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第4章

 夜の別邸。

 芙美子の取り計らいで、月子は再び人目を忍んで現れた。

 灯りを落とした庭には、まだ咲かぬ月下美人の鉢植えが白々と佇んでいる。


 やがて裏門から足音がし、秀隆の影が差した。

 折檻を受けたばかりの身はまだ痛みを残していたが、その瞳はただ月子を見つめていた。


「秀隆……!」

 月子は駆け寄り、震える声で名を呼んだ。

 袖越しに触れた身体は熱を帯び、必死に抑え込んだ激情が伝わってくる。


「もう限界なの。父上は私を鷹ノ科宮へ嫁がせようと必死。

 母上も芙美子も……誰も助けてはくれない」


 秀隆はその手を取り、強く抱き寄せた。

「俺も父から厳しく叱責を受けた。……それでも、諦める気はない」


 月子は彼の胸に顔を埋め、嗚咽をこらえながら囁いた。

「ならば……いっそ、共に死にましょう。

 この世で引き裂かれるくらいなら、せめて同じ時に、同じ場所で……」


 秀隆の心臓が大きく脈打つ。

 その言葉は恐ろしくもあり、どこまでも真実味を帯びていた。


「……月子」

 名を呼ぶ声は深く震えていたが、やがて彼は静かに頷いた。

「分かった。ならば、この命をあなたに捧げる。

 月下美人が咲く夜――その時、俺たちは共に」


 鉢植えの蕾が月明かりを受け、わずかに揺れた。

 まだ閉じたままのその花は、やがて訪れる一夜の悲劇を予兆していた。





 幾日かが過ぎ、藤蔭宮邸には再び宮内省の役人が訪れていた。

 重々しい足音とともに、書院の空気は張りつめる。


「藤蔭宮殿下。鷹ノ科宮家との縁談につき、納采の儀の日取りが定まりました」

 役人の声が静かに響いた。

「来月十五日、鷹ノ科宮家邸宅にて執り行われます」


 典仁親王は満足げに頷き、静かに扇を動かした。

「よき日取りであるな。宮家の名を汚すことなく、栄えある結びとなろう」


 几帳の陰で控える澄子妃は、袖口を握りしめた。

 瞳に憂いを宿しながらも、声を発することはできなかった。


 一方、月子は胸の奥に鋭い痛みを覚えていた。

 その瞬間、自分の運命が決定的に閉じられたことを悟ったのだ。


 ――あとひと月。

 その言葉が、心を容赦なく締めつけた。



 夜。邸の几帳の内で、月子は両手を膝に押し当て、身じろぎもせず座り込んでいた。

 昼間、宮内省から伝えられた「来月十五日」という日付が、耳にこびりついて離れない。

 花嫁衣裳に身を包む自分の姿を想像するたび、胸は締めつけられ、呼吸さえ苦しくなる。


「……殿下」

 そっと現れた芙美子が声をかけた。

 顔を上げた月子の瞳には、すでに涙が光っていた。


「芙美子……もう終わりなのね。あとひと月で私は……」

「殿下……」

「私は秀隆を忘れることなんてできない。忘れて嫁ぐくらいなら、私は……」


 その声は震え、激情に揺れていた。

「私は命を絶ちたい。いっそ、あの人と共に――」


 芙美子は慌てて月子の肩を抱き寄せた。

「いけません! 殿下、そのようなこと……。どうかお思い直しを」


「いいえ、もう決めたの」

 月子は涙で濡れた頬を上げ、かすかに笑んだ。

「芙美子、あの夜、秀隆と約束をしたの。

 月下美人が咲く夜――そのとき私たちは一緒にいる、と」


 芙美子の胸に恐ろしい予感が走った。

 目の前の少女は、もはや止めどきかぬ流れに足を踏み入れていた。



 寄宿舎の一室。

 黄ばんだ新聞紙を手にした三雲英介は、重々しい顔で秀隆を見た。


「……読んだか。来月十五日、納采の儀だとさ」

 紙面には「鷹ノ科宮貞仁王と藤蔭宮月子内親王のご婚儀」と大きく記されていた。


 秀隆は静かに目を伏せ、そして顔を上げた。

「……分かっている。だからこそ、もう迷わぬ」


 英介は思わず声を荒げた。

「おい秀隆! まだ間に合う、殿下を想うなら身を引け!

 このままじゃお前も殿下も……」


 だが秀隆の瞳には、凄烈な光が宿っていた。

「英介、俺はもう生き延びる道など求めていない。

 彼女と引き裂かれるくらいなら、共に逝く。それが俺の答えだ」


 三雲は言葉を失った。

 沈黙ののち、苦く笑い、新聞を畳んで机に置いた。

「……お前は昔からそうだ。まっすぐで、愚かで、羨ましい」


 窓の外では、雲間から覗いた月が淡く光を放っていた。

 その光は、これから訪れる悲劇の夜を静かに告げているかのようだった。



 納采の儀の日取りが告げられてから幾日か。

 藤蔭宮邸では、花嫁支度のための人々の出入りが絶えなかった。

 白無垢や打掛の衣装合わせ、嫁入り道具の用意、形ばかりの笑顔で応じる月子。


「まあ、なんとお美しい……」

 女官たちが感嘆の声を上げるたびに、月子は微笑を作った。

 だが、その瞳の奥はどこまでも冷たく沈んでいた。


「月子……」

 傍らにいた澄子妃は、娘の心の内を悟り、声を震わせた。

 だが月子は静かに首を振り、母の手をそっと握った。

「母上、どうか……心配なさらないで。私は大丈夫」


 その言葉は優しく響いたが、澄子妃には分かっていた。

 娘の瞳に、未来を生きる光はすでに宿っていないことを。


 几帳の陰で、乳母・芙美子は袖を噛み、必死に涙を堪えていた。

 ――この方はもう、決して戻ってこられない。


 白無垢の裾がさらりと広がり、金糸の刺繍が月光を受けて輝いた。

 それは祝福の光ではなく、悲劇へと向かう灯火のように見えた。


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