第六話 探し求めた唯一の①(エドガー視点)
エドガー・アルヴェインは、庭園を去っていく少女の背中を、静かに見送っていた。
艶めく金色の髪が、午後の陽光を受けてやわらかく揺れる。
風が吹くたび、その細い髪が光を含み、まるで金糸のようにきらめいた。
彼女は振り返らない。
それでもエドガーは、遠ざかっていくその背中から、一瞬たりとも視線を外さなかった。
胸の奥に、長い間押し込めていた感情が、静かに溢れ出してくる。
「……やっと、見つけた」
その声は、こみ上げるものを押さえきれず、かすかに震えていた。
長い、長い時間を越えて、ようやく辿り着いた。
もう二度と触れることはできないと思っていた、あの人に。
エドガーはそっと、目を閉じる。
脳裏に浮かぶのは、彼がエドガーとしてこの世に生を受けた時から既に覚えていた、遠い昔の記憶だった。
*
ルミナリア王国の王太子、アレクサンダー・ルミナリア。
それが、かつての彼の名だった。
古い歴史を誇る大国、ルミナリア王国の正統なる後継者。
だが、彼が生まれた頃の王国は、父王の治世によって急速に腐敗し始めていた。
王である父は暴君だった。
贅沢と酒に溺れ、国の財を私物のように使い、民の苦しみなど顧みようともしない愚王。
その周囲には、同じように腐った貴族たちが群がっていた。
彼らは王の機嫌を取りながら、国の富を好き放題に吸い上げていく。
その結果、重い税に苦しむのは、いつも民だった。
アレクサンダーがその現実を知ったのは、まだ八歳の頃のことだった。
城下の様子を知りたくて変装をし密かに城下へ出たとき、聞こえてきたのは、民の嘆きの声だった。
「もう払えない……これ以上税を取られたら、家族が飢えてしまう……」
「王は我らのことなど、何も見ていない」
幼い王子の胸に、その言葉は深く突き刺さった。
城へ戻った後も、その声は耳から離れなかった。
そして、このままではこの国は終わってしまうと悟った。
王が国を壊すのならば、自分が王を倒すしかない。
それが、まだ幼い王子の出した結論だった。
やがて年月が過ぎ、アレクサンダーは密かに志を同じくする家臣たちと手を結んだ。
そしてある夜、王城は血に染まった。
父である王と、その側近たちは討たれた。
王族による反乱。だがそれは、国を救うための革命だった。
若き王が誕生した瞬間だった。
それからアレクサンダーは、王として生きた。
民を守るために、そして、傾いてしまった国を、立て直すために。
侵略してくる国には容赦しなかった。
そのうち、他国からは、殺戮王などという異名まで付けられた。
それがルミナリアへの侵攻の抑止力になるなら、使わない手は無いと思った。
一方で、守るべき民には常に誠実であり続けた。
法を整え、腐敗した貴族を排し、国の仕組みを作り直す。
その結果、ルミナリア王国は再び強国として力を取り戻していった。
けれど、まだ問題が残っていた。
戦争で勝つことはできる。だが、民を守り続けるための、守りの力がこの国には足りなかった。
そこでアレクサンダーが目をつけたのが、フランシス王国だった。
フランシス王国の王家には、戦や災厄で傷ついた民を癒す、癒しの魔力がある。
小国でありながら国を保っていられるのは、その力があるからだと聞いた。
(確かあの国には、王女が一人いたはずだ)
現国王に代わってからというもの、フランシス王国は政情も不安定で、国力も決して高くない。
ならば、ルミナリアと同盟を結ぶことは、あちらにとっても利になるだろうと、そう判断したアレクサンダーは、政略結婚を申し入れた。
すると、フランシス王国の王は驚くほどあっさりと了承した。
そして、ルミナリア王城に、王女が訪れた。
その姿を見た瞬間、アレクサンダーはわずかに息を呑んだ。
その姿は、王女とは思えないほど、細く、儚かった。
風が吹けば折れてしまいそうなほど華奢で、どこか全てを諦めた様な寂しい雰囲気を纏っている。
けれどなぜか、目が離せなかった。
緩やかにカーブを描く柔らかな金の髪、透き通るような白い肌。
そして、聖なる癒しの魔力を持った、澄んだ湖を思わせる静かな青い瞳に、自然と目が吸い寄せられた。
