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[短編版]結婚式の夜に夫の愛人の妊娠を告げられましたが、すでに準備は整っております

作者: 白昼夢
掲載日:2026/02/26

哀れな花嫁は微笑む





夫は結婚式の夜に告げた。

愛人が、身籠っている、と。

もっとも——わたくしは三ヶ月も前から知っていたけれど。


純白のドレスの裾は、まだ花の香りを纏っている。祝福の拍手と音楽の余韻が、壁の向こうにかすかに残っていた。


その中心にいたはずのわたくしは、今や寝室の片隅で、静かに夫の告白を聞いている。


エドワード・ハミルトン。伯爵家次男にして、本日よりわたくしの夫。


「彼女は四ヶ月だ。……君との結婚は、あくまで形式だ」


形式。


まあ、なんて便利な言葉でしょう。


わたくしはゆっくりと瞬きをし、指先で唇を押さえた。震えているように見せるために。呼吸を浅く、視線を揺らし、声を掠れさせる。


「それは……いつからでございますの?」


上出来。自分でも惚れ惚れするほど、傷ついた花嫁の声だった。


けれど内心では、静かに盤面を確認していた。


愛人——イザベル・ブレイ。元商家の娘。現在妊娠四ヶ月。子の父は目の前の男。

彼はすでに子爵家の資産を担保に借財を重ね、わたくしの使用人を二人買収済み。目的は婿入り後の実権掌握。


ええ、すべて調査済みですわ。


「心配はいらない。子が生まれれば、いずれこの家の後継に——」


「それは困りますわ」


思わず本音が零れかける。


いけない。今はまだ、悲劇の花嫁でいなければ。


わたくしは俯き、肩を震わせた。


先に裏切ったのは、そちらです。


ですから、どうかお許しくださいませ。


容赦はいたしません。







三ヶ月前。


紅茶の湯気の向こうで、わたくしは報告書を受け取った。


「ブレイ家の娘が、伯爵家次男と密会を」


整った文字。冷静な筆跡。差出人の名はない。だが、誰の手配かは分かっていた。


セドリック・ハミルトン。


伯爵家三男。


エドワードの腹違いの弟。


彼は昔から、兄と一定の距離を保っていた。長男は領地に滞在し、堅実に務めを果たしている。エドワードだけが、常に中央で華やぎを好み、そして——危うかった。


わたくしは封筒を閉じ、穏やかに微笑んだ。


「偶然」という形で、さらに証拠が揃うよう手配する。


愛人の妊娠が露見するのも、使用人の裏切りが発覚するのも、すべて自然に。


盤面は整いつつあった。






結婚式の夜。


廊下に出たわたくしを、誰かが見ていた。


視線は一瞬だけ交わる。


暗い金の瞳。理性に閉ざされた光。


セドリック。


彼は何も言わない。ただ、わずかに顎を引く。


——準備は整っております。


その合図を、わたくしだけが読み取った。






数日後。


山間の別荘へ向かう馬車は、崖沿いの細道を進んでいた。


霧が低く垂れこめ、雨粒が窓を叩く。


「運が悪いな」


向かいに座るエドワードが肩をすくめる。


「まあ。雨の多い季節ですもの」


穏やかに微笑む。


道が滑りやすいことは、出立前から知っていた。


御者の叫び。馬のいななき。馬車が大きく傾ぐ。


次の瞬間、世界が横転した。


エドワードが体勢を崩し、窓枠にしがみつく。わたくしのドレスの裾を掴み、爪が食い込む。


「アメリア——!」


伸ばせば、届く距離。


それでも、手を掴まなかった。


雨のせいか。手袋のせいか。


それとも——ほんの一瞬、心に浮かんだ考えのせいか。


先に裏切ったのは、あなたですわ。


重みが消えた。


静寂。


霧の向こうから、石が落ちる音だけが返ってくる。







葬儀は粛々と行われた。


黒は喪の色。


けれど磨き上げられた絹は、月光のように艶めいていた。


「なんておいたわしい」


同情は甘く、鼻につく。


わたくしは扇を閉じ、完璧な角度で微笑む。


悲劇の未亡人は、強すぎても弱すぎてもいけない。


その中間を歩く。


「今後のご予定は?」


若い侯爵子息が距離を詰める。


値踏み。


「家業は滞りなく」


「もしお困りのことがあれば——」


「彼女はまだ喪中です」


低く澄んだ声が遮る。


振り返らなくても分かる。


セドリック。


「軽率な噂は、故人にも失礼でしょう」


正論。穏やかな微笑み。


けれど、指先がわずかに白い。


抑え込まれた独占欲。


「再婚の打診が増えています」


彼は静かに言う。


「今は私が弾いておりますが」


自由です、と彼は続ける。


「拒むことも、望むことも」


そして、手袋越しにわたくしの指を取った。


公衆の前で許される限界の所作。


唇が触れる。


「私があなたのものであることは、許してください」


瞳が沈む。


逃がさない、と告げる色。


すぐに、理性の檻へ戻る。


甘く危うい独占欲。


それを知るのは、わたくしだけ。


そして——恐怖よりも安心している自分に、微かに笑った。


けれど。


崖のあの瞬間、彼が本当に何を見ていたのか。


