第3章
ある夜更け、蓼科伯爵は執務室で帳簿を繰っていた。
そこへ、召使いの一人が躊躇いがちに姿を現した。
「……旦那様。恐れながら、若様のことで」
伯爵は眉をひそめ、顔を上げた。
「申せ」
召使いは小声で続けた。
「近ごろ若様は、夜ごと外出されております。怪しい様子に思い、恐れながら後をつけましたところ……」
「……!」
「藤蔭宮殿下と、人目を忍んでお会いになっておられました」
その言葉に、伯爵の手が机上の硯を強く打った。
「愚か者め……!」
声は低く唸り、怒りを抑えきれぬ響きを帯びていた。
翌日、秀隆は父に呼び出された。
広間に跪かされると、伯爵の眼差しは氷のように冷たい。
「内親王殿下と会っていたな」
「……」
沈黙が肯定に変わった瞬間、伯爵の手が振り下ろされた。
「この愚か者が! 宮家の姫を汚せば、蓼科の名は地に堕ちるのだぞ!」
怒声と共に、畳に響く折檻の音。
秀隆は歯を食いしばり、声を上げなかった。
ただ、胸の奥で月子の名を呼び続けていた。
秀隆が座敷で折檻を受け、静まり返った後のことだった。
蓼科伯爵は重々しい足取りで書院に戻り、机に向かった。
そこへ、綾子夫人が烈しい足音で踏み込んできた。
「あなたという人は! 息子が宮家の姫と密会していたなど、なんという不始末!」
その声は鋭く、怒りに満ちていた。
伯爵は顔を上げることなく、低く答えた。
「だからこそ折檻した。家の名を守るためだ」
「守る? あの子が不始末をしでかした時点で、すでに蓼科家の名は地に堕ちておりますわ!」
綾子夫人は扇を打ち鳴らし、唇を震わせた。
「私は天皇陛下の姪。その私がこの家に降嫁してやったからこそ、この蓼科の名も保たれてきたのです!
それを、このような恥さらし……!」
伯爵はようやく顔を上げ、冷ややかな眼差しで妻を見た。
「ならば、跡目を繋ぐために産んだ息子が死んでも構わぬというのか」
「……構いませんわ!」
綾子夫人は吐き捨てるように言い切った。
「息子など、宮家の誇りを汚すくらいなら不要ですわ!」
その声は座敷の奥まで響き、なお余韻を残した。
廊下の陰でその言葉を耳にした秀隆は、拳を握りしめ、ただ黙ってその場を離れた。
寄宿舎の一室。
机のランプに照らされた秀隆の横顔には、まだ折檻の痕が痛々しく残っていた。
額に浮かぶ汗を拭いもせず、彼はただ黙然と机に向かっている。
「……ひどい顔だな」
扉を押し開け、三雲英介が入ってきた。
軽口の響きはあったが、その目には深い憂色が宿っていた。
「伯爵に知られたんだな」
秀隆は答えず、唇を固く結んだまま拳を握りしめる。
沈黙がすべてを物語っていた。
「正気か、お前。……このままじゃ本当に破滅するぞ。宮家の姫と心中沙汰なんて、誰が許す」
英介の声はいつになく真剣だった。
秀隆は顔を上げ、まっすぐに友を見た。
「……許されなくていい。俺はもう、あの方なしでは生きられない」
その瞳に宿る光は、苦悩を超えて凄烈だった。
英介は言葉を失い、やがて机に拳を落とした。
「愚か者め……。だが、それを止められない俺も同じくらい愚かだ」
夜更けの静寂に、二人の呼吸だけが響いた。
英介の胸には、友を失う予感とどうしようもない無力感が、重くのしかかっていた。
翌朝、月子は母の居室に呼ばれた。
几帳の奥には、澄子妃が静かに座していた。
その顔は疲れに翳り、夜も眠れぬまま娘を案じていたのが一目で分かった。
「月子……顔色が優れませんね」
母の声は穏やかだったが、その瞳は憂いに沈んでいた。
月子は唇を噛み、堪えていた言葉を吐き出した。
「母上……私、このままでは……息ができません。
秀隆を想う心を押し殺し、知らぬ方に嫁ぐなんて……そんなこと、できません」
澄子妃の目に涙が滲んだ。
「分かっております……。あなたの苦しみを、誰よりも分かっているのは母です。
けれど……私は、あなたを守れる力がないのです」
月子は震える声で問うた。
「どうして……母上まで私を見捨てるのですか」
澄子妃は娘の手を取り、強く握った。
「見捨てはしません。ただ……私は父宮に逆らえないのです。男子を授からなかったこの身に、声を上げる権利はないのです」
母の嗚咽が静かな室内に響いた。
月子は涙に濡れた瞳で母を見つめ、やがて力なく俯いた。
「……ならば、私はどうすれば」
澄子妃は答えられなかった。
ただ娘の手を握りしめながら、己の無力さを呪うのみだった。




