第2章
その日、月子は乳母・芙美子に伴われて、父の所有する別邸を訪れていた。
「療養を兼ねて静養に」との名目だったが、本当の理由を知るのは芙美子ただ一人。
庭の一隅に置かれた月下美人の鉢植えが、夜の訪れを待つように静かに葉を広げていた。
やがて裏門から忍ぶように姿を現したのは、蓼科秀隆であった。
月子の瞳が潤み、駆け寄った瞬間、二人は言葉を交わすより早く手を取り合った。
「……殿下」
「いいえ、もう“殿下”なんて呼ばないで。月子と呼んで」
秀隆は戸惑い、しかしやがて低く囁いた。
「……月子」
その名を呼ぶ声に、月子の胸は熱く震えた。
二人は縁側に腰を下ろし、互いの手を握りしめながら、幼いころの記憶を語り合った。
あの夜、まだ蕾だった月下美人。
「いつか、あの花が咲く夜にまた」と交わした約束。
「この花が咲くとき……私たちはまた一緒に」
月子がそう呟くと、秀隆は真剣な眼差しで頷いた。
「たとえどんな障害があろうとも、必ず」
庭の月下美人は、今はまだ固い蕾を閉じたままだった。
だが二人の心には、すでに熱い花が咲き始めていた。
別邸での密会から数日が過ぎた。
月子は昼も夜も、胸の奥に燃える思いを抑えることができなかった。
けれど父の目は厳しく、再び秀隆に会うことは叶わない。
「芙美子……お願い。これを、彼に」
几帳の陰で月子が差し出したのは、白地に薄紫の香を焚きしめた封書だった。
震える指で封じられた文には、切々たる想いがしたためられていた。
> ――先日の夜、あなたと交わした言葉が今も胸を離れませぬ。
> この心、いかにして鎮めましょう。
> もし再びお会いできぬならば、私は……。
芙美子は娘の切迫した表情を見て、黙って文を受け取った。
「……殿下のお心を背負うのは、この芙美子。必ずや」
やがて数日後、秀隆のもとへ密かに文が届いた。
封を切った瞬間、甘やかな香がふわりと漂い、彼の胸は激しく高鳴った。
> ――あなたを想うことこそ、わが生の証。
> たとえこの身がどうなろうとも、私はあなたのもとへ。
その一文に、秀隆は深く目を閉じた。
「……月子」
学習院の寄宿舎。窓の外では雨が降り始め、しとしとと夜を濡らしていた。
机に頬杖をついた三雲英介は、向かいに座る秀隆をじっと見据えた。
「なぁ秀隆。……殿下から手紙が届いたんだろう?」
秀隆の肩がわずかに震えた。
「……どうして分かる」
「顔に書いてあるさ。浮かれて眠れてないのが丸わかりだ」
英介は深くため息をつき、椅子にもたれた。
「もうやめろ。宮家のお姫様と伯爵家の嫡男が密かに文を交わす――見つかれば一巻の終わりだ。お前も、殿下もだ」
秀隆は唇を噛みしめ、机の上で拳を固く握った。
「分かっている……。それでも、会わずにはいられない。あの方は……俺のすべてだ」
その声音に、英介はしばし言葉を失った。
やがて彼はゆっくりと立ち上がり、窓の外の雨を見つめた。
「……まったく。お前ってやつは、どうしようもないな」
英介は振り返り、真剣な眼差しを向けた。
「一度だけだ。明日、黄昏時の公園で。俺が段取りする」
秀隆の瞳が大きく見開かれた。
「英介……」
「勘違いするなよ。俺は応援してるわけじゃない。ただ、お前が破滅に向かって突っ走るのを、せめて見届けてやるだけだ」
苦笑しながらも、英介の目には微かな憂いが滲んでいた。
黄昏の公園には、春の花も散り果て、人影はまばらだった。
街灯に明かりが灯り始め、柔らかな橙色が並木道を照らす。
三雲英介はベンチの脇に立ち、周囲を警戒しながら腕を組んでいた。
やがて足音が近づき、息を弾ませて秀隆が現れる。
「殿下は……?」
「もう来ている」
英介が目で示した先、木立の影にひとりの女性が立っていた。
帽の庇から覗く瞳が、秀隆を見つけるや否や輝きを帯びる。
「……秀隆!」
その声に応えるように、秀隆は駆け寄り、月子の手を強く握った。
「また……会えた」
「ええ。ほんの少しの時でも、こうして会えれば……」
二人は並んでベンチに腰掛けた。
夕暮れの風が衣の裾を揺らし、都会の喧騒が遠くにかすかに響く。
「月子……このままでは、お前は他の人に嫁いでしまう。俺は……どうすれば」
「秀隆。私も分からない。ただ、心だけは……誰にも渡したくない」
月子の瞳から涙が溢れ落ちた。
秀隆はその涙を拭い、静かに抱き寄せた。
「……もし全てを失うことになっても、俺はお前を選ぶ」
英介は木陰からその姿を見つめ、深くため息を吐いた。
――もう誰にも止められない。
そう思うと同時に、胸の奥にどうしようもない不安が広がっていった。