それを知るのは、まだ——わたくしだけ。







葬儀から七日。


喪はまだ明けていない。

けれど社交界は、未亡人を放ってはおかない。


招待状は日に日に増え、同情と好奇と打算が混ざった視線が、屋敷の門を叩く。


その夜、わたくしは最小限の供を連れ、舞踏会へ姿を見せた。


黒のドレスは質素だが、仕立ては完璧。

宝石はつけない。ただ、真珠を一粒だけ。


「まあ……アメリア様」


ざわめきが広がる。


哀れな未亡人。

若く、美しく、そして莫大な資産を持つ。


これほど分かりやすい“的”はない。


扇を開く。

微笑む。

視線を伏せる。


完璧。


「お久しゅうございますわね」


背後から、甘く粘つく声。


振り向けば、イザベル・ブレイが立っていた。


淡い桃色のドレス。

胸元を強調する意匠。

腹部はまだ目立たないが、ゆったりとした裁ち。


周囲の視線が、一斉にこちらへ集まる。


「お元気そうで何よりですわ、イザベル様」


わたくしは優雅に会釈した。


彼女は一瞬、眉を動かす。


挑発は、通じない。


「お可哀想に……まさか、あのような事故が起きるなんて」


事故。


ええ、事故ですわ。


「本当に。運が悪うございました」


「ですが……あの方は最後まで、わたくしとお腹の子を案じてくださいましたの」


わざとらしく腹部に手を当てる。


ざわめきが濃くなる。


未亡人の前で、妊娠の主張。


愚か。


「それは、よろしゅうございましたわ」


わたくしは微笑みを崩さない。


「お腹の子のためにも、どうかお身体を大切に」


「……ええ?」


イザベルの目が細くなる。


「子爵家の資産を当てにしていた借財の件もございますでしょうし」


静かに、言葉を落とす。


周囲が凍る。


「な……何のことかしら」


「ご存じありませんの? エドワード様が、あなたのためにかなり無理をなさっていたこと」


一拍。


「債権者の方々は、相続放棄で困っていらっしゃるようですわ」


息を呑む音。


イザベルの顔から血の気が引く。


わたくしは扇を閉じた。


「どうかご自愛を。母は強くなければなりませんもの」


完璧な同情の笑み。


彼女は何も言えない。


ざまぁ、という言葉は使わない。

ただ、静かに盤をひっくり返す。






「鮮やかでした」


低い声が背後に落ちる。


セドリック。


「やりすぎかしら」


「いいえ。あれで十分です」


彼の視線は、イザベルを追わない。


わたくしだけを見る。


「債権者への根回しは済ませました。子爵家へ請求が来ることはありません」


「ありがとう」


「礼には及びません」


一瞬だけ、声が低くなる。


「当然のことです」


当然。


その言葉の温度が、ほんの少しだけ熱い。


「あなたは、怒っていらした?」


わたくしは問いかける。


彼の指が、わずかに強く扇を握る。


「……兄が、あなたを軽んじたことに」


抑えた声音。


けれど瞳の奥は暗い。


「崖のあの日も」


彼は言葉を切る。


「あなたは、手を伸ばさなかった」


心臓が、わずかに跳ねる。


「見ていらしたの?」


「……ええ」


霧の向こう。


あの高さから、見えていたのか。


「止めることもできた」


彼は続ける。


「ですが、あなたは止めなかった」


静寂。


非難ではない。


確認。


「わたくしを責めますか?」


「いいえ」


即答。


その速さが、怖い。


「あなたが選んだのなら、それが正しい」


理性の言葉。


だが、次の瞬間。


「ただ——」


彼の瞳が沈む。


「もし、あなたが落ちていたら」


声が低くなる。


冷たい。


「世界を壊していたかもしれません」


冗談ではない。


本気。


背筋が、ひやりとする。


けれど。


なぜか——安心する。


「怖い方」


「ええ」


否定しない。


「ですから、あなたの側におります」


理性の檻。


その内側に、猛獣。


「逃げられませんよ」


囁き。


甘い。


危うい。


逃げるつもりは、ない。


わたくしは微笑む。


「では、逃がさないでくださいませ」


一瞬。


彼の呼吸が止まる。


それから、静かに笑った。


「仰せのままに」




夜は深まる。


舞踏会の音楽が遠のき、人々は散り始める。


イザベルはすでに姿を消した。


噂は広がるだろう。


借財。相続放棄。

未亡人の余裕。


そして。


伯爵家三男が、常にその隣にいること。


「再婚の噂が立ちますよ」


「構いませんわ」


「焦らせますか」


「少しだけ」


彼の目が細くなる。


独占欲。


けれど今はまだ、檻の中。


「あなたが望まない限り、私は触れません」


「本当に?」


「……努力します」


その僅かな揺れが、愛おしい。


わたくしは視線を外す。


窓の外には、月。


あの日と同じ、冷たい光。


崖の縁。


伸ばさなかった手。


そして——。


あの瞬間。


セドリックは、何をしていたのか。


本当に、ただ見ていただけ?