以前、一度だけ垣間見たことのあるフランシス王国の王女は、今目の前にいる、彼女ではなかった。
幼いくせにやけに尊大で、王族であることを盾に人を見下し、その振る舞いは、まだ子供とは思えないほど傲慢だったはずだ。
だが、目の前にいるこの女も、確かにフランシス王国の王女であることは間違いない。
瞳に宿る魔力が、それをはっきりと物語っていた。
(二人、居たのか……)
驚くと同時に、彼女が祖国でどういう扱いを受けてきたのかを瞬時に理解し、アレクサンダーは、密かに眉を顰めた。
「初めまして。フランシス公国より参りました、カトリーナ・フランシスと申します」
緊張しているのだろう。
それでも彼女は、美しい所作で丁寧に一礼した。
その姿を見た瞬間、アレクサンダーの胸の奥が、ざわりと揺れた。
「よく来てくれた。安心するといい」
口から出た言葉は、自分でも驚くほど穏やかなものだった。
「其方を蔑ろにするつもりはない」
彼女は少し驚いたように目を瞬かせたあと、ほっとしたように、ほんの少し頬を緩めた。
その表情を見た瞬間、胸の奥で、また、先程感じたむず痒いような違和感が広がった。
それが何なのか、アレクサンダーには分からなかった。
それから、この国で過ごす彼女の姿を見ているうちに、アレクサンダーは、まるで聖女のような人だと思うようになった。
毎日の質の良い食事と穏やかな生活のおかげで、彼女の血色は、ここへ来た頃とは見違えるほど良くなっていた。
その柔らかな表情が、彼にはとても眩しく映った。
彼女は誰に対しても優しく、どんな時も自分を顧みず、他人のことばかりを考えて行動する人だった。
侍女が疲れていれば気遣い、怪我をした騎士がいれば惜しむことなく癒しの魔力を使い、城の者たち一人一人の名前を全て覚えていた。
一日のほとんどの時間を費やし、癒しの魔力を込めて聖堂で祈り続けるその姿は、どこまでもルミナリア国への献身と、慈愛の心に満ち溢れていた。
そんな王族を、アレクサンダーは見たことがなかった。
彼の周囲にいた人間は、皆どこかで欲にまみれていたからだ。
だが、彼女は違った。何も求めず、ただ、誰かの役に立ちたいと願っている。
その在り方が、アレクサンダーには眩しく見えた。
そして、いつしか、彼女と話す時間が増えていた。
政務の合間、庭園での短い会話、食事の席での何気ない言葉。
その時間だけは、王としての重責を忘れられた。
けれど、アレクサンダーは、その感情の名前を知らなかった。
幼い頃から裏切りと死の気配の中で生きてきた王は、人を愛するということを知らなかった。
だからそれが恋だということに、気づけなかった。
彼がその感情を理解したのは、彼女を失った、その瞬間だった。
アレクサンダーが駆けつけたとき、彼女はすでに瀕死だった。
彼は膝をつき、彼女の身体を抱き上げた。
肩を支える腕が、震える。
カトリーナは、ゆっくりと目を開いた。
朦朧とした意識の中、彼の顔を見て、そっと微笑みを浮かべた。
「……どうか、あなたが……幸せでありますように」
腕を上げ、かすかにアレクサンダーの頬に手が触れた。
蚊の鳴くような小さな掠れる声で呟くと、その腕はポトリ、と地面に落ちた。
その瞬間、アレクサンダーは彼女に対するこの感情が、何なのかを理解した。
自分が、彼女を心から愛していたことを、この時になって、彼はやっと気付いたのだった。
だというのに、腕の中で、彼女の体温が急速に失われていく。
冷たくなっていくその身体を強く抱きしめながら、アレクサンダーは強く思った。
お前がいないこの世界で、私は幸せになどなれない、と。
その時だった。
自分が抱きしめている彼女の身体から、何かが滲み出しているのが見えて、アレクサンダーは、はっと息を呑んだ。
まるで生き物のように彼女の周囲にまとわりつき、ゆっくりと命を削り取っている、黒く、濁った禍々しい気配。
その異様な感覚に、アレクサンダーの背筋が凍りついた。
だが同時に、脳裏に浮かんだものがある。
以前にも、同じような気配を感じたことがあった。




