第三話 前世の記憶②
フランシス王国を出たとき、カトリーナは初めて広い世界を見た。
そして、同時に、ルミナリア王国の豊かさに驚いた。
城から遠く離れた村でさえも、穏やかで満ち足りた空気に包まれている。
人々の表情は明るく、子どもたちは笑っていた。
それは、彼女が生まれ育った国では決して見ることのなかった光景だった。
この国の王は、どれほど優れた人物なのだろう。
本当に久しぶりに、感情が動いたカトリーナは、そんなことを考えながら、王城へと向かったのだった。
*
初めて対面したアレクサンダー王は、月光を思わせる銀髪に、深い光を湛えた紫の瞳を宿した鋭く整った顔立ちの男で、カトリーナはその姿に圧倒されてしまった。
寡黙で、表情は乏しいが、その瞳の奥には、確かな理性と強い信念が宿っていた。
「初めまして。フランシス王国より参りました、カトリーナ・フランシスと申します」
小国のフランシス王国とは全く違う、大国の荘厳な王城の謁見の間での挨拶の際、緊張で少し声を震わせてしまったカトリーナに、彼は静かに言った。
「よく来てくれた。安心するといい。其方を蔑ろにするつもりはない」
王としては随分若い、けれど圧倒される様な重厚な迫力のある彼から発せられた、静かに響く言葉。
その一言に、どれほど救われたか分からない。
異国から、国交の為に遣わされた、代替えの姫。その立場はとても重く、そして孤独でもあった。
そんなカトリーナに対し、アレクサンダーはとても誠実だった。
愛の無い政略結婚のはずが、カトリーナは第一印象から既に、彼に好意を持ったのだった。
そして、共に過ごす時間が増えるほどに、アレクサンダーへの敬意は深まっていった。
この国の穏やかな日々が、彼によって守られているのだと知ったからだ。
人を信じる気持ちは、とうに捨てたものだと思っていた。
それでも、カトリーナのその想いは、いつしか愛へと変わっていた。
国民の為に日々奮闘している彼に、自分の力が少しでも役に立てるのならば、どんなことも厭わない。
そんな想いを抱くほどに。
それからカトリーナは、癒しの魔力を使い、城の礼拝堂で祈りを捧げるようになった。
この国の民が安らかに暮らせるように。そして、アレクサンダーが背負う重荷が、少しでも軽くなるように。
カトリーナは毎日、精神がすり減ることも厭わずに、魔力を込めて祈り続けた。
けれど同時に、政略結婚で嫁いだ自分が、彼に愛されるはずがないことも分かっていた。
求めらているのは自分ではなく、カトリーナの身体に流れる、癒しの魔力なのだということは、百も承知だった。
それでも、この城で過ごす日々は、とても幸せだった。
メイドも執事も優しく、皆が彼女を敬ってくれた。
自国では、母が死んでからはいつも不安で、夜、深く眠ることなど出来た日は無かった。
けれど今、この国で、穏やかに眠ることが出来ている。
カトリーナ初めて、心から安心して日々を送れることの幸せを、噛み締めていた。
だが、その幸せも、長くは続かなかった。
結婚から一年が過ぎた頃、属国の王族が集う宮廷晩餐会が開かれた。
そこにフランシス王国の王族も訪れていた。
王と王妃、そして、リリィ。
久しぶりに顔を合わせた妹は、以前にも増して、その美しさに磨きがかかっていた。
だが、王に挨拶に歩み寄ってきたリリィの視線は、カトリーナではなく、まっすぐにアレクサンダーへ向けられていた。
彼の姿を凝視して、リリィは、一瞬、大きく目を見開いた。
まるで信じられないものを見るような、驚いた表情だった。
次の瞬間、リリィの顔から驚きがすっと消え、代わりに悔しさを滲ませた瞳が、今度はカトリーナへと向けられた。
それは、鋭く刺すような視線だった。
その視線を受けた瞬間、胸の奥に、フランシス公国での日々の記憶がよみがえった。
幾度となく向けられてきた、あの冷たい視線。
思わず肩が震えそうになった、その時だった。
そっと、背後からアレクサンダーの腕が伸び、カトリーナの腰に静かに回された。
まるで、大丈夫だと言うかのように。
勇気づけるように回された手は、確かな温もりを持っていた。
