[短編版]結婚式の夜に夫の愛人の妊娠を告げられましたが、すでに準備は整っております
哀れな花嫁は微笑む
夫は結婚式の夜に告げた。
愛人が、身籠っている、と。
もっとも——わたくしは三ヶ月も前から知っていたけれど。
純白のドレスの裾は、まだ花の香りを纏っている。祝福の拍手と音楽の余韻が、壁の向こうにかすかに残っていた。
その中心にいたはずのわたくしは、今や寝室の片隅で、静かに夫の告白を聞いている。
エドワード・ハミルトン。伯爵家次男にして、本日よりわたくしの夫。
「彼女は四ヶ月だ。……君との結婚は、あくまで形式だ」
形式。
まあ、なんて便利な言葉でしょう。
わたくしはゆっくりと瞬きをし、指先で唇を押さえた。震えているように見せるために。呼吸を浅く、視線を揺らし、声を掠れさせる。
「それは……いつからでございますの?」
上出来。自分でも惚れ惚れするほど、傷ついた花嫁の声だった。
けれど内心では、静かに盤面を確認していた。
愛人——イザベル・ブレイ。元商家の娘。現在妊娠四ヶ月。子の父は目の前の男。
彼はすでに子爵家の資産を担保に借財を重ね、わたくしの使用人を二人買収済み。目的は婿入り後の実権掌握。
ええ、すべて調査済みですわ。
「心配はいらない。子が生まれれば、いずれこの家の後継に——」
「それは困りますわ」
思わず本音が零れかける。
いけない。今はまだ、悲劇の花嫁でいなければ。
わたくしは俯き、肩を震わせた。
先に裏切ったのは、そちらです。
ですから、どうかお許しくださいませ。
容赦はいたしません。
*
三ヶ月前。
紅茶の湯気の向こうで、わたくしは報告書を受け取った。
「ブレイ家の娘が、伯爵家次男と密会を」
整った文字。冷静な筆跡。差出人の名はない。だが、誰の手配かは分かっていた。
セドリック・ハミルトン。
伯爵家三男。
エドワードの腹違いの弟。
彼は昔から、兄と一定の距離を保っていた。長男は領地に滞在し、堅実に務めを果たしている。エドワードだけが、常に中央で華やぎを好み、そして——危うかった。
わたくしは封筒を閉じ、穏やかに微笑んだ。
「偶然」という形で、さらに証拠が揃うよう手配する。
愛人の妊娠が露見するのも、使用人の裏切りが発覚するのも、すべて自然に。
盤面は整いつつあった。
*
結婚式の夜。
廊下に出たわたくしを、誰かが見ていた。
視線は一瞬だけ交わる。
暗い金の瞳。理性に閉ざされた光。
セドリック。
彼は何も言わない。ただ、わずかに顎を引く。
——準備は整っております。
その合図を、わたくしだけが読み取った。
*
数日後。
山間の別荘へ向かう馬車は、崖沿いの細道を進んでいた。
霧が低く垂れこめ、雨粒が窓を叩く。
「運が悪いな」
向かいに座るエドワードが肩をすくめる。
「まあ。雨の多い季節ですもの」
穏やかに微笑む。
道が滑りやすいことは、出立前から知っていた。
御者の叫び。馬のいななき。馬車が大きく傾ぐ。
次の瞬間、世界が横転した。
エドワードが体勢を崩し、窓枠にしがみつく。わたくしのドレスの裾を掴み、爪が食い込む。
「アメリア——!」
伸ばせば、届く距離。
それでも、手を掴まなかった。
雨のせいか。手袋のせいか。
それとも——ほんの一瞬、心に浮かんだ考えのせいか。
先に裏切ったのは、あなたですわ。
重みが消えた。
静寂。
霧の向こうから、石が落ちる音だけが返ってくる。
*
葬儀は粛々と行われた。
黒は喪の色。
けれど磨き上げられた絹は、月光のように艶めいていた。
「なんておいたわしい」
同情は甘く、鼻につく。
わたくしは扇を閉じ、完璧な角度で微笑む。
悲劇の未亡人は、強すぎても弱すぎてもいけない。
その中間を歩く。
「今後のご予定は?」
若い侯爵子息が距離を詰める。
値踏み。
「家業は滞りなく」
「もしお困りのことがあれば——」
「彼女はまだ喪中です」
低く澄んだ声が遮る。
振り返らなくても分かる。
セドリック。
「軽率な噂は、故人にも失礼でしょう」
正論。穏やかな微笑み。
けれど、指先がわずかに白い。
抑え込まれた独占欲。
「再婚の打診が増えています」
彼は静かに言う。
「今は私が弾いておりますが」
自由です、と彼は続ける。
「拒むことも、望むことも」
そして、手袋越しにわたくしの指を取った。
公衆の前で許される限界の所作。
唇が触れる。
「私があなたのものであることは、許してください」
瞳が沈む。
逃がさない、と告げる色。
すぐに、理性の檻へ戻る。
甘く危うい独占欲。
それを知るのは、わたくしだけ。
そして——恐怖よりも安心している自分に、微かに笑った。
けれど。
崖のあの瞬間、彼が本当に何を見ていたのか。
