりと言葉を続けた。
「どの村も、とても穏やかで……皆さん、幸せそうでした」
彼女は少しだけ視線を落とした。
「きっと、この国の王が、立派な方だからなのでしょうね」
その言葉に、アレクサンダーは一瞬だけ眉を動かした。
それから、静かにカップを持ち上げ、口を付けた。
「……そう見えたのか」
「はい」
カトリーナは素直に頷いた。
「人の暮らしというものは、国の在り方に表れるものだと思います」
そして、少しだけ照れたように笑った。
「……この国に来れて……本当に良かったです」
アレクサンダーは、その言葉に何も返さなかった。
だが、その紫の瞳を少しだけ細め、静かに彼女を見つめていた。
カトリーナは気づかずに続けた。
「正直に申し上げると……」
ほんの少しだけ言いよどむ。
「こちらへ来る前は、もう、どうなっても構わないと思っていました」
「……」
言った瞬間、カトリーナは、はっとした。
相手はこの国の王なのだ。不用意な発言だったかもしれない。
慌てて、言いたかった本心の言葉を続ける。
「ですが、今はそう思っていません」
カトリーナは顔を上げ、真っ直ぐに彼を見る。
「アレクサンダー様は、とても立派な王だと思います」
ただ心からそう思って出た言葉だった。
ガゼボに、しばらく静かな空気が流れる。
風が花びらを揺らし、白いテーブルの上に一枚落ちた。
やがてアレクサンダーは、ゆっくりと口を開いた。
「……お前は」
低い声だった。
「不思議なことを言う」
カトリーナは小さく首を傾げる。
「そうでしょうか?」
「多くの者は、私を恐れているからな」
その言葉には、特別な感情は込められていなかった。
ただ事実を述べているだけのようだった。
だがカトリーナは静かに首を振る。
「それは、……勿体無いことをしていますね」
そして、少しだけ微笑んだ。
「こんなにも尊敬できる王なのに」
その言葉を聞いた瞬間、アレクサンダーの指先がわずかに止まった。そして彼は視線を逸らし、庭園の方を見た。
「……変わった女だ」
ぽつりと呟く。
その声音には、わずかな柔らかさが混じっていた。
もう一度、アレクサンダーはお茶に口を付た。
「……美味いな」
静かに、そう呟いた。
いつも寡黙で荘厳な王の、どこか柔らかい表情とその優しい声音に、カトリーナは胸の奥がほんの少し温かくなるのを感じた。
「恐れ入ります」
この穏やかな時間が、もう少しだけ続けばいい。
そんなささやかな願いを、そっと胸の中で抱きながら、カトリーナもカップを口に付けて、ゆったりとお茶を飲んだ。
*
セシリアは、自室のベッドの上でゆっくりと意識を浮上させた。
先程まで見ていた、とても懐かしい夢の余韻が、まどろみの奥に残っている。
重たい瞼を開けた瞬間、頬を伝うぬるい涙の感触に気づいた。
自分でも気づかぬうちに流していたそれに、セシリアは小さく息を吐く。
胸の奥が、じんわりと熱を帯びている。
切なさとも、懐かしさともつかない感情が、ゆっくりと広がっていた。
「……アレクサンダー様」
ぽつりと、名前が零れ落ちる。
前世で、確かに自分が夫として愛した人の名。
セシリアにとって、唯一無二の大切な存在。
夢の中の彼は、あの頃と何一つ変わらない優しい表情で微笑んでいた。
手を伸ばせば届きそうで、けれど決して届かない距離。
そのことが、ひどく苦しかった。
「……それでも私は、アレクサンダー様以外を、愛する気は無いわ……」
分かりきっていることだ。自分にとって特別な人は、ただ一人。
どれだけ時間が経とうとも、その事実が揺らぐことはない。
懐かしい前世の夢を見たのは、きっと、つい最近、先程の夢にも出てきたあの庭園で会った、公爵とのやりとりが原因だろう。
脳裏に、公爵と出会った、あの日のことが浮かぶ。
整った容貌に、どこか落ち着いた物腰。自分を真っ直ぐに見つめて、告げられた言葉。
ーー私はあなたのことが好きだ。
その声が、まるで今も耳元に残っているかのように鮮明によみがえる。
「……っ」
途端に、頬が熱を帯びた。
無意識のうちに胸元を押さえ、セシリアはぎゅっと眉を寄せる。
どうして、あの言葉が、こんなにも心を乱すのか。
エドガー・アルヴェイン公爵。
つい最近知ったばかりの人物。それなのに、まるでずっと前から知っているかのように、妙に印象に残っている。
あの日の仕事が終わった後、警戒心から、すぐに彼のことを調べた。
結果として分かったのは、彼がいかに特別な存在かということだった。
二十七歳という若さで王直属の側近を務め、外交の統括を任されている。
同い年の王太子とは乳兄弟の関係で、フィオナ王女とも、まるで歳の離れた兄妹のように親しい間柄なのだという。
つまり、間違いなくこの国の中枢にいる人物。
そんな人がなぜ、一介の伯爵令嬢である自分に……?と、思わずため息が漏れる。
「……関係ない」
どんな理由があろうと、自分の気持ちは変わることは無い。
自分には、アレクサンダーだけだ。
本心からそう思っているのに、どうして、こんなにも彼のことが気になるのだろう。
胸の奥に生まれた小さな違和感を振り払うように、セシリアはゆっくりと身体を起こした。
今日は非番の日だ。
いつもより遅い時間の起床ではあるが、それでもそろそろ身支度を整えなければならない。
やがて、メイドが控えめに扉を叩いた。
「お嬢様、失礼いたします」
朝の準備を整えられ、簡単に身支度を済ませる。
鏡に映る自分の顔は、普段と変わらぬはずなのに、どこか落ち着かない。
胸の奥のざわめきは、まだ完全には消えていなかった。
それでも気持ちを切り替え、セシリアは食堂へと向かう。
ヴァルモンド伯爵家の朝は、規律正しく、静かだ。
父、兄、母、そして自分。家族が揃って食卓につき、無駄な会話は少ないが、その空気は決して冷たいものではない。
前世の頃とは、何もかもが違う、セシリアの自慢の家族だった。
「セシリア」
父の低い声が響く。
「食事が終わったら、私の部屋に来なさい」
「はい、分かりました。父上」
短く返事をしながら、セシリアはわずかに首を傾げた。
父に呼び出されること自体は珍しくない。
だが、今の声色には、どこか普段と違うものが混じっていた。
そしてそれは、決して良い予感ではない。
食事を終えた後、セシリアは父の執務室へと向かった。
扉の前で一度だけ呼吸を整え、軽くノックする。
「入れ」
中から返ってきた声に従い、扉を開ける。
そこには、普段は騎士らしくどっしりと構えている父と兄には珍しく、どこか落ち着きを欠いた様子で話し込んでいる、二人の姿があった。




