第5章
その夜、藤蔭宮の別邸は深い静寂に包まれていた。
月は雲間に淡く光り、風が木々を渡り抜ける音だけが響いている。
庭の片隅に置かれた鉢植え――月下美人は、長い眠りから目覚めるように、白い花弁をゆっくりと開き始めていた。
夜にしか咲かぬその花は、一夜にして盛りを終える儚さを宿し、幽玄の香を漂わせている。
やがて裏門がきしみ、蓼科秀隆が姿を現した。
その顔には折檻の痕がまだ残りながらも、瞳はただ一つの存在を求めて輝いていた。
「……秀隆」
縁側に佇んでいた月子が、囁くように名を呼んだ。
白い衣に身を包んだ姿は、月光を受けて花そのもののように見えた。
二人の視線が交わり、言葉よりも先に、互いの胸の奥で決意が確かめられていった。
月下美人の花は、夜の闇に白く浮かび上がり、甘やかな香を放っていた。
その前に立つ二人の影は、まるで花の中に吸い込まれるように寄り添っていた。
「……もう終わりなのよ」
月子の声は震え、瞳には涙が光っていた。
「来月になれば私は他の人の妻となる。父上の命に逆らえぬのなら……せめて、あなたと共にこの夜に終わりたい」
秀隆はその肩を抱き寄せ、強く見つめ返した。
「月子……お前のいない未来など、俺にもない」
「ならば――共に」
月子の声は激情に揺れ、しかし澄み切っていた。
「生きて結ばれぬなら、死にて結ばれましょう。
この花が咲く今宵こそが、私たちの婚儀なのよ」
秀隆の胸に熱が込み上げた。
その言葉は刃のように鋭くも、甘美な響きを持っていた。
「……ああ。ならば、俺はこの命をお前に捧げる。
月下美人が一夜にして咲き誇るように――俺たちの愛も、この夜で永遠となろう」
二人は抱き合い、互いの鼓動を確かめるようにしがみついた。
月光は雲に隠れ、庭を淡い闇が覆い始めていた。
月下美人の花は、ついに大輪を開いた。
純白の花弁が月光を受け、幻のごとく輝いている。
その香は甘く、どこか哀しげに夜を満たしていた。
「……月子」
「秀隆……」
互いの名を呼び合い、二人は固く抱き合った。
涙と共に交わされる口づけは、誓いの印のように深く重かった。
「この世では結ばれなくても、あの世で必ず」
「ええ。今度こそ永遠に」
花が一斉に香りを放つその瞬間、二人は決して戻れぬ道へ歩み出した。
――夜が深まり、風が一陣吹き抜ける。
灯火が揺らぎ、鳥が羽ばたく気配が闇に消えた。
やがて静寂の中、月子の意識は遠のいていった。
――そして。
次に瞼を開けたとき、そこは宮邸の自室だった。
几帳が垂れ、白い寝具に包まれた自分の身体。
傍らには泣き腫らした芙美子の顔があった。
「殿下……! 気が付かれましたか!」
月子は呆然と周囲を見回した。
あの夜の庭も、咲き誇った月下美人も、そして――秀隆の姿も、どこにもなかった。
「……秀隆は……?」
問いかけに、芙美子は言葉を詰まらせ、涙を落とした。
やがて掠れる声で告げた。
「若様は……もう、お戻りにはなりません」
月子の胸に鋭い痛みが走り、息が詰まった。
「なぜ……なぜ、私だけが……!」
その叫びは寝台の上で途切れ、嗚咽へと変わっていった。
外では夜明けの鳥が鳴き、儚い月下美人の花はすでに散り果てていた。
月子が目覚めた翌日、藤蔭宮邸には重苦しい沈黙が漂っていた。
家臣や女官たちは皆、何事もなかったかのように振る舞っている。
けれど、その裏では激しい奔走が進められていた。
典仁親王は書院に役人を集め、低い声で告げた。
「――この件は、決して外に漏らしてはならぬ。
蓼科の若君は自死。月子は心労により神経を病んだ。
それ以外の物語は存在せぬと心得よ」
その声音には、一片の情もなかった。
娘の命よりも、宮家の威信を守ることこそが全て。
それが彼の揺るがぬ信念だった。
澄子妃は几帳の陰で涙を落とし、声を潜めて祈るしかなかった。
芙美子は寝台に伏す月子の手を握りしめ、嗚咽を堪えていた。
一方、月子はただ虚ろな瞳で天井を見つめていた。
秀隆の温もりを奪われた現実は、もはや心を支えるものを何ひとつ残してはくれなかった。
「……私だけが、生きてしまった」
その囁きは誰にも届かず、静まり返った宮邸に溶けていった。