それを知るのは、まだ——わたくしだけ。
*
葬儀から七日。
喪はまだ明けていない。
けれど社交界は、未亡人を放ってはおかない。
招待状は日に日に増え、同情と好奇と打算が混ざった視線が、屋敷の門を叩く。
その夜、わたくしは最小限の供を連れ、舞踏会へ姿を見せた。
黒のドレスは質素だが、仕立ては完璧。
宝石はつけない。ただ、真珠を一粒だけ。
「まあ……アメリア様」
ざわめきが広がる。
哀れな未亡人。
若く、美しく、そして莫大な資産を持つ。
これほど分かりやすい“的”はない。
扇を開く。
微笑む。
視線を伏せる。
完璧。
「お久しゅうございますわね」
背後から、甘く粘つく声。
振り向けば、イザベル・ブレイが立っていた。
淡い桃色のドレス。
胸元を強調する意匠。
腹部はまだ目立たないが、ゆったりとした裁ち。
周囲の視線が、一斉にこちらへ集まる。
「お元気そうで何よりですわ、イザベル様」
わたくしは優雅に会釈した。
彼女は一瞬、眉を動かす。
挑発は、通じない。
「お可哀想に……まさか、あのような事故が起きるなんて」
事故。
ええ、事故ですわ。
「本当に。運が悪うございました」
「ですが……あの方は最後まで、わたくしとお腹の子を案じてくださいましたの」
わざとらしく腹部に手を当てる。
ざわめきが濃くなる。
未亡人の前で、妊娠の主張。
愚か。
「それは、よろしゅうございましたわ」
わたくしは微笑みを崩さない。
「お腹の子のためにも、どうかお身体を大切に」
「……ええ?」
イザベルの目が細くなる。
「子爵家の資産を当てにしていた借財の件もございますでしょうし」
静かに、言葉を落とす。
周囲が凍る。
「な……何のことかしら」
「ご存じありませんの? エドワード様が、あなたのためにかなり無理をなさっていたこと」
一拍。
「債権者の方々は、相続放棄で困っていらっしゃるようですわ」
息を呑む音。
イザベルの顔から血の気が引く。
わたくしは扇を閉じた。
「どうかご自愛を。母は強くなければなりませんもの」
完璧な同情の笑み。
彼女は何も言えない。
ざまぁ、という言葉は使わない。
ただ、静かに盤をひっくり返す。
*
「鮮やかでした」
低い声が背後に落ちる。
セドリック。
「やりすぎかしら」
「いいえ。あれで十分です」
彼の視線は、イザベルを追わない。
わたくしだけを見る。
「債権者への根回しは済ませました。子爵家へ請求が来ることはありません」
「ありがとう」
「礼には及びません」
一瞬だけ、声が低くなる。
「当然のことです」
当然。
その言葉の温度が、ほんの少しだけ熱い。
「あなたは、怒っていらした?」
わたくしは問いかける。
彼の指が、わずかに強く扇を握る。
「……兄が、あなたを軽んじたことに」
抑えた声音。
けれど瞳の奥は暗い。
「崖のあの日も」
彼は言葉を切る。
「あなたは、手を伸ばさなかった」
心臓が、わずかに跳ねる。
「見ていらしたの?」
「……ええ」
霧の向こう。
あの高さから、見えていたのか。
「止めることもできた」
彼は続ける。
「ですが、あなたは止めなかった」
静寂。
非難ではない。
確認。
「わたくしを責めますか?」
「いいえ」
即答。
その速さが、怖い。
「あなたが選んだのなら、それが正しい」
理性の言葉。
だが、次の瞬間。
「ただ——」
彼の瞳が沈む。
「もし、あなたが落ちていたら」
声が低くなる。
冷たい。
「世界を壊していたかもしれません」
冗談ではない。
本気。
背筋が、ひやりとする。
けれど。
なぜか——安心する。
「怖い方」
「ええ」
否定しない。
「ですから、あなたの側におります」
理性の檻。
その内側に、猛獣。
「逃げられませんよ」
囁き。
甘い。
危うい。
逃げるつもりは、ない。
わたくしは微笑む。
「では、逃がさないでくださいませ」
一瞬。
彼の呼吸が止まる。
それから、静かに笑った。
「仰せのままに」
夜は深まる。
舞踏会の音楽が遠のき、人々は散り始める。
イザベルはすでに姿を消した。
噂は広がるだろう。
借財。相続放棄。
未亡人の余裕。
そして。
伯爵家三男が、常にその隣にいること。
「再婚の噂が立ちますよ」
「構いませんわ」
「焦らせますか」
「少しだけ」
彼の目が細くなる。
独占欲。
けれど今はまだ、檻の中。
「あなたが望まない限り、私は触れません」
「本当に?」
「……努力します」
その僅かな揺れが、愛おしい。
わたくしは視線を外す。
窓の外には、月。
あの日と同じ、冷たい光。
崖の縁。
伸ばさなかった手。
そして——。
あの瞬間。
セドリックは、何をしていたのか。
本当に、ただ見ていただけ?