それとも。


わたくしより先に、何かを選んでいた?


彼が、兄に手を伸ばさなかった理由。


それは——。


まだ、聞いていない。


そして、きっと。


聞く日は来る。


そのとき、わたくしは——。







舞踏会の夜が終わり、馬車が石畳を離れる。


窓の外、月は高く、冷たい。


「お送りいたします」


セドリックは向かいに座るでもなく、わたくしの隣でもない。

斜め向かい。絶妙な距離。


触れない。


けれど、逃がさない距離。


「噂は広がりますわね」


「ええ。あなたに不利な形では」


「有利には?」


「……少しだけ」


わたくしは小さく笑う。


「あなたはいつも、“少し”ですのね」


彼は答えない。


ただ、視線が落ちる。


その沈黙が、重い。




屋敷へ戻ると、使用人たちが静かに頭を下げる。


忠誠は、買うものではない。


示すものだ。


「債権者の件は?」


「すべて整理済みでございます」


「ご苦労様」


わたくしは頷き、奥へ進む。


廊下の奥、窓際に立つ影。


振り返らずとも分かる。


「まだお帰りになりませんの?」


「確認を」


「何を?」




沈黙。



それから、低い声。


「あなたが、揺れていないかを」


胸が、ほんのわずかに波立つ。


「揺れる理由がございまして?」


「……」


彼は一歩、近づく。


近い。


けれど触れない。


理性。


檻。


「崖のあの日」


空気が、変わる。


「私は、あなたよりも早く状況を理解していました」


視線が絡む。


「兄が落ちると」


息が詰まる。


「止められたの?」


「ええ」


即答。


迷いのない声音。


「では、なぜ」


「あなたが、選ぶと思ったからです」


鼓動が強くなる。


「あなたは、誰かに救われる人ではない」


冷たい。


けれど、誇らしげ。


「自分で選ぶ人だ」




静寂。




「だから私は、手を出さなかった」


風が、窓を鳴らす。


「もし、あなたが掴んでいたら?」


問いは、かすれる。


彼はわずかに目を細める。


「そのときは、兄を引き上げたでしょう」


「わたくしが、掴まなかったと分かっていた?」


「……はい」


ぞくり、とする。


信頼か。


放任か。


共犯か。


「あなたは怖い方ですわ」


「存じています」


一歩、さらに近づく。


影が重なる。


「ですが」


声が低く沈む。


「あなたが落ちていたら、私は兄を突き落としてでも、あなたを掴んだ」


凍る。


その言葉には、冗談の色がない。


「世界など、どうでもいい」


瞳が暗い。


深い。


底が見えない。


「あなたがいれば、それでいい」


理性の檻が、きしむ音がした気がした。


危うい。


甘い。


逃げるべき。


——なのに。


「……安心いたしました」


わたくしは微笑む。


「わたくしは、選びましたもの」


彼の呼吸が止まる。


「あなたを、側に置くと」


沈黙。


そして。


彼は、初めて、はっきりと笑った。


理性ではない。


感情の笑み。


「光栄です」


ようやく、彼が膝を折る。


形式でも、義務でもない。


「アメリア」


名を呼ぶ。


公の場では決して呼ばない響き。


「あなたが再婚を望まない限り、私は待ちます」


「望んだら?」


「その相手を消します」


即答。


あまりにも自然に。


思わず、声が漏れる。


「……ふふ」


ああ。


この人は。


わたくしよりも、ずっと危うい。


そして。


わたくしは、それを知った上で、選んだ。


「では、待っていてくださいませ」


「ええ」


「わたくしが、あなたを選ぶ日まで」


彼は立ち上がる。


距離を取る。


理性を、戻す。


「おやすみなさい、未亡人様」


その言葉に、ほんの僅かな独占の色。


わたくしは振り返らない。


部屋へ入る。


扉を閉める。


静寂。


鏡の中の自分を見る。


黒のドレス。


穏やかな微笑み。


哀れな花嫁。


悲劇の未亡人。


——いいえ。


盤面の中央に立つ者。


窓の外。


月が、崖の方角を照らしている。


あの日。


伸ばさなかった手。


伸ばさなかった彼。


そして。


同時に、選んだふたり。


事故だったのか。


必然だったのか。


誰にも分からない。


けれど。


崖のあの瞬間、彼が最初に視線を向けていたのが——わたくしではなく、兄の足元だったことを。


それを知るのは、まだわたくしだけ。


そして。


もしあの日、彼がほんの少しだけ石を蹴っていたとしたら。


その真相を、確かめる日は——


きっと、近い。


(完)


最後までお読みくださり、ありがとうございます。


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乗っ取り企ててた癖に嫁を懐柔する前に愛人妊娠させて初夜で宣言ってただの計画性の無いアホ婿では?
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