表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/11

第2章

 その日、月子は乳母・芙美子に伴われて、父の所有する別邸を訪れていた。

「療養を兼ねて静養に」との名目だったが、本当の理由を知るのは芙美子ただ一人。

 庭の一隅に置かれた月下美人の鉢植えが、夜の訪れを待つように静かに葉を広げていた。


 やがて裏門から忍ぶように姿を現したのは、蓼科秀隆であった。

 月子の瞳が潤み、駆け寄った瞬間、二人は言葉を交わすより早く手を取り合った。


「……殿下」

「いいえ、もう“殿下”なんて呼ばないで。月子と呼んで」


 秀隆は戸惑い、しかしやがて低く囁いた。

「……月子」

 その名を呼ぶ声に、月子の胸は熱く震えた。


 二人は縁側に腰を下ろし、互いの手を握りしめながら、幼いころの記憶を語り合った。

 あの夜、まだ蕾だった月下美人。

「いつか、あの花が咲く夜にまた」と交わした約束。


「この花が咲くとき……私たちはまた一緒に」

 月子がそう呟くと、秀隆は真剣な眼差しで頷いた。

「たとえどんな障害があろうとも、必ず」


 庭の月下美人は、今はまだ固い蕾を閉じたままだった。

 だが二人の心には、すでに熱い花が咲き始めていた。




 別邸での密会から数日が過ぎた。

 月子は昼も夜も、胸の奥に燃える思いを抑えることができなかった。

 けれど父の目は厳しく、再び秀隆に会うことは叶わない。


「芙美子……お願い。これを、彼に」

 几帳の陰で月子が差し出したのは、白地に薄紫の香を焚きしめた封書だった。

 震える指で封じられた文には、切々たる想いがしたためられていた。


 > ――先日の夜、あなたと交わした言葉が今も胸を離れませぬ。

 > この心、いかにして鎮めましょう。

 > もし再びお会いできぬならば、私は……。


 芙美子は娘の切迫した表情を見て、黙って文を受け取った。

「……殿下のお心を背負うのは、この芙美子。必ずや」


 やがて数日後、秀隆のもとへ密かに文が届いた。

 封を切った瞬間、甘やかな香がふわりと漂い、彼の胸は激しく高鳴った。


 > ――あなたを想うことこそ、わが生の証。

 > たとえこの身がどうなろうとも、私はあなたのもとへ。


 その一文に、秀隆は深く目を閉じた。

「……月子」





 学習院の寄宿舎。窓の外では雨が降り始め、しとしとと夜を濡らしていた。

 机に頬杖をついた三雲英介は、向かいに座る秀隆をじっと見据えた。


「なぁ秀隆。……殿下から手紙が届いたんだろう?」

 秀隆の肩がわずかに震えた。

「……どうして分かる」

「顔に書いてあるさ。浮かれて眠れてないのが丸わかりだ」


 英介は深くため息をつき、椅子にもたれた。

「もうやめろ。宮家のお姫様と伯爵家の嫡男が密かに文を交わす――見つかれば一巻の終わりだ。お前も、殿下もだ」


 秀隆は唇を噛みしめ、机の上で拳を固く握った。

「分かっている……。それでも、会わずにはいられない。あの方は……俺のすべてだ」


 その声音に、英介はしばし言葉を失った。

 やがて彼はゆっくりと立ち上がり、窓の外の雨を見つめた。


「……まったく。お前ってやつは、どうしようもないな」

 英介は振り返り、真剣な眼差しを向けた。

「一度だけだ。明日、黄昏時の公園で。俺が段取りする」


 秀隆の瞳が大きく見開かれた。

「英介……」

「勘違いするなよ。俺は応援してるわけじゃない。ただ、お前が破滅に向かって突っ走るのを、せめて見届けてやるだけだ」


 苦笑しながらも、英介の目には微かな憂いが滲んでいた。




 黄昏の公園には、春の花も散り果て、人影はまばらだった。

 街灯に明かりが灯り始め、柔らかな橙色が並木道を照らす。


 三雲英介はベンチの脇に立ち、周囲を警戒しながら腕を組んでいた。

 やがて足音が近づき、息を弾ませて秀隆が現れる。


「殿下は……?」

「もう来ている」


 英介が目で示した先、木立の影にひとりの女性が立っていた。

 帽の庇から覗く瞳が、秀隆を見つけるや否や輝きを帯びる。

「……秀隆!」


 その声に応えるように、秀隆は駆け寄り、月子の手を強く握った。

「また……会えた」

「ええ。ほんの少しの時でも、こうして会えれば……」


 二人は並んでベンチに腰掛けた。

 夕暮れの風が衣の裾を揺らし、都会の喧騒が遠くにかすかに響く。


「月子……このままでは、お前は他の人に嫁いでしまう。俺は……どうすれば」

「秀隆。私も分からない。ただ、心だけは……誰にも渡したくない」


 月子の瞳から涙が溢れ落ちた。

 秀隆はその涙を拭い、静かに抱き寄せた。

「……もし全てを失うことになっても、俺はお前を選ぶ」


 英介は木陰からその姿を見つめ、深くため息を吐いた。

 ――もう誰にも止められない。

 そう思うと同時に、胸の奥にどうしようもない不安が広がっていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