それとも。
わたくしより先に、何かを選んでいた?
彼が、兄に手を伸ばさなかった理由。
それは——。
まだ、聞いていない。
そして、きっと。
聞く日は来る。
そのとき、わたくしは——。
*
舞踏会の夜が終わり、馬車が石畳を離れる。
窓の外、月は高く、冷たい。
「お送りいたします」
セドリックは向かいに座るでもなく、わたくしの隣でもない。
斜め向かい。絶妙な距離。
触れない。
けれど、逃がさない距離。
「噂は広がりますわね」
「ええ。あなたに不利な形では」
「有利には?」
「……少しだけ」
わたくしは小さく笑う。
「あなたはいつも、“少し”ですのね」
彼は答えない。
ただ、視線が落ちる。
その沈黙が、重い。
屋敷へ戻ると、使用人たちが静かに頭を下げる。
忠誠は、買うものではない。
示すものだ。
「債権者の件は?」
「すべて整理済みでございます」
「ご苦労様」
わたくしは頷き、奥へ進む。
廊下の奥、窓際に立つ影。
振り返らずとも分かる。
「まだお帰りになりませんの?」
「確認を」
「何を?」
沈黙。
それから、低い声。
「あなたが、揺れていないかを」
胸が、ほんのわずかに波立つ。
「揺れる理由がございまして?」
「……」
彼は一歩、近づく。
近い。
けれど触れない。
理性。
檻。
「崖のあの日」
空気が、変わる。
「私は、あなたよりも早く状況を理解していました」
視線が絡む。
「兄が落ちると」
息が詰まる。
「止められたの?」
「ええ」
即答。
迷いのない声音。
「では、なぜ」
「あなたが、選ぶと思ったからです」
鼓動が強くなる。
「あなたは、誰かに救われる人ではない」
冷たい。
けれど、誇らしげ。
「自分で選ぶ人だ」
静寂。
「だから私は、手を出さなかった」
風が、窓を鳴らす。
「もし、あなたが掴んでいたら?」
問いは、かすれる。
彼はわずかに目を細める。
「そのときは、兄を引き上げたでしょう」
「わたくしが、掴まなかったと分かっていた?」
「……はい」
ぞくり、とする。
信頼か。
放任か。
共犯か。
「あなたは怖い方ですわ」
「存じています」
一歩、さらに近づく。
影が重なる。
「ですが」
声が低く沈む。
「あなたが落ちていたら、私は兄を突き落としてでも、あなたを掴んだ」
凍る。
その言葉には、冗談の色がない。
「世界など、どうでもいい」
瞳が暗い。
深い。
底が見えない。
「あなたがいれば、それでいい」
理性の檻が、きしむ音がした気がした。
危うい。
甘い。
逃げるべき。
——なのに。
「……安心いたしました」
わたくしは微笑む。
「わたくしは、選びましたもの」
彼の呼吸が止まる。
「あなたを、側に置くと」
沈黙。
そして。
彼は、初めて、はっきりと笑った。
理性ではない。
感情の笑み。
「光栄です」
ようやく、彼が膝を折る。
形式でも、義務でもない。
「アメリア」
名を呼ぶ。
公の場では決して呼ばない響き。
「あなたが再婚を望まない限り、私は待ちます」
「望んだら?」
「その相手を消します」
即答。
あまりにも自然に。
思わず、声が漏れる。
「……ふふ」
ああ。
この人は。
わたくしよりも、ずっと危うい。
そして。
わたくしは、それを知った上で、選んだ。
「では、待っていてくださいませ」
「ええ」
「わたくしが、あなたを選ぶ日まで」
彼は立ち上がる。
距離を取る。
理性を、戻す。
「おやすみなさい、未亡人様」
その言葉に、ほんの僅かな独占の色。
わたくしは振り返らない。
部屋へ入る。
扉を閉める。
静寂。
鏡の中の自分を見る。
黒のドレス。
穏やかな微笑み。
哀れな花嫁。
悲劇の未亡人。
——いいえ。
盤面の中央に立つ者。
窓の外。
月が、崖の方角を照らしている。
あの日。
伸ばさなかった手。
伸ばさなかった彼。
そして。
同時に、選んだふたり。
事故だったのか。
必然だったのか。
誰にも分からない。
けれど。
崖のあの瞬間、彼が最初に視線を向けていたのが——わたくしではなく、兄の足元だったことを。
それを知るのは、まだわたくしだけ。
そして。
もしあの日、彼がほんの少しだけ石を蹴っていたとしたら。
その真相を、確かめる日は——
きっと、近い。
(完)
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