第二話 前世の記憶①
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カトリーナ・フランシスの母は、フランシス王の側妃だった。
穏やかで優しい女性だったが、生まれつき体が弱く、カトリーナを出産した後、ほどなくしてこの世を去った。
母の死は、カトリーナにとって最初の不幸だった。
そして同時に、それはすべての始まりでもあった。
王妃はもともと、王の寵愛を一身に受けていた側妃である、カトリーナの母を酷く憎んでいた。
その憎しみは、母の死後も消えることはなかった。
そして、その矛先は幼いカトリーナへと向けられた。
王妃はカトリーナの存在を許すことができなかった。
とはいえ、たとえ王妃といえど、王族の血を引く姫を表立って排除することはできない。
フランシス王家の血筋には、代々、その青い瞳に癒しの魔力が宿るとされている。
カトリーナもまた例外なく、淡く緩やかなカーブを描く優しい金髪と、癒しの魔力を宿した穏やかな青い瞳を持って生まれた。
その血を引く王女を害すれば、国内外に波紋を呼ぶことは避けられなかった。
だから彼女は、別の方法を選んだ。
無視し、冷遇し、存在を否定する。それが、王妃のやり方だった。
カトリーナが五歳の頃、王妃にも娘が生まれた。
名前はリリィ。王と王妃の間に生まれた正真正銘の王女だった。
その瞬間から、カトリーナの立場は完全に決まった。
王は、側妃を失った悲しみからか、カトリーナに目を向けることはほとんどなかった。
王妃は当然のようにカトリーナを嫌い、使用人たちもそれに倣った。
王宮の中で、カトリーナを庇う者は一人もいなかった。
王女でありながら、与えられた部屋は城の隅の小さな部屋。
食事は質素で、着るものは使用人と同じ、簡素で質素な衣服。時には、下女のように働かされることさえあった。
それでもカトリーナは泣かなかった。泣いても、誰も助けてはくれないと知っていたからだ。
一方で、リリィは違った。
王と王妃の愛を一身に受け、何不自由なく育った。
金糸のような髪に、宝石のように煌めく青い瞳。
誰もが振り返るほどの美貌を持ち、望むものは何でも手に入る。
その上、リリィは癒しの魔力も、カトリーナよりも強く受け継いでいた。
それが分かってから、王はより一層、リリィを溺愛するようになった。
そうして彼女は、我儘な姫へと育っていった。
そしてリリィは、それがさも当然であるかの様に、カトリーナを蔑み、いじめた。
そのうちに、機嫌が悪いとイライラの吐け口として、カトリーナに暴力を振るう様になった。
服に隠れ見えない箇所を殴られたり、蹴られたり、リリィの理不尽な暴力に耐えるのは、日常のことだった。
ただ一つ、カトリーナには誰にも知られぬように、ずっと大切に隠し持っていた、お守りがあった。
それは、亡き母の形見である、細身で繊細な細工の施された、髪飾りだった。
リリィに見つかってしまえば、どうなるかは分かりきっていた。それだけは、どうしても避けたくて、カトリーナは必死に隠し続けていた。
けれど、ある日、それすらも見つかってしまった。
カトリーナがその事に気がついた時には、既にそれはリリィの手の中にあった。
「返して……」
思わず、声が零れる。
必死に手を伸ばし、奪い返そうとして、その腕を、掴んだ。
「痛いっ!離して!」
甲高い悲鳴が、廊下に響き渡る。
リリィは大袈裟に顔を歪め、涙を滲ませながら訴えた。
結果など、最初から決まっていた。
カトリーナはそのまま連れて行かれ、何も言わせてもらえないまま、ひどい仕打ちを受けた。
そして、薄暗く、埃の匂いが充満する物置小屋へと、放り込まれた。
どれほどの時間が経ったのかも分からない。
痛みと疲労に沈む意識の中で、扉が軋んだ音を立てて開いた。
現れたのは、リリィだった。
その手には、あの髪飾りが握られている。
まるで何の価値もないものを見るような、冷えきった目で、それを眺めながらリリィが言う。
「こんなものが、母親の形見なの?……随分と、安っぽい愛なのね」
リリィの唇が、嘲るように歪む。
そして、ゆっくりと視線を上げ、カトリーナを見下ろした。
「あなたみたいな人間が、大切なものを持っていていいはずがないわ。だから私が壊してあげるわね」
細身の髪飾りが、ぱきり、と折られる乾いた音が、小屋の中にやけに大きく響いた。
その瞬間、カトリーナの胸の奥で、何かが静かに、壊れた。
砕け散った欠片よりもなお鋭い感情が、ゆっくりと、確かに形を持つ。
(どうしてこんな人が、生きているのだろう)
初めてだった。
誰かの存在そのものを、殺してしまいたいと思うほどに強く憎悪したのは。
その黒い感情は、痛みよりも、悲しみよりも深く、カトリーナの胸の奥に、静かに沈んでいった。
そうして月日は流れ、そんなカトリーナの運命を大きく変える日が訪れる。
それはカトリーナが二十一歳、リリィが十六歳になった頃のことだった。
フランシス王家の希少な癒しの魔力を求め、当時、軍事大国として名を馳せていたルミナリア王国から、王家同士の政略結婚の申し出が届いた。
本来、ルミナリアに嫁ぐ予定だったのは、より魔力の強いリリィだった。
けれど、相手の名を聞いた瞬間、彼女は顔を青ざめさせた。
若くして王位についた男、アレクサンダー・ルミナリア。
彼は父王を殺して王になったという噂すらある、冷酷無比な王だった。
人々は彼のことを、殺戮王と呼んでいた。
リリィは泣き叫び、結婚を拒んだ。
そんな娘を哀れに思った王と王妃は、ある決断を下す。
代わりにカトリーナを嫁がせることにしたのだ。
その話を聞いたとき、カトリーナは驚くほど冷静だった。
恐怖など無かった。むしろ、感情そのものを抱くことさえ、億劫に感じるようになっていた。
すべてがどうでもよく、どうなっても構わないと思っていた。
誰かに愛されることを期待することも、誰かに認められることを願うことも、とうの昔に諦めていた。
そしてカトリーナは特に何のためらいもなく、妹の代替えとして嫁ぐことを受け入れたのだった。