あまり感情を表に出すことの無い王だったが、その仕草はあまりにも自然で、まるで仲睦まじい夫婦のように周囲の目には映ったことだろう。
その光景を見たリリィの瞳が、ゆっくりと歪むのを、カトリーナは確かに見た。
羨望、嫉妬、そして、憎しみ。あらゆる負の感情がリリィの周りを煽っていた。
リリィは、カトリーナが自分より幸せそうであることが、どうしても許せないようであった。
けれど、カトリーナにとっては、そんなことはもう、どうだってよかった。
アレクサンダーの逞しい腕が、カトリーナの心を勇気付けてくれたから。
(私にはアレクサンダー様がいる。それに、私はもう、この国の王妃。この国を心から愛しているもの……)
今はもう、かつて抱いた言いようのない悲しみも、あの日リリィに向けた爆発するほどの憎悪も、すべてが遠いもののように思えた。
過去はもはや、今の自分とは切り離されたもの。
これからはただ、アレクサンダーが治めるルミナリア王国のために尽くしていきたいと、心から、そう願っていた。
そして、そう思えたことが、とても誇らしく、嬉しくもあった。
そんな風に思わせてくれたのは、間違いなくアレクサンダーだった。
そしていつか彼に、この気持ちを伝えられたらいいと、そう思った。
そして、その数日後のこと。
カトリーナはその日も城の礼拝堂で祈りを捧げていた。
その時、突然、強烈な胸の痛みに襲われて、そのままその場に倒れ込んだ。
霞がかかったように、視界が揺れる。
何もかもが遠く、周りの音さえもくぐもっている。
その時、誰かが、必死に自分の名を呼んでいる気がした。
重たい瞼を、わずかに持ち上げる。
滲む視界の中に映り込んできたのは、アレクサンダーの姿だった。
胸の奥で、微かに何かがほどけた。
ぼやけたままの輪郭を、確かめるように見上げる。
けれどそこにあった表情は、いつもの寡黙で無表情な彼のものではなかった。
今にも泣き出しそうに、苦しげに歪められた表情。
(どうして、そんな辛そうな顔をしているのですか?そんな辛そうな顔を、しないで……)
そう思った。
けれど、その思いすら、朦朧とした思考の中で、すぐに霧散していった。
指先に、わずかな力を込める。
届くかどうかも分からないまま、そっと手を伸ばした。
彼に何かを伝えたかった、はずだった。
大切なことを言わなければいけない気がして、唇がかすかに動く。
けれど、自分が何を口にしたのかを確かめる前に、すべては白く溶けていった。
彼の腕のぬくもりだけを、かすかに感じながら、カトリーナの意識は静かに途切れていく。
最期の瞬間、カトリーナの胸に浮かんだものは、後悔だった。
結局、最後まで気持ちを伝えることができなかった。
アレクサンダーが自分を愛してくれるはずがないことは分かっていた。
けれど、それでも伝えれば良かった。
「あなたの妻になれて幸せでした」と。
暗闇に沈みながら、彼女は思った。
もしも、もう一度生きられるなら、今度は、違う生き方をしたいと。
カトリーナは深い後悔の中、静かに目を閉じた。
*
前世の記憶を一気に取り戻した十歳のセシリアは、静かに息を吐いた。
「……できれば、思い出したくなかったわ」
前世の自分は弱かった。
誰かに愛されたいと深く思いながら寂しい幼少期を送り、その後せっかく出会えた最愛の人へ思いを伝えることもせず、一方的な恋を抱えたまま、無様に死んだ。
そんな人生は、もう二度と繰り返したくない。
それに、自分がもう一度、ルミナリア王国に生まれ変わったところで、もう、愛した夫はこの世にいない。
前世を思い出してしまった以上、彼以外を愛することなど、できるはずもない。
だから、今世では恋はしない。
それにこの瞬間から、セシリアには、どうしてもやり遂げないといけないことが出来た。
誰にも依存せず、自分の力で生き抜く力をつけて、それを成し得なければならない。
そのために必要なのは、強さだ。
心も、身体も、もう誰にも搾取させない圧倒的な強さ。
セシリアは木剣を握り直した。
まだ小さな手だったが、その瞳には確かな決意が宿っていた。
この人生は、自分のものだ。
だから今度こそ、誰にも奪わせたりしない。




